第三十三話 二〇〇三年夏【理性の決壊と、前倒しの設計図】
誠の実家に逃げ帰り、玄関のドアが閉まった瞬間。
真由子は張り詰めていた糸が切れたように、誠の胸に強く縋り付いた。
「……真由子ちゃん。もう大丈夫だ、あいつはいない」
誠は真由子の震える背中を撫で、静かに落ち着かせようとした。
しかし、真由子の身体の震えは止まらない。健二の放った官能的なサックスの音が、まるで致死量の毒のように、まだ皮膚の下を這い回っている。
恐ろしいことに、二十代半ばの若く瑞々しい「器」は、あの雄々しい旋律にまんまと騙され、甘く痺れて歓喜していた。一度目の人生でも、彼女はこうしてあの音に騙され、彼に支配されていったのだ。
四十九歳の魂は完全に拒絶しているのに、植え付けられた支配の記憶も細胞を勝手に反応させてしまう。自分の意思を裏切る肉体へのどうしようもない自己嫌悪と恐怖が、真由子をパニックに陥らせていた。
(……あの地獄には、絶対に戻りたくない)
この悍ましい毒を、今すぐ洗い流したい。佐藤誠という絶対的な「薬」を過剰摂取して、健二の痕跡を細胞の隅々まで焼き尽くしてほしい。
目の前にある確かな愛をくれたこの人と、ずっと一緒にいたい。
真由子は、理知的な声で自分を宥めようとする誠の言葉を遮り、潤んだ瞳で彼を見上げた。
「……寝室に、行ってもいい?」
誠の動きが、ぴたりと止まった。
真由子に手を引かれるまま、二人は寝室のベッドへと倒れ込んだ。
誠は真由子を優しく抱き寄せると、少しだけ身をよじり、いつものようにベッドサイドの引き出しへと手を伸ばそうとした。
しかし、真由子はその大きな手を両手で強く掴み、激しく首を横に振った。
「駄目だ、真由子ちゃん」
誠は切羽詰まった声を出した。
「君の周期から計算すると、今日は……駄目だ。危険すぎる」
どんな時でも冷静にリスクを管理し、真由子の身体と将来を第一に考える。それが佐藤誠という男の愛し方であり、絶対に譲れないルールのひとつだった。
しかし、真由子は首を振り続け、彼のシャツを強く握りしめた。
(計算なんて、しないで。早く、私を助けて……っ)
「何も言わないで。……お願い」
涙で濡れた真由子の声は、懇願するように震えていた。
「誠さんで、上書きして。今すぐ、あの音から私を助け出して……!」
必死に縋り付く瞳には、怯えだけでなく、ひとつの強烈な覚悟が宿っていた。
「私は、健二さんじゃなくて……誠さんと生きていきたい。だから……運命の人は、あなたがいい」
その悲痛なまでの渇望と、明確に自分を選び取ろうとする強い意志。
健二の幻影に怯え、壊れそうになりながらも自分を求める真由子の姿に、誠の中で何かが音を立てて弾け飛んだ。
(俺の音は、アイツの音に負けたのか……)
自分の腕の中にいる真由子の瑞々しい器が、健二の官能的な音に奪われかけている。その事実は、誠に強烈な敗北感を突きつけた。
自分が世界で一番信頼し、その才能を誰よりも認めている健二。
だが——たとえアイツが相手であっても、真由子だけは絶対に譲れない。健二ではなく自分と生きたいと泣く彼女を、あの毒から救い出したいという純粋な愛と、絶対に誰にも渡さないという剥き出しの独占欲が、誠の内でどうしようもなく膨れ上がっていく。
「……君には、本当に敵わないな」
次の瞬間、佐藤誠は人生で初めて「計算」を捨てた。
真由子は彼が与えてくれる凄まじい熱にすべてを委ねることで、深い安堵とともに、過去の呪縛が完全に溶けていくのを感じていた。
——翌朝。
真由子が目を覚ますと、部屋にはいつもの香ばしいコーヒーの匂いはしなかった。
隣を見ると、常に完璧なルーティーンを崩さないはずの誠が、死んだように深い眠りに落ちている。
昨夜の彼は、これまでの穏やかで優しい姿からは想像もつかないほどに貪欲で、圧倒的だった。
健二の気配など一切入り込む隙を与えないほどの、暴力的なまでの愛。気絶するように眠ってしまうほどの彼の消耗は、そのまま彼が真由子に向ける愛の深さと執念の証だった。
「……ん」
やがて、誠が重い瞼を開けた。状況を把握した彼の端正な顔が、一瞬にして苦悩に歪む。
「……ごめん。僕としたことが、理性を飛ばすなんて」
顔を覆い、深い後悔を口にする誠を見て、真由子は胸の奥がぎゅっと温かくなるのを感じた。
「行為そのもの」を言い訳にするのではなく、「自制心を失ったこと」を悔やむ彼。
それは、どんな時でも完璧な計算で真由子を守り抜こうとしてきた、不器用で誠実なこの人らしい、強固な愛の裏返しなのだと痛いほどわかるから。
本当に、どこまでも私のことを一番に考えてくれる人。
愛おしさが込み上げ、真由子は静かに微笑んで彼の頬に触れた。
「謝らないで。私が、お願いしたの」
「でも……」
「もし、これで何かが起きたとしても……それは私たちが選んだ未来だから。私は、何の後悔もないよ」
それは、ただの衝動ではない。過去の記憶を持つ真由子が、健二ではなく「佐藤誠との未来」を確定させるという、強烈な覚悟の言葉だった。
真由子がベッドを抜け出し、シャワーへと向かった後。
一人ベッドに残された誠は、天井を見上げながら、昨夜の行為による「受胎の確率」を猛烈なスピードで逆算していた。
(このタイミングなら、確率は極めて高い。……だとしたら、悠長に待っている時間はない)
彼は当初、自らの博士論文を完成させ、真由子が薬剤師としてのキャリアを盤石にするのを待ってから、完璧な手順でプロポーズする計画を立てていた。
真由子の手帳の記録通りであれば、あの男が松本に戻ってくるのは来年、二〇〇四年の春。それより前に、彼女を連れて東京のT大研究室へと帰還し、過去の亡霊から完全に隔離するための冷徹な防衛計画だった。
しかし、健二は一度目の人生の記録より「一年早く」この二〇〇三年の夏に突如として現れた。
未来の予測すら覆すこの致命的なバグの侵入と、そして昨夜、真由子の中に新たな「命」が芽生えた可能性がある以上、計画は根底から変更しなければならない。
「……すべて、前倒しだ」
誠は眼鏡を掛け、鋭い光を宿した瞳で決意を固めた。
最優先すべきは、彼女を正式に自分の妻とし、あらゆるリスクから隔離された安全な場所へと囲い込むこと。
真由子がシャワーから戻ってくる頃には、佐藤誠の頭脳は、彼女の人生を丸ごと上書きするための新たな「完璧な人生設計」を、すでに秒速で再構築し終えていた。




