第三十一話 二〇〇三年夏【過去の残像と、計算機のリミッター解除】
自分を誘惑しようとした健二をすげなくあしらい、去っていくその広い背中を見つめながら、真由子の胸に去来したのは、奇妙な郷愁と、微かな自己嫌悪だった。
一度目の人生で、健二は確かに魅力的だった。
おしゃれなレストランでの食事や、さりげなく連れて行ってくれたジュエリーショップ。彼は周到に、デートを昼間中心に設定していた。「自分は決して、雄として君の身体だけを目当てにしているわけではない」という、紳士的なアピールが凄まじかったのだ。
その見事な手口にコロッと騙され、真由子は「付き合おう」と言われる前から、完全に彼に惹き込まれていた。そうして心が傾ききった絶好のタイミングで、「東京に戻るから、ついてきてくれ。結婚しよう」と一気に刈り取られたのである。
交際ゼロ日婚は、健二の完璧な計算の産物だったのだ。
(あんな手に乗って結婚を決めた私も私なんだけど……)
彼の「トップ証券マン」という眩しい肩書きに目が眩んでいたことも、間違いなく事実だ。
それに——。あの頃の私は、ひどく焦っていたのだ。
一度目の人生では、一番の親友である美穂が、彼氏の上條さんと二〇〇四年の冬に結婚を決めていた。大好きな美穂の幸せを心の底から祝福していたはずなのに、二十代半ばという年齢で自分だけが置いていかれるような、冷たい澱のような焦燥感が、いつの間にか心の奥底にこびりついていた。
周りがどんどん次のステージへ進んでいく孤独と焦り。健二さんは、そんな私の弱みを敏感に嗅ぎ取り、一番欲しかった「結婚」という甘い言葉で私を釣り上げたのだ。
もしかすると健二は、自分の肩書きばかりを見て、焦りから自分にしがみついてきた真由子の浅薄さを、心のどこかで軽蔑していたのかもしれない。
結婚してしばらくの間、健二はまだ優しく、頼りがいのある夫だった。
彼の中に、冷酷なモラハラ夫としての兆候が垣間見え始めたのは、真由子が「遥」を身籠った頃からだった。
つわりや身重の体で思うように動けず、これまでのように彼を「王様」としてもてなせなくなった妻への苛立ちだったのだろうか。あからさまな溜息や冷たい視線が、少しずつ日常に混じるようになっていった。
そして、その燻っていた不満が決定的な悪意へと豹変したのは、遥が産声を上げ、真由子の生活が本格的に「子供」を中心にして回り始めた時だった。
自分だけを崇拝していたはずの妻の関心が、自分以外の存在に奪われていくことへの、身勝手な嫉妬だったのかもしれない。今思えば、そのひどく幼稚な感情を持て余したかのように、健二の暴力的な言葉の刃は、そこを境に雪だるま式にエスカレートしていったのだ。
(でも……あの頃の私は、確かに健二さんのことが好きだった)
苦い記憶の澱を静かに飲み込み、真由子はクラリネットのリードをマウスピースに固定した。
もう、あの頃の過ちは二度と繰り返さない。私の隣には今、焦りや肩書きではなく、健やかなる時も病める時も、私という人間そのものを愛してくれる不器用で誠実な人がいるのだから。
それから、吹奏楽団は夏のコンクールに向けて一色に染まっていった。
今年の自由曲である『第六の幸福をもたらす宿』は、既存の楽譜ではなかった。指揮者が個人的なコネクションを使い、アレンジャーに頼み込んで特別に書いてもらったオリジナル・バージョンだったのである。
その結果、第二楽章には、誠の吹くホルンのソロが大幅に加筆されていた。
合奏のたびに、音楽室いっぱいに響き渡るあの深く温かく、大人の艶のある音色。
それを一番近くで、しかもたっぷりと聴くことができるのだ。真由子にとっては、もはや眼福ならぬ「耳福」としか言いようがない至福の時間だった。
しかも、健二が合奏に入ったことで、不思議な化学反応が起きていた。
健二の鋭く華やかな音を包み込むような、誠の圧倒的な包容力に満ちたホルン。
二人の楽器が共鳴し合い、中音が豊かな響きに変わる。
休憩時間。 誠が真剣な顔つきで指揮者の元へ歩み寄り、何事か提案をしているのが見えた。指揮者は深く頷くと、健二とサックスのパートリーダーを呼び寄せ、楽譜を指差して新たな指示を出した。健二が何かを鉛筆で書き込んでいる。
休憩が明け、指揮者から第一楽章を通すよう指示が出る。 団員たちが一斉に楽器を構え、振り下ろされたタクトと共に壮大な音を紡ぎ出した。
「——え?」
真由子は思わず息を呑んだ。 力強いホルンの咆哮が『二本』聴こえる。誠さんと……健二さん?
いや、それだけではない。誠の音が、明らかに今までと違っていた。
これまでも十分に素晴らしかったはずなのに、今の音はさらに力強い張りがあり、どこまでも深く、より強靭な『芯』を持った太い響きに変わっている。 決して濁ることのない、極めて澄んだ美しい音色——それなのに、合奏全体を根底から支配してしまうほどの、圧倒的な存在感を放っていた。
(……これが、佐藤誠の『一〇〇パーセント』なのか)
指揮者がたまらず合奏を止める。周囲の団員たちも、突然生まれた分厚い響きにどよめいていた。
『これは……いける』
指揮者が、興奮に目を見張る。
「よし、佐藤くん、花岡くん、これでいこう。みんな、全体のバランスを直すから楽譜に書き込んで」
この曲の第一楽章は、圧倒的なホルンが二本揃うことで初めて旋律が完成する。これまで誠は、楽団の他の奏者とバランスを取るために、自らの音量を緻密に計算し『抑えて』吹いていたのだ。 しかし、健二という異次元の才能が入ってきたことで、誠は彼のサックスとの共鳴を利用して足りないホルンを補うという最適解を導き出し——ついに自らのリミッターを完全に外したのである。
健二の鋭く華やかな音を包み込み、自らの絶対的な支配下に置くような、誠の包容力に満ちたホルン。水と油のような二人の男の音が共鳴し合い、第一楽章や第三楽章の中音域がかつてないほど濃密にまとまっていく。
彼の底知れぬ実力と音楽家としての凄みに、真由子は驚愕し、どうしようもなく強く惹きつけられた。
健二の存在がもたらす不穏なノイズも、誠のホルンが鳴り響けば、嘘のように消え去っていく。彼の音が、真由子の心をいつでも平穏な場所へと引き戻してくれた。
誠の計算と守護、そして真由子自身の精神的な自立。過去の呪縛を断ち切るように、彼らの音楽は深みを増していく。
コンクールの本番が、いよいよ目前に迫っていた。
第三十一話 吹奏楽用語辞典
・マウスピース(木管楽器:クラリネット、サックス等)
楽器の吹き口となるパーツ。ここに対して「リード」を「リガチャー(留め具)」で固定し、口にくわえて息を吹き込みます。材質や内部の構造、先端の開き具合がわずかミリ単位異なるだけで、音色や息を入れた時の抵抗感が劇的に変化します。
・マウスピース(金管楽器:ホルン、トランペット等)
金属で作られた、ろうと状のパーツ。木管楽器のようなリードはなく、ここに直接唇を当て、息で唇そのものを細かく振動させることで音を出します。
中でもホルンのマウスピースは、他の金管楽器のようにお椀型でなく、よりろうとのように深いV字の構造をしているのが特徴です。この独特な深さこそが、他の楽器の音まで優しく包み込む、柔らかく深い包容力のある音色を生み出す秘密になっています。




