第三十六話 二〇〇三年晩夏【共鳴のゴールドと、計算機の完璧な暴走】
コンクールの結果は、金賞、ゴールド。
常念松本吹奏楽団創団以来の快挙だった。高校の時のように、全国大会常連のバンドには及ばないものの、素晴らしい評価をいただいた。
帰りの貸切バスの中。
金賞の余韻に浸るメンバーたちのテンションは最高潮で、車内はお祭り騒ぎのように賑やかだった。
私は隣に座る誠さんの肩にそっと寄りかかり、周囲の喧騒に紛れるように囁いた。
「誠さんの音、素敵だった。今までで一番よかった」
「真由子ちゃんも完璧だったよ。最高の結果も頂けて、これでもう思い残すことはない?」
穏やかに微笑む誠さんに、私は彼の耳元で内緒話をするように続けた。
「……ううん、一つだけあるの。来年のコンクールの課題曲、名曲揃いなんだよ。特に『風の舞』って曲がこれからすごく有名になって……私も、吹きたかったな」
私のささやかな音楽家としての未練に、誠さんは少しだけ考える素振りを見せた後、困ったように、けれどこの上なく愛おしそうに目を細めた。
「それは残念だ。……でも、君がこの子を望んだんだよね?」
周りから見えないよう、誠さんの大きな手が、私のお腹をそっと労るように撫でる。
その温もりに、たった今口にしたばかりの未練なんて、一瞬で吹き飛んでしまった。
「うん。……もちろん」
私は誠さんの肩にさらに深く顔を埋め、幸せな振動に揺られながら、静かに目を閉じた。
翌日。
私は午前休をもらい、職場の病院の産婦人科を受診した。
内診台を降り、エコー写真を見ながら医師が微笑む。
「おめでとうございます、妊娠八週目ですね。心拍も確認できましたよ」
「ありがとうございます……」
私がホッと息をつきながら診察室に戻ると、そこにはなぜか、白衣姿の誠さんがしれっと立っていた。
「えっ、誠さ…いえ、佐藤先生!? 今、仕事中じゃ……」
「ああ、ちょっと抜け出してきた。……先生、妻の状態はどうですか?」
「順調そのものですよ、佐藤先生。ただ、お仕事は無理をさせないようにね」
ちゃっかり「妻」と呼び、同僚の医師とカルテを見ながら専門的な話をしている誠さん。本当に、この人はどこまでも抜かりがない。
ひとしきり医師と話した後、誠さんは私の方へ向き直り、エコー写真を覗き込んだ。
その知的な瞳が、これまでに見たことがないほど優しく、熱く潤んでいる。
「……ありがとう、真由子ちゃん。僕たちの、子どもだね」
「うん……っ」
幸せな余韻を胸に、午後から自分の部署である薬剤部へと出勤した。
しかし、スタッフルームのドアを開けた瞬間。
「「「浅野さん、妊娠おめでとうー!!」」」
薬剤部のスタッフ全員が、クラッカーでも鳴らしそうな勢いで一斉に拍手で出迎えてくれたのだ。
「えっ!? なんでみんな、もう知ってるの!?」
「さっき、佐藤先生から直々に根回し……もとい、報告があったのよ! 『浅野の体調を最優先にするシフトを直ちに再計算してほしい』って、ものすごい気迫で!」
「ついでに『重いものは絶対に持たせないように』って、各所に厳命していったわよ!」
「でねでね、私が『もしかして、できちゃった婚ですか〜?』ってからかって聞いたらさ」
先輩薬剤師の一人が、ニヤニヤしながら私の顔を覗き込んだ。
「『プロポーズも両家への挨拶もすでに完了していますから!』って、あの佐藤先生がすっごい勢いで否定したんだけど、そうなの!?」
「そうそう! いつものクールな先生がめちゃくちゃムキになってて面白かったわ〜。ねえねえ、実際のところどうなの? いつから付き合ってたの!?」
「まさか、新人指導の時からもう目をつけてたとか!?」
「えっ、あ、いえ、それは……!」
次々と明かされる誠さんの「暗躍」と、先輩たちの興味津々な視線に、私は完全に返す言葉を失った。
(……あの人間計算機め!)
私に「デキ婚」というレッテルが貼られて陰口を叩かれないように、自分の完璧な計画(プロポーズと挨拶をきっちり終わらせていたこと)を必死で周囲に主張して回ったに違いない。
仕事が早すぎるし、嬉しいけれど、いくらなんでも過保護すぎる!
「でね、極めつけはさっきよ。佐藤先生、『浅野と明日入籍するので、二人分の午後休をいただきます』って、ものすごい勢いで書類を出していったわよ!」
「ええっ!?」
私は素っ頓狂な声を上げた。
「聞いてない……! そもそも入籍は十月末の予定で……」
その時、スタッフルームのドアがさっと開き、張本人である誠さんがひょいっと顔を出した。
「あ、真由子ちゃん。言い忘れてたけど、今晩君のご両親のところへ行くから、連絡しておいてくれるかな?」
「えっ、あ、はい……」
「じゃあ、仕事の後に迎えに来るよ」
誠さんは職場の固まった空気など意にも介さず、それだけ言うと白衣を翻して颯爽と出て行った。
数秒の静寂の後。
「「「ま、真由子ちゃん!!??」」」
先輩薬剤師たちの悲鳴のような大合唱が響き渡った。
「今、言ったわよね!? いつも『浅野さん』って呼んでたくせに、真由子ちゃんって言った!!」
「ちょっと、いつからそんなふうに呼ばれてるの!?」
詰め寄る同僚たちの凄まじい勢いに圧倒され、私はうっかり、正直に口を滑らせてしまった。
「え?……高校生の時から、ですけど」
「「「ええーーーーっ!!?」」」
新人指導からの付き合いどころの話ではない。S大病院が誇る冷徹な「人間計算機」の、恐るべき長きにわたる執念が発覚した瞬間だった。
「ちょっと浅野さん、詳しく聞かせなさい!」
「だ、だから、それは……っ!」
矢継ぎ早に飛んでくる質問攻めに、私は完全に逃げ場を失った。
茹でダコのように真っ赤になりながら、これから始まる彼との騒がしくて愛おしい日々を想い、ついに両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまった。




