第四話 一九九〇年 【オセロのファンファーレと、プログラムの氏名】
一九九〇年、夏。
長野県吹奏楽コンクール、県大会。
真由子たちの通う中学校は激戦の中信地区予選を見事に勝ち抜き、中信地区代表としてこの県大会のステージに立っていた。
本来、一年生がこの時期にコンクールのステージに上がることは稀だ。しかし、六月から急激に、それこそ「長年吹き込んできたベテラン」のような音を奏で始めた真由子は、顧問の先生にその実力を認められ、異例の早さでコンクールメンバーに選抜されていた。
自由曲はアルフレッド・リード作曲、組曲『オセロ』。
いよいよ、本番の幕が上がる。
第四楽章の冒頭。静寂を切り裂くようなトランペットのファンファーレがホールに響き渡った。
三年生の部長、浩平の吹く音は、驚くほど瑞々しく、まっすぐで、美しい。
ステージ上の真由子は、自分の内側で十二歳の身体が「ときめき」に震えるのを感じていた。四十九歳の精神は冷静にその旋律を分析しているというのに、身体は彼のひたむきな音色に、本能的に反応してしまう。
(浩平先輩は、本当に……素敵な人だな)
それは、一度目の人生では気づけなかった、彼の心の清らかさそのもののような音だった。
しかし、健闘も虚しく、結果は「ダメ金」——金賞を受賞しながらも、次の東海大会への代表権は得られない——という、吹奏楽部員にとって最も悔しい結果に終わった。
浩平たち三年生は、これで引退となる。進学校である松本蒼峰高校への入学を目指す彼は、明日から楽器をペンに持ち替え、受験勉強一筋の生活に入るのだ。
楽器の積み込みを終えた夕暮れ時、浩平が少し照れくさそうに真由子に話しかけてきた。
「浅野さん。明後日さ、今年は珍しく松本で高校の県大会があるらしいんだ。……よかったら、みんなで見に行かないか?」
真由子は、二つ返事で頷いた。
浩平が一生分の勇気を振り絞って誘ってくれたことは、大人の精神を持つ真由子には痛いほど伝わっていた。その純粋な気持ちには、せめて誠実に応えたいと思ったのだ。
当日。
待ち合わせ場所である中学校の前に行ってみると、そこにいたのは浩平一人だけだった。他の部員たちが気を利かせて「来られなくなった」のか、あるいは最初から二人を応援するつもりだったのか。
結局、二人はそのまま二人きりで県大会を見に行くことになった。
この年の高校の部は、長野地区のレベルが圧倒的だった。
健二たちの通う松本蒼峰高校も、長野市の強豪校が放つ凄まじい熱量を上回ることはできず、真由子たちと同じ「ダメ金」に終わる。
それでも、健二のサックスの音色はやはり暴力的で、抗いがたい魅力があった。だが、四十九歳の精神を持つ真由子の耳をそれ以上に捉えて離さなかったのは、あの実直なホルンの音だった。
(あの健二さんの猛々しい音を、たった一音で調和させてしまうような、深い知性と包容力を感じる響き……)
一度目の人生でも、たしか健二から「親友だ」と紹介されたはずだ。しかし、当時の真由子にとって彼は、健二という強烈な主役の光に掻き消された、ただの輪郭を持たない影でしかなかった。悲しいほどに、名前すら思い出せない。あの頃の真由子は、眩しい健二のことしか見ていなかったのだ。
手元のコンクールのプログラムには学校名と曲名しか記載されておらず、あの素晴らしい音を奏でたホルン奏者の名前を確認することはできない。あの音が気になって仕方ないのに、もどかしさだけが募った。
会場を出ると、松本の街はまだコンクールの余熱を帯びたまま、夕闇に包まれようとしていた。
「……次は、浅野さんたちの番だね。来年からも頑張ってよ。浅野さん、すごくクラリネット上手いから、正直びっくりした」
別れ際、浩平が真っ赤な顔をして、それでもしっかりと真由子の目を見て言った。
真由子は、優しく微笑み返した。
「先輩こそ。松本蒼峰高校を目指して、受験勉強頑張ってくださいね」
目一杯の、心からの笑顔で送り出す。
それが、一度目の人生で「自然消滅」という形で逃げてしまった浩平に対する、彼女なりの償いであり、最初の一歩だった。
夜。自室に戻った真由子は、引き出しの奥から一冊のパンフレットを引っ張り出した。
六月に市民会館で行われた、松本蒼峰高校の定期演奏会のプログラムだ。これなら、部員の個人の名前が載っている。
ページをめくり、三年生のメンバー表を探す。
ホルンパートの欄に、その名を見つけた。
『佐藤 誠』
(佐藤、誠さん……)
そうだ、思い出した。ホルンの佐藤さんだ。
一度目の人生ではただの『健二の親友』として、名もなき風景の一部のようにしか認識していなかったけれど、今の真由子にははっきりとわかる。
(あの人は、ただの背景なんかじゃない)
プログラムの活字を指先でなぞりながら、真由子は『佐藤誠』という名前を脳裏に深く刻み込んだ。
机の上には、未来の記録を書き留めた黒ビニールの生徒手帳が置かれている。真由子はペンを手に取り、新しいページを開いた。
(ああそうだ。今日の、あのホルンの音のことも手帳に書いておこう——)
これからの相場の動きや、世界の重大ニュース。そして、二度と同じ轍を踏まないために書き殴った、健二からの凄惨なモラハラの記憶。 生き残るための打算と冷たいトラウマだけで埋め尽くされたその黒い手帳に、ただ純粋に心を揺さぶられた「温かい音の記憶」が、初めて書き込まれた瞬間だった。
第四話 吹奏楽用語辞典
・吹奏楽コンクール
いわゆる『吹奏楽の甲子園』。地区大会、都道府県大会、支部大会(本作における「東海大会」など)を勝ち抜いた強豪校だけが、全国大会のステージに立つことができます。
・クラリネット
黒い管体が特徴的な木管楽器。暖かく丸みのある低音から、輝かしく澄んだ高音まで広い音域を持ち、吹奏楽ではメロディを担当することが多い「楽団の主役(オーケストラにおけるバイオリンのような立ち位置)」です。




