第三十五話 二〇〇三年晩夏【第六の幸福と、第七の幸福】
プロポーズから数週間後。両家への挨拶も無事に終わり、私たちは本格的に結婚に向けての準備に入ろうとしていた。
二〇〇三年、八月下旬。
常念松本吹奏楽団は、目前に迫った東海大会に向けて練習に明け暮れていた。県大会の直前に怪我をしたオーボエ奏者も無事に復帰し、『第六の幸福をもたらす宿』の第二楽章は、本来のアレンジに戻って演奏できることになった。
ただ、コンクールの直前から、私は明らかに体調が優れなかった。
もともと身体は頑健な方なので、この原因のわからないだるさに戸惑っていた。……いや、本当に「原因がわからない」わけではない。
(……そういえば、予定日を過ぎても生理が来ていない)
ふとした瞬間に、ハッとした。
この胃の奥がムカムカするような感覚、そして異常な眠気。これは、一度目の人生で遥を身ごもった時の初期症状によく似ている。
たぶん、そうなんだ。私と誠さんの間に、新しい命が来てくれたんだ。
うれしい。
けれど、私は誰にも言わず、いつも通り楽器ケースを持って練習に通い続けた。
あの『第六の幸福をもたらす宿』を、もう一度完璧な形で演奏したい。ステージの上で、誠さんのあの深く温かいホルンの音を、全身で浴びたい。
それに——この東海大会が、私にとっておそらく最後のコンクールになる。 県大会の悔しさを残したままでは、絶対に終われない。一人のプレイヤーとしての意地と執念だけで、私は不調を隠して吹き続けた。
ちなみに健二さんは相変わらず隙を見てはまとわりついてきたが、誠さんが常に私の近く(あるいは視界に入る位置)を完璧にキープしてくれていたため、彼が手を出せる余地はなかった。
そもそも、今の私にとって健二さんは、もう「どうでもいい、なんとも思わない存在」に成り下がっていた。
そして迎えた、九月七日。東海大会の当日。
出番を待つお昼休みのことだった。
会場近くのレストランで美穂と一緒にオーダーした松花堂弁当の蓋を開けた瞬間、決定的な異変が起きた。
ホカホカのご飯から立ち上る湯気と匂いを嗅いだ瞬間、胃の中身が限界を突破したのだ。
「……っ、ごめん、トイレ!」
「えっ!? 真由子!?」
私は口元を押さえ、トイレへと駆け込んだ。
ひとしきり吐き気をやり過ごし、青い顔でフラフラと席に戻る。幸い、少し時間が経ってご飯が冷めていたため、匂いが落ち着き、なんとか少しだけ胃に食べ物を流し込むことができた。
心配そうに顔を覗き込む美穂に「ちょっと緊張しちゃって」と笑って誤魔化し、私は腹を括った。
本番は、なんとしてでも出る。
それは、私のプレイヤーとしての最後の意地でもあった。
結果として、本番のステージは言葉にできないほど素晴らしかった。
第一楽章。音が鳴り始めた瞬間、バンド全体の息が完璧に合い、一つの巨大な生き物のように音楽が始まる。
そして響き渡る、誠さんのファンファーレ。 今までで一番豊かで張りがあって、私を包み込む……もう、言葉では言い表せないくらい素敵な音だった。
〜この音を聴くたびに、私はあなたに恋をする〜
第一楽章の華やかで重厚な倍音の嵐が次第に静まり、ホールが一瞬の深い静寂に包まれた。
指揮棒がゆっくりと上がり、第二楽章が始まる。張り詰めていた空気が、がらりとその色を変えた。
静けさをそっと撫でるように響いたのは、フルートのソロだった。 楽器の特性上、最も鳴りにくいとされる低音域からの静かな立ち上がり。ごまかしのきかないその音を、彼は真っ直ぐに、誠実に響かせた。
その威風堂々とした風貌から「神様」と称される彼は、決して切なくはない、けれど空虚でもない旋律を紡ぎ出す。 恋の甘さも知らず、ただ純粋に音を紡いでいるような無垢な響き。けれど、音が中音域へ、そして若干の高音へとゆっくり移り変わっていく中に、ふと「これから切なくなる兆し」のような微かな熱が孕んでいるのを感じた。
(ああ……)
フルートの真後ろの席で、その音を間近に聴きながら、私は息を呑んだ。
このフルートのソロは、まるで「誠さんの音にただ憧れ、自分の本当の気持ちにまだ気づいていなかった頃の私」そのものだ。 感情の輪郭がまだ曖昧で、ただ予感だけが胸の奥で静かに脈打っていたあの頃。そんな言葉にならない微細な心のグラデーションを、たった一本の楽器で完璧に表現してしまう彼の手腕は、本当に神様のようだった。
やがて、そのフルートの無自覚な問いかけに、応えるような音が重なる。
誠さんの、ホルンソロだ。
かつての私を迎え入れるように響いたその音は、胸が締め付けられるほど切なく、それでいて、魂の底から揺さぶられるような深い響きだった。気づいていなかった私を、ずっと昔からこうして温かく包み込んでくれていた、彼の絶対的な愛情の音。
ホルンが静かに余韻を残すと、今度はオーボエのソロが哀愁を帯びて歌い始めた。 確かな技術の裏付けがありながらも、テクニックのひけらかしなど微塵もない。それは人生の悲哀を知る大人だけが出せる、豊かでどこか不器用な人間味に溢れていた。
そして、その震えるようなオーボエの旋律を、底から支えるように誠さんのホルンが、寄り添うように神様のフルートが、見事なオブリガートを重ねていく。
誰かが誰かを完璧に支え、一つの音楽を創り上げている。独りよがりだったかつての音楽とは違う、ここには圧倒的な「信頼」があった。
そして、すべての音のバトンを受け取り、私のクラリネットの出番がやってきた。
私はリードにそっと息を吹き込み、切なく、ただひたすらに切なくメロディーを奏でた。
あなたに出会い、惹かれ、けれど過去の呪縛に囚われて、素直になれずに胸を痛めた日々。そのすべてのもどかしく切なかった想いを、まっすぐに彼へと向けて込めた。
この第二楽章は、ただの楽曲ではない。私が誠さんに出会い、自分の心に気づき、守られ、そして愛を確信するまでの、私自身の軌跡そのものだった。
続く第三楽章。
誠さんのホルンは、健二さんの暴力的な音すらも優しく包み込むような、絶対的な包容力に満ちていた。
生きていてよかった。この音に出会うために、私は二度目の人生を歩んできたのだ。
そう心の底から思えるほどの、最高の熱演だった。
演奏が終わり、ステージ裏の暗がりで、私は人知れずポロポロと涙を流した。
達成感と、無事に吹き切れた安堵感。
そこへ、少し急ぎ足の足音が近づいてきた。
「真由子ちゃん」
振り返ると、いつになく険しい、けれど心配でたまらないといった表情の誠さんが立っていた。
漆黒のタキシードと、右手に光るホルン。 世界中の誰よりも素敵で、理屈抜きに胸が甘く締め付けられる。 私が世界で一番好きな貌。
「誠さん……あのね、今日の音、すごく——」
「美穂さんが、教えてくれたよ」
誠さんは私の言葉を遮り、左手で私の肩をそっと、壊れ物に触れるように掴んだ。
「お昼、ご飯の匂いでトイレに駆け込んだって」
「あ……」
「……どうして言ってくれなかったの。あの夜から、君の身体に変化が起きる確率は高いと予測していたのに」
「えっ……誠さん、気づいて……?」
「お盆の時期、親戚が来るからって君はうちに泊まるのを遠慮しただろう? ……今まで、君がうちへの宿泊を頑なに避けるのは、いつも『月に一度の、体調を気遣うべき時期』だったから。だから僕は、てっきりあの時も無事にその周期が来たのだと、完全に変数を読み違えていたんだ」
(……ああ)
私がいつも、万が一にも彼のベッドを汚したり迷惑をかけたりしないようにと気を遣ってお泊まりを避けていた規則性を、この人間計算機はしっかりとデータとして蓄積していたのだ。お盆の遠慮が、まさかこんな形で彼の計算を狂わせることになるなんて。
「それに君は……このステージに立つために、僕の前でずっと、完璧に元気なふりをして隠していたね。……無理をして、万が一のことがあったらどうするつもりだったんだ」
少しだけ怒ったような、でもそれ以上に、私の執念を見抜けなかった自分の『計算ミス』を深く悔やんで泣きそうな顔。
そして彼は、周りに人がいないことを確認すると、私をそっと腕の中に抱き込んだ。
「明日、うちの産婦人科の予約、一番腕のいい先生の枠を無理を言って取っておいたから」
「……誠さん……っ」
ああ、この人はもう、すべて察しているのだ。
私は彼の手の温もりにすがりつきながら、今度こそ嬉し涙をこぼした。
第三十四話 吹奏楽用語辞典
・ファンファーレ
トランペットやホルンなどの金管楽器が主に担当する、式典や行事の開幕などで演奏される、短くも華やかな音楽のこと。
日常でよく耳にするのは、競馬の出走前に流れるあの音楽など。このエピソードにおけるファンファーレは、独立した一つの楽曲としてではなく、曲を構成する「モチーフ(印象的なフレーズ)の一つ」として登場しています。
・音楽の三要素
音楽を構成する上で欠かすことのできない3つの基本要素、「リズム」「メロディー」「ハーモニー」のこと。
土台である【リズム】、主旋律の【メロディー】、そして複数の音が正確なピッチで重なり合うことで豊かな調和となる【ハーモニー】。この3つのバランスが完璧に噛み合った時、音楽はより人の心を激しく揺さぶる極上の芸術となります。




