第三十七話 二〇〇三年秋【答えの出ない選択と、恩師の生温かい目】
翌日の夜。
怒涛のような一日を終え、二人はついに「夫婦」として誠の実家へと帰り着いた。
昨夜、誠の平身低頭かつ汗だくの熱意によって、真由子の両親からは無事に「入籍前倒し」の許しを得ていた。
実際のところ、真由子の両親は、松本の旧家の次男でT大卒のエリートである誠を「絶対に逃してはならない超・優良物件」と見なしていた。真由子が週末ごとに外泊していても一切口出しせず、むしろ「既成事実を作ってさっさと結婚してしまえ」とすら思っていた節がある。
だからこそ、誠がおでこを畳にめり込ませる勢いで悲壮な土下座をしたとき、両親は怒るどころか、そのあまりの気迫と温度差にただ「ポカン」とするしかなかったのだ。
そんなドタバタを経て、二人は今日の午後、光の速さで役所へ向かい婚姻届を提出してきた。
晴れて「佐藤真由子」となって初めて迎える、静かで穏やかな夜。
リビングで温かいお茶(誠がしっかりノンカフェインに変えている)の入ったマグカップを両手で包み込みながら——その左手首には、彼とお揃いの青い針の時計が静かに光っている——真由子はふと、一昨日の東海大会のステージでの圧倒的な演奏を思い出し、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「ねえ、誠さん。……誠さんと健二さんの音って、合わさるとすごい共鳴を起こすじゃない? あんなに素晴らしいサウンドが作れるなら、高三の時のコンクールでも、本当は東海大会に行けたんじゃないの?」
真由子の問いに、誠はマグカップを置き、ふっと柔らかく微笑んだ。
「君が見抜いた通りだよ。あのまま東海大会まで進んで秋深くまで部活を続けていたら、T大現役合格の計算式に大きな狂いが生じていただろうからね。それに、健二だってW大学のジャズ研に入るという目標があった」
「やっぱり、あの時はセーブしてたんだ……」
真由子はマグカップの縁を見つめ、少しだけ視線を落とした。
一度目の人生で、真由子からすべてを奪い、支配していた男。二度目の人生では、そんな彼を音楽の面でどうしても「越えたい」と強く願い、真由子は誠の力を借りて東海大会を目指したのだ。
「……ねえ。高校生のとき、私は健二さんを越えたくて、誠さんの力を借りて東海大会に出た。でも、もし彼らがそもそも『本気で出ようとしていなかった』んだったら……私は結局、高校時代の彼を越えられたのかな」
ポツリとこぼした真由子の呟きに、誠は右手で妻の頭を優しく撫でた。
「うーん……」
誠は少しだけ考える素振りを見せた後、ひどく理性的で、けれど温かい声で紡いだ。
「僕たちは、自らの計算で東海大会を『目指さなかった』。でも君たちは、自分たちの意志で『目指して、勝ち取った』。そして、部活を最後までやり遂げた上で全員が大学に現役合格した。……前提となるパラメータが違うから単純な比較はできない、答えの出ない解だけれど。でも、高校生にとって『本気で目指した』という事実と、それをやり切った経験の質量は、決して後から補えるものじゃない。僕たちよりもずっと大きくて重いものなんじゃないかな」
「誠さん……」
「僕が確信を持って言えるのは、あの『火の鳥』の演奏の熱量は、僕や健二が決して残せなかった『本物』だったということだよ」
誠の絶対的な肯定の言葉に、真由子は胸の奥につかえた小さな棘が、すっと溶けて消えていくのを感じた。
「そっか……。ありがとう、誠さん」
そして、誠はいつもの冷静なトーンで、事も無げにこう付け加えた。
「高三の時も、県大会までで止めたとはいえ夏のコンクールまでフルに出たからね。実はあの時点で、理三(医学部など)の現役合格の計算には少し無理が生じていたんだ。だから、僕は確実な理二を選んだ」
「えっ、そうだったの!?」
真由子は思わず身を乗り出した。
「ああ。まあ、もともと薬の研究をしたかったから、理三でも理二でも、目的のルートは変わらない。僕にとってはどちらでもよかったんだけどね」
(……なるほど!)
真由子は心の底から納得し、目から鱗が落ちる思いだった。
誠のような、まるでスーパーコンピューターみたいな完璧な頭脳を持った人が、なぜT大の最高峰である「理三」ではなく「理二」に進学したのか。ずっと、密かに不思議に思っていたのだ。
高校最後のコンクールに出るという「青春」を選んだ結果の、理二。
そして、目的(薬の研究)さえブレなければ、世間的な最高峰の肩書き(理三)にはまったく執着しないという、彼らしい極めて合理的な選択。長年の謎が、ここへ来てすべて綺麗に解けたのだった。
(さっき『秋まで続けたら計算に狂いが生じていた』なんて言っていたのも、私を励ますための誠さんなりの優しい謙遜だったんだんだろうな。彼ほどの人ならもし普門館までいってもきっと合格できたはず)
真由子は誠の優しさを噛みしめながらマグカップのお茶を一口飲み、夫に向かってふわりと笑いかけた。
「じゃあ、高三の時はセーブしてたとして……今年は?」
「今年は、僕が松本で迎える最後の夏だったからね。しかも健二がいたことでブレーキをかけなくてよくなったから、100%の力でコンクールに挑んだよ。……それにね」
誠は少しだけ控えめに、かつ音楽家としての喜びに満ちた顔で続けた。
「今年は木管のソリストが奇跡的に揃ったんだ。クラリネットには君がいる。君の高音の透明感は素晴らしかった。フルートの『神様』は言うまでもなく名手だし、オーボエは音大卒の彼だ。普段は松本で会社員や公務員として忙しく働いている彼らが、今年は珍しく全員コンクールの舞台に立てた。……それが、今回の一番の勝因だよ」
誠はそう謙遜する。たしかに個々の技術は最高だった。
しかし、真由子は知っている。
その個性豊かで強力なプレイヤーたちの音を完全に一つにまとめ上げ、バンド全体を巻き込む圧倒的な熱量を生み出したのは、間違いなく誠と健二の「共鳴」の力だったのだと。
「健二が一年早く松本に帰ってくるというのは完全な計算外だったけれど。……悔しいけれどアイツがいるとバンドの中音域が完璧に安定するんだ。おかげで、僕はすごく吹いていて楽だったんだよ」
因縁のライバルであり、かつて親友だった男への、音楽家としての純粋で合理的な評価。
真由子を巡ってあれほど激しい火花を散らした二人だけれど、音楽の土俵においてだけは、誰よりも互いを高め合える「最高の相棒」だったのだ。
誠のその言葉を聞いて、真由子は晴れて「佐藤真由子」になれたこの日の夜に、この二度目の人生の夏が最高の形で完結したのだと、深く、静かに実感したのだった。
数週間後。松本駅前の、古き良き喫茶店。
カラン、とドアベルの音を鳴らして入ってきた初老の男性に、誠は立ち上がって深く一礼した。
「よお、久しぶりだな。どうした佐藤、急に呼び出したりして」
高校時代の吹奏楽部の恩師である宮坂は、向かいの席にどっかりと腰を下ろすと、教え子の顔を嬉しそうに覗き込んだ。
「ご無沙汰しております、先生。……実は、結婚することになりまして。今日はそのご報告に。十一月に披露宴を行うことに決めました」
誠は招待状を差し出した。
「おおっ、そうか! そりゃあめでたい。で、相手は誰だ?」
「……浅野さんです。浅野、真由子さん」
誠が少しだけ居住まいを正してそう告げると、宮坂は目を丸くした後、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「とうとう真由子先生を落としたか! そうだよな、お前、あいつのこと一目惚れだったもんな」
「……先生、声が大きいです」
「いいじゃないか。全国大会のプラチナチケット、わざわざ苦労して取ってまであいつをデートに誘いたかったんだよな! あの時、俺がちょっと席を外した隙に、『大人になったら一緒に飲みに行こう』なんてちゃっかり口説いてたもんなー。お前、昔からすげえ執念だったよな」
恩師の容赦ない暴露に、誠は居心地が悪そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
完璧な「人間計算機」として振る舞ってきた誠だが、いざ真由子のこととなると話は別だ。一九九五年以降、彼のあらゆる計算は常に「彼女を手に入れる」というベクトルへと向けられていたのである。
「……ところで、その肝心の彼女はどうした? 今日は一緒じゃないのか?」
「その……今日は少し体調が悪くて、家で休ませています」
誠が言葉を濁すと、宮坂はコーヒーカップに手を伸ばそうとして、ピタリと動きを止めた。
「あの体力の塊みたいな真由子先生が? 風邪か?」
「いえ、その……」
誠の歯切れの悪さと、どこか落ち着かない視線。
長年、数多くの生徒たちを見てきた宮坂の勘が、瞬時にある一つの「解」を導き出した。
「…………」
宮坂は、ひどく生暖かい目で誠をじっと見つめた。
「それ……『つわり』ってやつか?」
「……」
「佐藤。人間計算機って呼ばれたお前が、いま流行りの『できちゃった婚』ってやつか!」
「違います」
誠は食い気味に、かつてないほど素早いレスポンスで否定した。
「プロポーズが、先です」
事実、コンクール直後の休日に『青い針の時計』を渡してプロポーズをしたのが先であり、妊娠が「発覚」したのはその後である。誠の脳内では、その論理武装が完璧に構築されていた。
しかし。
「あっはっは! まあ、そういうことにしなきゃな! 順番なんてどうでもいい、めでたいことだ!」
「……いえ、本当にプロポーズが先なんです。僕の人生設計において、順序を違えるようなことは……」
「わかってる、わかってるよ。お前の完璧な『計算』通りなんだろ?」
宮坂は肩を揺らして笑いながら、再びひどく生暖かい目を誠に向けた。
「そういうことにしておいてやるよ。……おめでとう、誠。真由子先生を幸せにしてやれよ」
「…………はい。ありがとうございます」
恩師からの心からの祝福と、すべてを見透かしたような生暖かい視線の前で。
誠が言い訳するようにコーヒーカップへ手を伸ばしたとき、その左手首から覗いた青い針の時計がキラリと光った。
佐藤誠は、自分の「完璧な計算」が、愛する女への衝動の前にあっさりとバグを起こしていた事実を認めざるを得ず、ただ静かに、耳の裏を赤くしてコーヒーを啜ることしかできなかった。




