第三話 一九九〇年 【生徒手帳の予言書と、バブルの幻影】
松本蒼峰高校の定期演奏会の熱狂と、かつての初恋相手である浩平とのやり取りの余韻が冷めやらぬまま、真由子は家に帰った。
タイムリープして、一番最初にやるべきこと。
それは、実家の経済基盤——「お金」を守ることだ。
真由子はまっすぐに居間へ向かうと、新聞を広げていた父の前に座った。
「お父さん、大事なお話があるの。聞いて」
「ん? どうした真由子。改まって」
「今すぐ、持っている株とゴルフの会員権を全部売ってください。これからどんどん下がります。このままだと、うちのお金、どんどんなくなっちゃう。お願い」
真剣な声で訴える娘を見て、父はキョトンとした後、ワハハと大爆笑した。
「真由子、お前、急に何を言い出すんだ。そんなわけないじゃないか。たしかに今は株価が一時的に下がっているけどな、こんなのはただの調整だよ。またすぐ元に戻る。会員権だって、持っていれば上がる一方だぞ」
一九九〇年の初夏。世間はまだ、バブルという熱病の幻影の中にいた。
今年に入ってから株価は下落に転じていたものの、多くの大人が「またすぐ上がる」と信じて疑わなかった時代だ。ただの中学一年生の言葉など、本気にするはずがない。
真由子は小さく溜め息をついた。
「……そうね。今は信じられないわよね」
無理もない。ここで泣き喚いても仕方がないのだ。
「でも、秋になったらものすごく下がるから。その時にもう一回話をするね。絶対、覚えといてよ、お父さん」
「はいはい、わかったよ」と笑う父を残し、真由子は二階の自室に戻った。
机に向かい、引き出しを開ける。
「忘れないうちに、この後の日本の動きを書き留めておかないと。何か手帳は……これでいいか」
取り出したのは、入学したばかりの中学校から配られた、真新しい生徒手帳だった。
どこにでもある、安っぽい黒色のビニール表紙。
十二歳の少女には似つかわしくないその無機質で実用本位な手帳を、真由子はパラパラとめくる。まだ真っ白なそのページに、これから彼女の人生を導く、あるいは狂わせる「未来の断片」を書き込んでいくのだ。
真由子はペンを握ると、記憶の中にある歴史のターニングポイントや、これからの三十年間の株の値動きを、暗号のような細かい文字で書き込んでいった。
すらすらと手が動く。当然だ。真由子にとって、株価の推移は文字通り「血肉を分けた記憶」なのだから。
一度目の人生。真由子は自分がパートや派遣の仕事を掛け持ちして稼いだお金の半分を、投資に回していた。遥が理系の大学に進学したときの莫大な学費を作るためだ。真由子一人の労働収入を貯金するだけでは到底足りず、生活費を切り詰めて捻出したなけなしの資金をすべて投資に回して増やすしかなかった。
だが、夫の健二は証券会社のトップセールスマンだ。妻である真由子名義で証券口座を開けば、必ず彼の目にとまり、お金を奪われるか、文句を言われる。
だから真由子は、すべて父の名義を借りて投資をしていた。グレーな方法だとわかっていたが、健二の監視から遥の学費を守るには、それしか方法がなかったのだ。
その必死の運用のおかげで、ここ三十年間の相場の値動き——ITバブル、リーマンショック、アベノミクス、コロナ禍の乱高下――買い時も売り時も、真由子の頭にはすべて完璧に入っている。
一度目の人生で、真由子の実家は「いつか戻る」と信じて株と会員権を売らずに持ち続け、真由子が大学受験をする頃にはすっかり資産を溶かしてしまっていた。だから真由子は私立大学への進学など到底無理で、地元の国立大学(文系)に進むしかなかった。
晩年、父はよく後悔を口にしていた。
『平成二年の夏か、遅くとも平成三年の春までに売るべきだった。湾岸戦争があったりで乱高下したけれど、平成三年の春が、売り抜ける最後のタイミングだったんだ。あそこで欲を出さず、余剰資金をすべて十年定期預金にしておけば、あんなに減ることもなかったのにな……』
(お父さん。今度は、きっちりその通りに動いてもらいますからね)
黒ビニールの手帳を埋め尽くす、数字と事実の羅列。
これ一冊で、日本中の投資家が狂喜乱舞し、あるいは絶望するだけの価値がある。そんな重すぎる「予言書」を手に、真由子は自嘲気味に笑った。
せっかく十二歳の身体に戻ったというのに、一番最初に必死になって考えているのが「お金」と「資産防衛」だなんて。
「……でも、まあいっか」
お金の苦労は、もう二度とごめんだ。遥を迎え入れ、自分の好きな学問を極めるためには、強固な経済基盤という「盾」が絶対に必要になる。
「明日からは、中学生としての青春もちゃんと楽しもうっと」
ペンを置き、真由子は十二歳のベッドに大の字で寝転んだ。
松本の夏の夜の少しひんやりとした風が、窓から吹き込んでくる。真由子の二度目の中学生活が、静かに、そして確実に動き出そうとしていた。
※作中の主人公の投資手法(借名取引)は、現実では違法行為となります。ルールを犯してまで娘の学費を隠さなければならなかったという、健二の経済的DVの苛烈さを描くためのフィクション上の演出です。現実では絶対に真似しないでくださいね。




