第六話 一九九三年 【文理選択と、氷河期の記憶】
あれから、まる二年が経った。
一九九三年、春。真由子は、中学生にとっての「他校」という途方もない距離を乗り越え、高校生になった浩平との交際を穏やかに成就させ続けてきた。
そして晴れて、浩平や、かつて健二が通っていた地元の進学校・松本蒼峰高校への入学を果たしたのだ。
真新しい制服に身を包み、足を踏み入れた吹奏楽部の部室。
真由子の視線は、壁の一番目立つ場所に飾られた一枚の写真に釘付けになった。
それは、松本蒼峰高校吹奏楽部が最も輝かしい成績を残した年——健二が学生指揮者としてタクトを振り、サックスを吹いていた代の、コンクールの記念写真だった。
色褪せ始めた写真の中で、傲慢なほどの自信に満ちた笑みを浮かべる若き日の元夫。
(健二さん……)
真由子は写真の彼を真っ直ぐに見据え、心の中で静かに宣戦布告をした。
(今回は、あなたの影に隠れて生きるつもりはないわ。必ず、あなたと対等になってみせる)
高校生活が始まり、最初の期末テストが近づく頃。
一年生の教室では、早くも来年度の「文理選択」の話題が駆け巡っていた。
「女子は文系選んでおけばいいから、楽だよなー」
「だよね。数学とか絶対無理だし」
クラスメイトの男子や女子たちが、のんきな声でそんな会話を交わしているのを、真由子は静かに聞いていた。
(まさか。今度は絶対に間違えない)
真由子は手元の希望調査票の『理系』の欄に、迷わず丸をつけた。
父に指示した資産防衛は完璧に成功し、実家には十分なお金が残っている。とはいえ、国立大学に合格できればそれに越したことはない。
一度目の人生。真由子は地元の国立大学の「経済学部」に進学した。
学問自体は楽しかったし、個性的な教授や友人に出会えたことは財産になった。しかし、大学を出た真由子を待っていたのは、残酷な『就職氷河期』だった。
当時は、どんなに優秀であっても「大卒の女子は年齢が高くとうが立っている(生意気だ)」という理由で、企業から門前払いされるのが当たり前の時代だった。
社会が求めていたのは「若くて可愛い、男性職員のお嫁さん候補になる短大卒の女の子」だ。東京の大企業に早々と就職を決めた同じゼミの男子学生は、就職先の先輩から「山積みの女子の履歴書から、好みの顔の子を選んでおけ」と言われたと笑っていた。
二〇二六年の感覚からすれば信じられないような女性蔑視だが、それが一九九〇年代後半のリアルな社会だったのだ。
何社も落ち続け、やっとの思いで真由子を事務職として雇ってくれた小さな会社の社長は、面接で申し訳なさそうにこう言った。
『うちには、産休や育休で代わりの人を雇う余裕がないんだ。だから、結婚する時は寿退社してほしい』
その条件を呑むしか、真由子が社会に出る方法はなかった。
そんな閉塞感の中で出会ったのが、証券マンとしてキラキラと輝き、圧倒的な経済力を持つ健二だった。
(あの頃の私は、自立を諦めて、健二さんとの結婚に逃げてしまったところがあったのかもしれない……)
今度は、あんな人生は絶対に歩まない。
結婚しようがしまいが、自分の足で立ち続けられる「手に職」をつけるのだ。
理系で就職しやすい学部。純粋な興味で言えば工学部にも惹かれたが、将来的な研究の道や、女性が一生の資格として働きやすい環境を考えれば『薬学部』が最適解だった。
提出期限の翌日。
『理系・薬学部志望』という希望票を提出した真由子は、放課後の職員室に呼び出された。
当時の古い価値観をそのまま煮詰めたような、五十代の男性担任・阿部が、真由子の希望票を呆れたように指の腹で叩いていた。
「浅野。お前、女の子のくせに理系に行くのか? しかも薬学なんて、女の子の就職先もないし、そのまま大学院に行ったらお嫁に行き遅れるぞ」
その言葉に、周囲にいた数人の教師がクスクスと、あるいは同調するように頷く。
四十九歳の精神を持つ真由子にとって、それは聞き飽きた「古い時代の不協和音」だった。けれど、胸の奥から湧き上がる怒りは、制御できないほど熱かった。
「阿部先生。私は、誰かのお嫁さんになるために学校に来ているわけじゃありません」
真由子は、真っ直ぐに担任の目を見据えた。
「私は、自分の足で立ちたいんです。誰かに養ってもらうための予備校として、大学時代を過ごすつもりはありません。私は、科学の力で誰かの命を救う、研究者になりたいんです!」
凛とした声が職員室に響き渡り、騒がしかった室内が一瞬で静まり返った。阿部が顔を真っ赤にして何かを言い返そうと口を開いた、その時だった。
「——いいじゃないか。素晴らしい志だ」
低く、落ち着いた声が横から差し込まれた。
振り返ると、そこには吹奏楽部の顧問であり、物理教師でもある宮坂が立っていた。彼は白衣のポケットに手を入れ、穏やかな笑みを浮かべて阿部のデスクを指先でトントンと叩いた。
「阿部先生、時代は変わっているよ。物理学の世界でも、性別なんて関係ない。真実を追求する情熱があるかどうかだけだ。浅野はクラリネットも緻密に計算して吹くタイプだからね。理系の適性は、僕が保証するよ」
「……宮坂先生まで何を」
阿部は苦々しい顔をしたが、学年主任も務める宮坂の言葉には逆らえず、舌打ちをして視線を逸らした。
「ありがとうございます、宮坂先生」
「期待しているよ、浅野。物理、しっかり教えてあげるからね」
宮坂の温かい「助け舟」に、真由子は深く頭を下げた。自分の進む道は、やはりこちらなのだと、改めて確信した瞬間だった。




