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シンクロニシティ―青い調和(ハーモニー)―〜二度目の人生、モラハラ夫から逃れ、不器用で重たい愛に全てを上書きされるまで〜  作者: 滝丸
【第二楽章:間奏曲(INTERLUDE)】

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第三十話 二〇〇三年初夏【人間計算機のエラーと、四十九歳の防壁】

その日の練習後。 誠の車で彼の実家へ帰宅した真由子は、リビングへ入り、いつもの定位置であるソファに腰を下ろした途端、堪えきれずに隣に座る誠の胸へとすがりついた。

「……真由子ちゃん」

「誠さん……っ」

誠は何も言わず、力強い腕で真由子を抱きしめ返した。


彼のシャツに顔を埋め、清潔な柔軟剤と、微かなコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込む。 健二の放つ凶暴なオーラに当てられ、粟立っていた皮膚が、誠の温かな体温によってゆっくりと鎮められていくのを感じた。


「……すまない。僕が、不用意だった」

頭上から降ってくる誠の低い声には、明らかな自責の念が滲んでいた。

「あいつが一年早く転勤してくるイレギュラーを予測しきれなかった。……いや、それ以上に致命的だったのは、僕の甘えだ」

誠は真由子の背中を抱く手に、ギリッと強い力を込めた。

「あいつの女癖の悪さを誰よりも知っていながら、親友である僕の恋人にだけは、僕の『聖域』にだけは牙を剥くことはないだろうと……心のどこかで信じてしまっていたんだ。その僕の甘さが、結果的に君を危険に晒してしまった」


(……健二さんって、もともとそんなに女癖が悪かったの?)


真由子は誠の胸の中で、小さく息を呑んだ。

一度目の人生で真由子が知っていたのは、最初は優しかった彼と、のちに冷酷なモラハラ夫に豹変した彼だけだ。

遥が生まれて以降、女性の影がチラついて一人泣いた夜は何度かあったものの、確証までは掴めなかった。まさか彼が、昔からそんなに女癖が悪かったなんてまったく知らなかったのだ。

誠はそんな彼の本性を、ずっと昔から知っていたのだ。


「……私、健二さんがそんな人だって、全然気づかなかった。……ねえ、誠さん」

「ん?」

「私が鈍感なだけで、もしかして誠さんも……私の気づかないところで、他の女の人と遊んだりしてるの……?」


自分の人を見る目のなさを痛感し、過去のトラウマから急激な不安に駆られた真由子が、潤んだ瞳で見上げて尋ねる。

その言葉を聞いた瞬間、誠は目を丸くして数秒フリーズした。 自分が不用意に口にした「女癖の悪さ」という事実が、真由子の過去の自尊心を深く傷つけ、彼に対する信用すらも揺るがせてしまったのだという痛恨のエラーに気づき、誠は心の底から自らを呪い——深く、重いため息をついた。


「……真由子ちゃん。君は僕の計算能力をなんだと思っているんだ」

「え……?」

「僕の脳のキャパシティは、君という存在を完璧に守り、愛し抜くための演算だけで常に百パーセントのリソースを使い切っている。他の人間に割く余剰メモリなんて、君と初めて出会ったあの日から、一バイトたりとも存在しないよ」


そう言って、誠は真由子の額にコツンと自分の額をくっつけ、逃げ場のない距離で、後悔と、それを塗り潰すほどの狂気的なまでの愛情を込めてその深い瞳を覗き込む。


「君以外の女性など、僕にとっては風景と同じだ。……君は本当に、自分の価値をわかっていない」

その揺るぎない、少し常軌を逸したほどの愛情表現に、真由子の胸の奥で渦巻いていた不安が、一瞬にして甘く溶かされていく。


「ふふっ……そうだったね。

……健二さんのことは、誠さんのせいじゃない」

真由子は安心して微笑み、彼の背中に回した手に力を込めた。

「私は大丈夫。誠さんが一緒にいてくれるなら、何も怖くないから」

誠の瞳に、揺るぎない決意の光が宿る。

「ああ。君のことは、僕が絶対に守る。……あいつには、指一本触れさせない」


その力強い誓いの言葉を証明するように、誠はそれからの練習や打ち上げにおいて、真由子の隣を片時も離れず、健二が入り込む隙を完璧に塞ぎ続けた。



周りの団員たちは、露骨なまでに真由子を囲い込む誠を見て「佐藤さん、どれだけ真由子ちゃんが好きなんだよ」と生温かい視線を送っていた。健二が虎視眈々と真由子を狙っている事実に気づいているのは、誠ただ一人だったのだ。


おまけに、美穂をはじめとする若い女性陣に至っては「かつての松本吹奏楽界のアイドルが同じバンドにいる!」と完全に浮き足立っている始末である。


肉食獣は、獲物の隙を待つことにおいて、驚くほどの忍耐力と狡猾さを持ち合わせている。

誠の鉄壁のガードと、周囲ののんきな空気の中で、不穏な影は静かに真由子へと忍び寄っていた。



数週間後。

その日は、誠が病院の急なカンファレンスで、練習に少し遅れて参加することになっていた。

真由子は一人で公民館の音楽室に入り、壁際でクラリネットの組み立てを始めていた。他の団員たちはまだまばらで、それぞれ音出しをしている。


「よお。今日は誠、遅いみたいだな」

背後から、不意に声が降ってきた。

真由子が肩をビクッと跳ねさせて振り返ると、そこには、サックスを首から下げた健二が立っていた。

彼は真由子の隣にあるパイプ椅子を無造作に引き寄せると、逃げ道を塞ぐようにどっかりと腰を下ろした。

「あ……はい。誠さんは、仕事が長引いているみたいで」

「ふーん。相変わらず真面目な男だよな、あいつは。……ところでさ」


健二は少し身を乗り出し、真由子の顔を下から覗き込んだ。

その瞳は、一度目の人生で真由子を射すくめた、あの獲物を品定めするような捕食者の目だった。

「前から思ってたんだけど。真由子ちゃんって、誠と付き合ってて息苦しくない?」

「え……?」

「あいつ、理屈っぽいし、頭固いし。つまんないだろ?……どう、今度俺と二人で飲みに行かない? 誠には内緒でさ」


人当たりの良い笑顔の裏に隠された、剥き出しの征服欲。

親友の恋人である自分を、こっそりと誘い出そうとする卑劣な手口。誠の庇護という強力な盾が外れた、たった数十分の空白を狙い、あろうことか健二は明確な「略奪」の意志を持って牙を剥いてきたのである。


しかし、真由子は怯まなかった。

かつての世間知らずな小娘なら、この強引で危険な香りのする魅力に絡め取られていたかもしれない。だが、今の彼女の中身は、酸いも甘いも噛み分けた四十九歳の「オバチャン」であり、何より一度目の人生で地獄を見た当事者だ。


(……今度こそ、絶対に騙されない)


「わかりました。じゃあ、誠さんに予定聞いておきますね」

真由子は完璧な愛想笑いを浮かべ、事も無げにそう答えた。

彼が「誠には内緒で」と条件をつけてきたのに対し、あえて誠の存在を真っ向から介入させる。アラサーの健二の小賢しい手口など、四十九歳の真由子にはすべてお見通しだった。


真由子の見事な切り返しに、健二は一瞬だけ虚を突かれたような顔をした。そして、思い通りにならない獲物に対する苛立ちを誤魔化すように、鼻で笑う。

「……じゃ、誠公認でサシ飲みね!」

負け惜しみのようなセリフを残し、健二はヒラヒラと手を振って去っていった。


一人残された音楽室で、その広い背中を見送る真由子の胸の奥には、彼への恐怖ではなく、ひどく複雑で奇妙な感情が渦巻いていた。

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