第五話 一九九〇〜一九九一年 【予言の成就と、第二ボタンの告白】
夏が終わり、秋風が吹き始めた頃。
真由子の「予言」は恐ろしいほど正確に現実のものとなった。
日経平均株価が大暴落を起こし、一時期は二万円を割り込む事態にまで陥ったのだ。連日テレビや新聞が報じる悲観的なニュースを前に、父は文字通り真っ青な顔をして居間のソファに座り込んでいた。
「ま、真由子の言った通りになった……。どうしよう、これ以上下がる前に、今すぐ損切りで全部売った方がいいのか……?」
うろたえる父の前に、真由子は黒ビニールの生徒手帳を開いて座った。その顔は、十二歳の少女のものではなく、長年相場を生き抜いてきたベテラン投資家のように落ち着き払っている。
「お父さん、落ち着いて。売るのは『今』じゃないの」
「えっ? でも、このままじゃもっと下がるんじゃ……」
「来年の春、もう一度株価は持ち直すわ。二万七千円台まで戻ったタイミングが来るから、その時に未練を残さず全て売って。一株も残さずに、全部よ」
真由子はそこで言葉を切り、さらに念を押すように身を乗り出した。
「それでね、株を売って作ったお金は、そのまま『できるだけ長い定期預金』にして。できれば十年の定期に。これから金利もどんどん下がっちゃうから、今のうちに高い金利で固定しておくのが一番安全なの。いい? 絶対に他の投資に回したりしないでね」
迷いのない具体的な指示に、父は息を呑んだ。
「お前……一体、どうしてそんなことまでわかるんだ?」
「内緒。でも、絶対に信じてね。我が家の未来がかかってるんだから」
父は食い入るように真由子の目を見つめ、やがて深く頷いた。
「……わかった。お前の言う通りにする。約束するよ」
張り詰めていた空気がふっと緩んだ。父は少し肩の力を抜き、冗談めかして笑った。
「そんなに未来がわかるなら、今年の有馬記念、どの馬が勝つかわかるか?」
「競馬? そんなの、わかるわけないじゃない」
真由子は肩をすくめた。
「なんだかものすごく有名な馬が、引退レースのラストランで優勝して、みんなが泣いて感動したことぐらいしか覚えてないわ」
「なんだそれ。たしかに今年の有馬はオグリキャップの引退レースになるだろうけど、最近のあいつはボロボロだぞ。奇跡の復活劇なんて、それこそ漫画みたいな話じゃないか」
父がワハハと笑い、真由子も釣られて笑った。
こうして、真由子の実家は致命的な資産喪失を免れ、彼女の最初のミッションである「資産防衛」は見事に成功を収めたのだった。
年が明け、季節は春。一九九一年、三月。
中学校の体育館周辺は、卒業式を終えた三年生と、彼らを囲む在校生たちでごった返していた。
一度目の人生のこの日。真由子は、憧れの浩平が黙って制服の第二ボタンを渡しに来てくれたことに驚き、ただそれを受け取るだけで一言もしゃべることができなかった。
言葉を交わさなかった不器用な始まりが、のちのすれ違いや「自然消滅」の遠因になってしまったのだと、四十九歳の真由子は知っている。
だから、二回目の真由子は違った。
(受け身で待つのではなく、自分から浩平先輩を探そう)
そう決意し、なぜか隣でソワソワしている美穂に声をかけようとした、その時だった。
「浅野さん、ちょっといいかな」
不意に声をかけられ振り返ると、そこには顔を真っ赤にした男子生徒が立っていた。ええと、誰だっけ……たしか、委員会が一緒だった三年生だ。
「はい。何かご用でしょうか?」
「その……何というか。今まで委員会で一緒で、俺、ずっと浅野さんのことが……」
彼が意を決したように言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間。
真由子の視界の端に、トロンボーンパートの先輩に腕を引っ張られ、半ば引きずられるようにして歩いてくる浩平の姿が飛び込んできた。
(あ、浩平先輩だ!)
「すみません、失礼します!」
真由子は目の前の男子生徒が醸し出す甘い空気を一瞬で断ち切り、ぺこりと頭を下げると、浩平のもとへ一直線に駆け出していった。残された男子生徒は、口を開けたまま呆然と立ち尽くしている。
「浩平先輩。ご卒業、おめでとうございます」
真由子の澄んだ声に振り返った浩平は、彼女の顔を見るなり、首まで真っ赤に染まった。
彼は何も言わず、自分の学生服から引きちぎった第二ボタンを、真由子の目の前に不器用に差し出した。そして、真由子がそれを受け取った瞬間、恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、くるりと背を向けて足早に立ち去ろうとした。
「待って」
真由子の凜とした声が、浩平の背中を引き留めた。
ビクッと肩を震わせて振り返る浩平に、真由子は一歩近づき、大人の余裕と中学生らしい純粋さを絶妙に混ぜ合わせた微笑みを向けた。
「浩平先輩。……ちゃんと言葉で、言ってほしいです」
「えっ……あ、その……」
浩平は目を白黒させ、周囲の視線を気にしながらも、真由子の逃げ場のない真っ直ぐな瞳に観念したように息を吸い込んだ。
「ま、真由子ちゃんが……好きです! 僕と、付き合ってください!」
それは、真面目でシャイな浩平にとって、間違いなく一生に一度の大告白だった。
真っ赤な顔で頭を下げる初恋の少年に、真由子は心の中で優しく微笑みかけ、はっきりと頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
少し離れた校舎の陰では、浩平を連れてきたトロンボーンの先輩と、真由子の親友である美穂、そして吹奏楽部の数人が二人の様子をこっそりと見守っていた。
「おーおー、ついに言ったな。浩平のやつ、ホント時間かかりすぎだろ」
「ホントですよー。私たちが裏でお膳立てして、やっとですよね……あー、よかったぁ」
ホッと胸を撫で下ろす美穂だったが、彼女の視線は、先ほど真由子に見事に置き去りにされた可哀想な『委員会の先輩』にも向けられていた。
(真由子ってば、他人の恋愛にはすぐ気づくくせに、さっきの先輩が告白しに来てたことには全然気づいてなかった……。自分に向けられた好意には、呆れるくらいニブイんだから)
こうして、二度目の人生の春、真由子は浩平と晴れてカップルになった。
彼とは価値観の違いでいずれ別れることになるかもしれない。しかし、今回は決して「自然消滅」などという逃げ方はしない。彼としっかり向き合い、自分の意志で関係を築き、そして自立への道を選ぶために。
真由子の掌の中で、浩平の第二ボタンが春の陽光を反射して、きらりと光った。




