第二十九話 二〇〇三年 【幸福の絶頂と、計算外の侵入者】
二〇〇三年、五月。
常念松本吹奏楽団の定期演奏会は、割れんばかりの拍手喝采の中で幕を下ろした。
メインプログラムであった『第六の幸福をもたらす宿』の反響は、凄まじいものだった。
真由子のクラリネットソロや、他の楽器のソロも素晴らしかったが、特に、誠が奏でたホルンのソロは圧巻であった。雄大でどこまでも深く温かい響きの中に彼が新たに手にした艶を潜ませたその音色は、聴衆の心を優しく包み込みながらも、そこに秘められた大人の熱情でホールをすっかり虜にしていった。
共にステージに座り、クラリネットを吹きながらその音を背中で浴びていた真由子は、何度も視界が滲みそうになるのを堪えなければならないほどの感動に打ち震えていた。
(誠さんと、こんなに素晴らしい音楽を作れるなんて……)
終演後の打ち上げでも、二人の周りには自然と笑顔が溢れていた。
休日に彼と並んでキッチンに立ち、同じ香りのコーヒーを飲み、同じステージで極上の音楽を奏でる。
真由子はただただ、幸福だった。自分の足で立ち、真実の愛を手に入れたこの二度目の人生は、もはや一切の瑕疵がない完璧なものだと思っていた。
——この時までは。
演奏会の興奮冷めやらぬ、五月末。
いつものように市民バンドの練習が行われていた公民館の音楽室でのことだ。
「定期演奏会の真由子のソロすごい良かった、コンクールでカットされちゃうのがもったいないよ」
「ありがとう、美穂。まだ藤原さんとふたりでソリがあるから気が抜けないわよ」
和やかな空気が流れていた休憩時間。
ついに、その「致命的なバグ」は起きた。
音楽室の重い防音ドアが、ノックもなしに勢いよく開け放たれた。
「おう、久しぶりだな! 邪魔するぜ」
入ってきたのは、仕立ての良いスーツをラフに着崩し、片手にサックスのケースを提げた長身の男だった。
自信に満ちた足取り。そして、周囲を睥睨するような、色気溢れる圧倒的な雄のオーラを放っていた。
「……健二?」
パイプ椅子に座っていた誠が、驚愕に目を見開いて立ち上がった。
花岡健二。
誠の高校時代からの親友であり、そして——一度目の人生で真由子を精神的に支配し、搾取し尽くした、元夫。
真由子の全身の血が、一瞬にして凍りついた。
心臓が早鐘のように打ち、呼吸の仕方を忘れたように喉が張り付く。
「驚いたか、誠。いやあ、急に長野支店への転勤が決まってな。昨日こっちに戻ってきたんだよ。実家の親父が、お前が楽器背負ってこの公民館に入っていくのを見かけたって言っててな。驚かそうと思って、内緒で冷やかしに来てやった」
豪快に笑いながら誠の肩をバンと叩く健二。
一度目の人生の記憶では、健二が松本へ転勤してくるのは、来年、二〇〇四年の春だったはずだ。なぜ、一年も前倒しになっているのか。
真由子が過去を改変し、未来の予測図を書き換えてしまった余波が、思いもよらない形で健二のスケジュールを狂わせたのだ。
誠にとっても、これは完全に計算外の事態だった。
彼の「人間計算機」としての能力は、真由子の身の回りの危険に対しては常に完璧に機能していた。しかし、今の彼には、二つの致命的な「バグ」が重なっていたのだ。
一つは、真由子との穏やかで満ち足りた日々に浸りきっていたことによる、彼自身の「警戒プログラムの緩み」。
そして二つ目は、健二が松本へ転勤してくる「時期」のズレだ。
まだ一年間の猶予がある。その間に真由子を健二から完全に隔離し、安全な場所へと囲い込むための完璧な計画を水面下で進めていた誠にとって、これは最悪のタイミングでのイレギュラーだった。
「……転勤って。お前、東京の第一営業部でトップの成績だったんじゃないのか」
「ああ、だから栄転も兼ねての箔付けだよ。しばらくは松本で羽伸ばさせてもらうわ」
健二はそう言って、舐め回すように音楽室を見渡した。
そして、青ざめた顔で固まっている真由子に気づき、その鋭い双眸を細めた。
「へえ……」
健二の口角が、肉食獣のように吊り上がる。
「あの子が、お前が囲い込んでるっていう彼女? 大人しそうに見えて、すげえいい女じゃん。クラリネットか」
健二が真由子に向かって真っ直ぐに歩み寄ってくる。
近づいてくる男の足音は、一度目の人生で「俺が帰ってきたんだぞ。何優先してんだよ」「誰のおかげで生活できていると思っている」と真由子を怒鳴りつけていた時の響きと、寸分違わず同じだった。
(……ああ)
健二の放つ、本能を暴くような暴力的な気配に当てられた瞬間、真由子の四十九年分の細胞が、悲鳴を上げて完全に凍りついた。クラリネットを握る手が白くなるほど震え、誠が与えてくれた温もりが一瞬で奪われていくような錯覚に陥る。
タイムリープした直後、愛する娘である『遥』を再びこの世に誕生させるためなら、もう一度彼と再構築することもできるのではないか。そう本気で考えたこともあった。
けれど、今こうして実際に彼を前にして、痛いほど思い知らされた。
誠さんが隣にいようといまいと、関係ない。今の私には、この男と再びあの地獄をなぞることなど、魂のレベルで絶対に不可能なのだと。理屈ではなく、生物としての本能が、彼を強烈に拒絶していた。
「初めまして。誠の親友の、花岡健二です。誠には勿体ないくらいの美人だね」
差し出された大きな手。
誠の完璧な庇護の下で温められていた真由子の世界に、最悪の捕食者が放たれた瞬間だった。
たまらず真由子が後ずさろうとしたその時、彼女の前にスッと入り込む影があった。
誠だった。彼は真由子を背後で庇うように立ち塞がり、鋭い視線で健二の手を牽制した。
「……気安く近づくな、健二。彼女が怯えているだろう」
「おっと、悪い悪い。ガードが固いねえ」
健二は全く悪びれる様子もなく、面白そうに肩をすくめた。
音楽室の空気が、一瞬にして不穏なものに塗り替えられた。
「ちょっと吹かせてもらっていいかな」
人懐っこい、しかし拒絶を許さない響きを持つ声とともに、健二がケースからアルトサックスを取り出した。彼がリードを湿らせ、マウスピースを咥えた瞬間、その場の空気がピンと張り詰める。
息が吹き込まれ、放たれた音。
それは、暴力的なまでに華やかで、聴く者の本能を直接揺さぶるような音だった。
ジャズのルーツを感じさせる、少し掠れたセクシーな音色。圧倒的な肺活量から生み出されるヴィブラートは、他人の領域に土足で踏み込み、その心を強引に鷲掴みにするような強烈な引力を持っていた。
誠のホルンが「魂を癒やし、すべてを包み込む音」であるならば、健二のサックスは「本能を暴き、他者を支配する音」だ。
一度目の人生で、真由子はこの毒のように甘い音色に絡め取られ、逃げ場のない鳥籠へと堕ちていったのだ。
演奏が終わると、音楽室は一瞬の静寂の後、どよめきと拍手に包まれた。
「すごい……! プロみたいだ」
「花岡さん、長野に転勤してきたなら、ぜひうちの団に入ってよ!」
団長をはじめとする団員たちが、熱烈なアプローチをかける。人当たりのいい笑顔を貼り付けた健二は、「いいんすか? 誠がよければ、ぜひお世話になりたいですね」と、あっさりと正式入団を決めてしまった。
真由子は、背中に誠の体温を感じながら、無意識に震える手をもう片方の手で強く握りしめた。
第二十九話 吹奏楽用語辞典
・ソロ(Solo)
独奏のこと。楽譜に「Solo」と指示が記載されている、たった一人でメロディや見せ場のフレーズを演奏することを指します。
バンド全体の伴奏をバックに吹く場合と、他の楽器がすべて鳴り止み、完全に空間を一人だけで吹き切る場合(通称:どソロ)があります。
・ソリ(Soli)
楽譜に「Soli」と指示がある、ソロ(独奏)を複数人(二人や同じパート全員など)で一緒に吹くバージョンのこと。
一人で吹くソロの緊張感や自由さとは違い、二人以上の息遣いや音色、ピッチを完璧に調和させ、ひとつのまとまった美しいメロディとして響かせる技術が求められます。




