第七話 一九九三年 【純愛の微熱と、静かな終わり】
理系への進学を決意し、古い価値観に縛られた職員室で自分の意志を貫いたその日の夕暮れ。真由子は、受験勉強と部活の合間に時間を作ってくれた浩平と、二人きりで過ごしていた。
浩平の部屋。西日が差し込む静かな空間で、二人は初めて、互いのすべてを預け合うように、深く強く抱き合った。
一度目の人生では味わえなかった、震えるような高揚感と、浩平の真っ直ぐな愛。真由子の中にある十六歳になろうとしている身体も、四十九歳の魂も、彼の温もりに溺れそうになっていた。
静寂の中で、浩平が真由子を優しく抱きしめ、彼女の髪をなぞった。
「……真由子。さっきの話、本当なの?」
「……うん。私、理系に進むことにしたの。薬学部を目指して、将来はちゃんと働きたいから」
真由子の言葉に、浩平の腕に少しだけ力が入った。彼は、慈しむような、けれどどこか寂しげな瞳で真由子を見つめた。
「そんなに頑張らなくていいよ。……女の子は、そんなに苦労しなくていい。俺、絶対にこのまま国立大学に行って、ちゃんと就職するから。真由子は、ずっと家で笑ってて。俺が、一生君を養うから」
それは、一九九三年の浩平が捧げられる、最大級の愛の告白だった。
だがその瞬間、真由子の脳裏をよぎったのは、二〇二六年のあのリビングだった。
ソファで寝そべりながら「俺だけの給料で食べていけるだろ」と冷笑していた健二。
浩平の言葉は、それとは比較にならないほど純粋で、温かい。けれど、その根底にあるのは「自分に従属させ、守ってあげる」という、女性を主体性のある人間として認めない、あの頃の古い価値観そのものだった。
(ああ……)
真由子の中で、何かが決定的に音を立てて崩れ落ちた。
この人は、とても優しい。けれど、私の生きる世界を共に歩むことはできない人だ。
真由子は無意識に、彼の腕を解いて別れを告げようと息を吸い込んだ。
だが、すんでのところでその言葉を喉の奥に飲み込んだ。
(だめだ。ここで私が彼を突き放したら……)
浩平は高校三年生だ。来月には、彼にとって高校生活最後となる、夏の吹奏楽コンクールが控えている。ここで別れを告げれば、真面目で繊細な彼の心は砕け散り、あの瑞々しいトランペットの音は確実に死んでしまうだろう。
一度目の人生でも、二度目の人生でも、彼は真由子に誠実な愛情を向けてくれた。その彼の集大成の夏を、自分の手で台無しにする権利などない。
「……ありがとう、浩平先輩」
真由子は、込み上げる絶望と悲しみを必死に胸の奥に押し込め、浩平の胸元に顔を埋めた。自分の泣きそうな顔を、彼に見せないように。
「真由子? どうしたの、震えてる……」
「ううん、なんでもないの」
ダメージを受けていたのは、真由子のほうだった。大好きな人からの最高の愛の言葉が、自分にとっての絶望であるという矛盾。胸が、裂けるように痛かった。
その日の帰り道。
夕闇の中を一人で歩きながら、真由子は誰に気を遣うこともなく、ボロボロと涙を溢した。
(コンクールが終わったら。先輩の最後の夏が終わったら……その時に、別れよう)
終わってしまった初恋の残骸を抱えたまま、笑って夏をやり過ごす。それが、四十九歳の魂を持つ真由子が選んだ、浩平への最後の誠意であり、残酷な罰だった。




