おまけ 二〇〇三年晩夏【緊急記者会見と、ドヤ顔の計算機】
「高校生の時からって……ちょっと待って。浅野さんが高校生の時に、大学生の佐藤先生と付き合ってたってこと!?」
「うそ、それってまずいんじゃない!? あの完璧な佐藤先生、まさかの犯罪者!?」
薬剤部のスタッフルームは、私のうっかり発言によって蜂の巣をつついたような大パニックに陥っていた。
「ち、違います! 付き合ってたわけじゃなくて、ただの部活の先輩と後輩で……っ!」
私が必死に弁解しようとするものの、興奮のるつぼと化した先輩薬剤師たちの耳には届かない。
「でも、あの佐藤先生が高校生に手を出してたなんて……!」
「待って、みんな落ち着いて!」
暴走する「佐藤犯罪疑惑」をバッサリと斬り捨てたのは、中堅薬剤師の市川さんだった。
「私、証言できるわ。二年前……平成十三年の十月二十日。私、佐藤先生に日直を代わってもらったんだけどね」
市川さんは名探偵のように眼鏡を光らせ、全員の視線を集めた。
「佐藤先生、最初は『忙しい』って渋ってたの。でも、『もう一人の当番は浅野さんなんだけど』って言った瞬間、あからさまに声がウキウキして、すぐ引き受けてくれたのよ。……つまり、あの日の時点ではまだ付き合ってなかった。でも、佐藤先生の片思いは完全に始まってたってこと!」
「「「きゃああああーっ!!」」」
犯罪疑惑は晴れたものの、今度は「あの佐藤先生がウキウキで日直を代わった」という事実が燃料となり、同僚たちのボルテージはさらに跳ね上がった。
「そういえば私、去年の冬に◯ップルランドで二人を見たわ! 夫婦みたいに楽しそうにネギ選んでた!」
「私も! 病院の近くの定食屋で、佐藤先生が浅野さんの魚の骨を取ってあげてるのを見た!」
「ちょっと待って、もしかして……」
ベテランの先輩が、何かに気づいたようにハッと息を呑んだ。
「あの第二内科の小林先生、一時期やたらと浅野さんに話しかけに来てたじゃない? あれ、いつの間にかパッタリ来なくなったわよね。あの時期、佐藤先生が小林先生の処方箋に、それはもう鬼のような形相で毎日緻密な疑義照会を叩きつけてたのよ! しかも全部佐藤先生の指摘が的確すぎて、小林先生、完全に心が折れてたわ……!」
「うそっ! じゃあ、去年の忘年会で浅野さんの隣に座ろうとしてた第一外科の若い先生が、直前に顔面蒼白で帰ったのも……!」
「あー! あれ、佐藤先生と同じ研究チームの子だ! 翌日から『佐藤先生から致死量の課題とデータ分析を押し付けられた、寝られない』って泣いてた!!」
「ていうか、浅野さんに近づこうとしてた男、全員佐藤先生の見えないファイアウォールでブロックされてたんじゃない!?」
「「「こわっ!! 重っ!!」」」
「えっ、ええっ……!?」
全く身に覚えのない——いや、私の鈍感さゆえに気づいていなかっただけの——恐るべき暗躍の数々が次々と暴露され、私は震え上がった。 あの完璧な人間計算機は、私が知らない水面下で、近づく男の人をすべて徹底的かつ合法的に排除していたのだ。
次々と飛び出す目撃証言と被害報告。完全に包囲網が敷かれ、私が頭を抱えてしゃがみ込んだ、まさにその時だった。
「——みなさん、午後の調剤業務が始まりますが、どうしました?」
スタッフルームのドアが開き、張本人の佐藤誠が、何事もなかったかのような氷のように冷徹な顔で入ってきた。
部屋の空気を一切読まない(おそらく読んでいてあえて無視している)その態度に、一瞬だけ場が静まり返る。
しかし、今日の薬剤部(主に女性陣)は無敵だった。
「佐藤先生!」
勇気を持った先輩薬剤師の一人が、特攻隊長のごとく誠さんの前に進み出た。
「『真由子ちゃん』とは、一体いつからお付き合いされていたんですか!? 高校生の時からですか!? 気になって夜も眠れません!!」
単刀直入すぎる質問。
さすがの誠さんも、この追及には言葉を濁すか、はぐらかすだろう。私はハラハラしながら彼を見上げた。
しかし、誠さんは一切表情を変えず、淡々と、いつものカンファレンスと同じトーンでこう言い放ったのだ。
「僕は、彼女が高校生の時から好きでした」
「……えっ」
「彼女が立派な大人になるまで何年も待機し、確実に僕のものにするための計画を立てて、プロポーズしました。……他に質問は?」
シーーーーーン。
スタッフルームの時が止まった。
隠すどころか、自らの「重すぎる愛と執念の待機期間」を堂々と、しかも無表情で宣言しきった彼に、全員の脳が処理落ちを起こしたのだ。
(こ、この人……! 自分で何を言ってるか分かってるの!?)
私自身すら知らなかったあまりの衝撃的な告白に、頭はクラクラと揺れ、貧血のように視界が白くフェードアウトしそうになった。よろめいた私の身体が傾く。
「真由子ちゃん!」
その瞬間、誠さんは氷の仮面をかなぐり捨て、光の速さで私の腰を抱き留めた。
「ごめん、無理をさせた。少し休もう」
そして、完全にフリーズしている同僚たちを置き去りにして、私(とお腹の子供)だけを抱き抱えるようにして、風のようなスピードでスタッフルームから去っていった。
残された薬剤部のメンバーたちは、致死量の甘さと衝撃を浴びて卒倒寸前となり、誰も一言も言葉を発することができなかった。こうして、S大病院伝説の「緊急記者会見」は、強制終了となったのである。
一方、スタッフルームを光の速さで抜け出し、誰もいない廊下の角を曲がったところ。
私を腕の中に抱きとめたままの誠さんは、ふう、と小さく息を吐いた。
「……誠さん、あんなこと、みんなの前で堂々と言わなくても……」
私がポツリと呟くと、誠さんはフッと口角を上げた。
「事実を述べたまでだよ。これで二度と、君に変な詮索をする人間はいなくなる。最も効率的で、完璧なリスク管理だ」
完璧な論理武装。そして、誰にも文句を言わせない圧倒的なドヤ顔。
しかし、私は至近距離から見て、気づいてしまった。
彼のドヤ顔の奥、眼鏡のフレームにかかる耳の先から首筋にかけてが、ゆでダコのように真っ赤に染まりきっていることに。
(……この人、本当は恥ずかしくて死にそうなくせに、私のために必死で強がったんだ)
「……ふふっ」
「……何がおかしいんだい」
「ううん。誠さんは、相変わらずかっこいいなって思っただけ」
真っ赤な耳のままドヤ顔を崩さない不器用な愛しき計算機に、私はたまらなく愛おしさを感じ、彼の白衣の胸元にそっとおでこを擦り付けた。




