第二話 一九九〇年 【運命の残響と、最初の駆け引き】
市民会館のロビーは、地元の吹奏楽部員たちの熱気でごった返していた。
それもそのはず、開演前のロビーコンサートと称して健二がサックスアンサンブルを披露している。
「花岡さん!」「カッコいい、こっち向いてー!」
黄色い歓声を上げる女子中高生たちを、真由子はどこか遠い世界のことのように冷めた目で見つめながら、高校生の壁に阻まれて観覧できず諦めた美穂に連れられて客席に着いた。
まもなく、第一部の幕が上がる。
ひんやりとしたホールの空気と、開演直前の独特の緊張感。懐かしい、吹奏楽の空気だ。
(そういえば、遥が生まれてからは、健二さんと二人でこういう場所に出かけることもすっかりなくなったな……)
開演を待つ間、隣の美穂がふとため息をついた。
「私ね、来年『おばさん』になるんだって。ガーン」
「え?」
「うちのお姉ちゃん、あ、八歳上のほうのお姉ちゃんね。このあいだ結婚したじゃん? もう子供ができたんだって。今『つわり』ってやつで、ホカホカのご飯の匂いがダメって言ってトイレに駆け込んでたの。誰かのお嫁さんになるって憧れるけど、大変だよねぇ」
(そうなのよ、美穂。子育てってすごく大変なの。ましてや一ミリも手伝ってくれない、みんなが素敵だと思い込んでいるあの旦那様だと、本当に苦労するわよ……)
真由子は内心で深く頷きながら、苦笑を浮かべた。
やがて、ステージが明るくなる。
二度目の人生の健二は、まだ彼女の夫ではない。「王子様」として君臨する、輝かしい才能の塊だ。
ステージの中央に立つ花岡健二は、中高生が夢中になるのも無理はないほど、眩しかった。長身、端正な顔立ち、そして何より——サックスが抜群に上手い。まるで何でも持っているスーパーマンだ。
(……中身は、あのモラハラ男なんだけどね)
健二の指揮で始まったのは、アルフレッド・リードの『エル・カミーノ・レアル』。
吹奏楽の神様がまだ現役だった時代。時の流れの残酷さと愛おしさを噛みしめながら、真由子は音に耳を傾けた。
健二の指揮は、高校生とは思えないほど鮮やかだった。バンドを自在に操り、生き生きとした音楽を紡ぎ出している。十二歳の時の真由子は健二の背中しか見ていなかったけれど、今の彼女には「バンドの音」が聞こえる。
その時、ふと一つの音が耳に飛び込んできた。
難曲『エル・カミーノ・レアル』の跳躍する最初のモチーフを、軽々と吹きこなしているホルンの音。
(この人……すごく上手い)
真由子はその後も、無意識のうちにそのホルンの音を耳でなぞっていた。
派手ではないが、抜群にピッチが良く、深く、実直にリズムを刻むホルンの音。
旋律を吹く時は音の粒を立たせてさりげなく音を目立たせ、リズムを刻む時は正確にそして決して出過ぎない。すべてが『ちょうどいい』バランスの演奏。
でも、なんといっても、音。
まるで全体を後ろから支え、絶対に安全な場所へと導いてくれるような、不思議な安心感のある音色。
どこか、知っているような気がする。
ステージのホルンパートに目をやると、そのホルン奏者は見覚えのある青年だった。
たしか、一度目の人生で健二が「親友だ」と言って紹介してくれた、市民バンドの……。
(名前、なんだったっけ。忘れちゃったな)
パーカッションにも見覚えのある顔がある。思い出せない自分に「私も歳をとったものね」と内心で苦笑し、真由子は再びステージに意識を戻した。
休憩中。ロビーで声をかけてきたのは、自校の吹奏楽部の部長、三年生の浩平だった。
「——浅野さん。その服、小学生みたいだね」
真由子は昔から、他人が自分に向ける好意や恋心にすこぶる鈍感な人間だ。
十二歳の時の彼女なら、憧れの先輩からわざわざからかわれた意味もわからず、ただ顔を真っ赤にしてうつむいていただろう。
けれど、中身が四十九歳である今の真由子には、この「少し意地悪な言い回し」の裏にある感情が手に取るようにわかる。一度目の人生で、このあと告白されるという『答え合わせ』が済んでいるからだ。
(あ、そうか。わざわざ服装をいじってくるってことは、私のことが気になってる証拠ね。ふふ、やだもう、小学生男子なんだから)
浩平は、真由子の人生で初めての彼氏だった人だ。
今の彼女なら、この「初恋」をもう少し上手く扱える。真由子は、落ち着いた薄い笑みを浮かべて彼を見上げた。
「じゃあ、浩平先輩。今度一緒に、私に似合う服を見に行ってくれますか?」
「えっ……え、ええ!? ……う、うん。まあ、期末テストが終わったら、行こうか」
動揺して目を泳がせる浩平。
(ふふ、かわいい。おばちゃん、キュンキュンしちゃうわ)
そう思った瞬間、真由子の顔がカッと熱くなった。
心は四十九歳でも、身体は十二歳の正直な反応を返してくる。このアンバランスさが、なんだかおかしくて、愛おしい。
第二部。タクトを振るのは顧問の宮坂先生だ。このあと三年間お世話になる、温厚で尊敬できる恩師。
その合奏の中、健二が吹くサックスのソロが響き渡った。
暴力的で、強引で、けれど抗いがたいほどに魅力的な音。
タクトに合わせて揺れる彼の姿から、どうしても目を離すことができない。
(……悔しいけれど、やっぱり素敵だ。この才能だけは、本物なんだ)
「二度と顔も見たくない」と強く誓ったはずなのに、ステージで圧倒的な光を放つ彼を見ると、胸の奥が締め付けられるように高鳴ってしまう。
ひどい夫だった。けれど、あんなに愛した人でもあったのだ。
真由子は、自分の中にくすぶっている「彼へのどうしようもない恋心」を自覚し、静かに決意を新たにした。
もう一度、愛する遥をこの手に抱きしめるために。
今度は健二の影に隠れて磨り減るのではなく、私自身が対等に歩ける強さを手に入れて、彼との関係を正しく再構築してみせる。
一九九〇年の夏。真由子の、二度目の戦いが本格的に幕を開けた。
第二話 吹奏楽用語辞典
・サックス
サクソフォンのこと。金属で作られており見かけは金ピカですが、発音体の仕組み(リードを用いること)から、クラリネットと同じ「木管楽器」に分類されます。
・ホルン
カタツムリのような丸い形状をした金管楽器。某記録紙に、「世界で一番難しい金管楽器」として登録されているほど、音程のコントロールや美しい音色を保つのが難しい楽器とされています。
・タクト
合奏のテンポや曲のニュアンス、表情を指揮者が演奏者に伝えるために振る「指揮棒」のことです。




