第三十二話 二〇〇三年夏【旋律の戦場と、剥き出しの独占欲】
第三十ニ話 吹奏楽用語辞典
・持ち替え
一つの曲の中で一人の奏者が他の楽器に持ち替えて演奏すること。
また、楽譜で指定された楽器に欠員が出た際、音域や役割の近い別の楽器がパートを肩代わりして吹くことをさすこともあります。
楽器が替わることで、曲の表情や合奏の空気感も大きく変化します。
・ソプラノサックスとオーボエの関係
オーボエは2枚のリードを振動させて鳴らす木管楽器で、独特の哀愁を帯びた温かい音色が特徴です。
一方、ソプラノサックスは1枚のリードで鳴らす楽器ですが、音域や真っ直ぐな管の形状がオーボエと非常によく似ているため、吹奏楽ではオーボエのソロをソプラノサックスで持ち替えて演奏させることがよくあります。
本来のオーボエの哀愁のあるメロディがソプラノサックスに置き換わると、甘く華やかな輪郭が加わり、独特の色気が生まれます。
オーボエのソロは、ソプラノサックスの音色をオーボエに近づけて演奏するケースや、クラリネットやフルートで持ち替えて演奏するケースなど、様々です。
・オブリガート
対旋律。
主旋律に対して、それを装飾したり、引き立てたりするために同時に演奏される、独立した重要なメロディのことです。
単なる背景(といっても色々と計算して吹いていますが)の伴奏とは異なり、オブリガートが欠けてしまうと楽曲全体の魅力や世界観が成り立たなくなるほど、極めて重要な役割を持っています。主旋律の呼吸やニュアンスを深く理解し、最高のタイミングで寄り添う繊細な音楽性が奏者に求められます。
二〇〇三年、七月末。
県大会の会場であるホールの舞台袖には、独特の緊張感と熱気が渦巻いていた。
波乱は本番二日前に起きた。
木管セクションの要であるオーボエ奏者が、不慮の怪我により欠場を余儀なくされたのである。
急遽、その代役として名乗りを上げたのが健二だった。彼はオーボエのソロパートを、そこだけ自分が持っているソプラノサックスに持ち替えて吹くと宣言した。
本来、第二楽章は誠のホルンとフルートやオーボエが静かに、しかし情熱的に呼応し合う構成で編曲されていた。それが結果として、誠と健二という二人の男が、真由子を巡って音でぶつかり合う凄絶な「戦場」へと変貌を遂げたのである。
いよいよ本番の幕が上がった。
課題曲が終わり、自由曲。
指揮者のタクトが動き、第一楽章の重厚なファンファーレが鳴り響く。佐藤誠のホルンは、ファンファーレは華やかに、オブリガートは邪魔しすぎず、リズムは常に誠実で強固に刻み続けていた。それは真由子が奏でるクラリネットの主旋律を、大地の如き揺るぎない包容力で土台から支える音だった。
しかし、第二楽章に入った瞬間、空気が一変した。
フルートのソロの後、誠のホルンと健二が奏でるソプラノサックスの音が、ホールに響きわたった。彼はW大学のジャズ研で培った圧倒的なテクニックを巧みに隠し、一見すると端正な「吹奏楽の音」に擬態していた。
だが、その音色には、隠しきれない雄としての色気が、甘い毒のように混ざり合っていた。
誠のホルンが「君を守る」と誓うような清冽な愛の調べを放てば、健二のサックスは「俺を拒めるのか」と真由子の耳元で囁くような、暴力的なまでに甘い旋律をぶつけてくる。
二人の息を呑むようなアンサンブルは、傍から聴けば完璧だった。
会場の誰もがその見事な音楽に感動し、舞台上の団員たちですら歓喜の渦に巻き込まれていた。健二の音が孕む異常な執着に気づいている者は、誰もいない。
しかし、真由子にだけは、その裏で火花を散らす「本当の音」が聞こえていた。
(嫌……聴きたくない……!)
真由子は必死に誠の音に縋ろうとした。誠の鳴らす、すべてを包み込み守ってくれる結界のような音色だけを拾おうと耳を澄ます。
しかし、二十代半ばの肉体は残酷だった。中身が四十九歳の成熟した魂であろうとも、若く無防備な身体は、健二が放つ雄としての甘い引力に、本能的な『ときめき』を覚えてしまうのだ。
誠の防御壁を縫うように、健二のサックスが鋭く、かつ滑らかに真由子の聴覚を侵食してくる。それは、かつて一度目の人生で真由子を騙し、鳥籠に閉じ込めた、抗いがたい求愛の旋律だった。
指先が震え、心拍が乱れる。
心は完全に彼を拒絶し、「あんな男のところへは絶対に行きたくない」と叫んでいるはずなのに。若い器は健二の音にハックされ、ぞわぞわと粟立ち、甘い毒に酔わされていく感覚。
(やめて、勝手に反応しないで……っ!)
理性が悲鳴を上げても、鼓膜から入り込んだ振動が、四十九年分のトラウマを呼び覚ますと同時に、肉体を無慈悲に支配していく。
絶対に惹かれてはいけない男の音に、自分の器が勝手に歓喜してしまうおぞましさ。
真由子は、意思と肉体が激しく乖離していくその恐怖に強烈な自己嫌悪とパニックを起こし、自分が今どこを吹いているのかさえ分からなくなるほどの茫然自失の状態に陥った。
それでも、この曲で真由子が吹くべき最も大切なクラリネットの『ソリ』のフレーズだけは、隣で吹くパートリーダーの藤原の必死のリードに引き上げられるようにして、なんとか無意識のまま吹き切ることができた。
どうにか吹き切り、演奏が終了した。観客席からの万雷の拍手を聞きながら、真由子の頭の中は真っ白なままだった。
本番終了後。
会場の都合で、待機場所は木管楽器と金管楽器で分かれていた。誠のいない木管待機場所で、真由子が魂の抜けたような顔で立ち尽くしているのを、親友の美穂が察知した。
「真由子、大丈夫!? 顔色が……ちょっと待ってて、佐藤さんを呼んでくる!」
美穂は楽器を置くのもそこそこに、金管エリアへと走り出した。
その頃、金管エリアの誠は、会心の演奏を終えたアドレナリンで高揚していた。
自分のソロは完璧だった。あの毒牙のような旋律から、真由子を完全に支え切ったという自負。彼にしては珍しく高揚した状態で、急ぎ真由子の元へ向かおうとした。
だが、木管エリアでは最悪の事態が進行していた。
コンクールの熱と興奮に当てられた健二が、その勢いのまま、一人でいた真由子を壁際へと追い詰めたのだ。
「真由子ちゃん、さっきのソロ、俺の音に痺れてただろ? 誠の音なんて、ただの綺麗事だよ。俺の音の方が、君を熱くさせる」
健二の傲慢な声が、真由子の耳を汚していく。恐怖と混乱で身を竦める真由子の肩を、健二の大きな手が掴もうとしたその瞬間――。
「……そこまでにしてもらおうか、健二」
低く、地を這うような声が響いた。
駆けつけた誠がそこに立っていた。わずかに乱れた呼吸が、彼がどれほど急いでここまで走ってきたかを物語っていた。アドレナリンによる高揚は一瞬で消え去り、その瞳には、深淵のような激しい怒りと、剥き出しの独占欲が宿っている。
誠の「人間計算機」は、真由子の憔悴した顔と健二の卑怯な距離を瞬時に演算し、事態を把握した。彼は激情を無理やり冷静な態度の裏に押し隠し、真由子に触れようとしていた健二の手を、氷のように冷たく重い動作でパシィッ! と無慈悲に振り払った。
「なっ……」
驚く健二をよそに、誠は真由子の腰を抱き寄せ、自分の胸の中へと強く引き寄せた。
「見事なソロだったよ。……だが、君がどれだけ音で誇示しようと、彼女の『隣』はもう君の席じゃない。行くよ、真由子」
誠は健二に一瞥もくれず、凍りついたような静かな怒りを纏ったまま、真由子を連れて歩き出した。そして、心配そうに様子を伺っていた美穂を見つけると、足を止めることなく短く告げた。
「美穂さん。真由子ちゃんの様子がおかしいから、僕たちはこのまま早退すると伝えておいてくれ」
それだけを言い残し、誠は足早に会場を後にした。
百六十七センチの彼の身体が、その時ばかりは真由子をすべて覆い隠すほどに、巨大で、恐ろしいほどの威圧感を放っていた。




