第二十八話 二〇〇一年〜二〇〇三年【二人の台所と、変わるスコア】
誠と交際を始めてからというもの、真由子の毎日は、過去のどんな時期よりも穏やかで、満ち足りたものになっていた。
週末になると、真由子は当然のように誠の実家で過ごすようになった。
洗面所には、色違いで二つ並んだ歯ブラシ。クローゼットの片隅に掛けられた真由子の服。そしてリビングの一角には、二人が身を寄せ合って微笑む写真が収められた真新しい写真立て。
殺風景だった一人暮らしの男の部屋に、少しずつ自分の私物が増え、生活の風景が鮮やかに色付いていく。誠自身も、自分の世界が彼女の存在で満たされていくその変化を、心の底から愛おしんでいるように見えた。
職場であるS大病院では、あくまで「先輩と後輩」という節度ある間柄を貫いている。公私のメリハリを完璧につけるのは、プロフェッショナルである二人の暗黙の了解だった。
例えば調剤室で真由子が落としそうになったファイルの山を、誠が背後からスッと手を伸ばして支えてくれるような時。周囲に人がいない一瞬だけ、二人の視線が交差し、あの冷徹な人間計算機が真由子にだけとろけるような甘い微笑みを向ける。その一秒後には、再びきりっとした先輩と後輩の顔に戻るのだ。
そんな秘密の阿吽の呼吸やフォローアップに、周囲の同僚たちから(なんとなく生暖かい)視線を向けられている気はしたが、それすらも心地よいスパイスだった。
一方、プライベートのコミュニティである吹奏楽団では、病院のような遠慮は一切なかった。
真由子が美穂に交際を打ち明けた、次の練習日のこと。おそらく美穂から「ついに実った」という情報が回っていたのだろう。二人が顔を出すなり、団員たちから盛大な総ツッコミと祝福の嵐を浴びることになったのだ。
「やっとかよ、佐藤! 真由子ちゃん連れてきた時からバレバレだったのに、お前どれだけ時間かけてんだよ!」
副団長でありクラリネットのパートリーダーでもある藤原がバンバンと誠の背中を叩き、周囲の団員たちも「遅すぎ!」「こっちがヤキモキしたわ!」と口々に囃し立てる。
「……心外だな。僕の慎重なアプローチは、真由子ちゃんに不要な心理的負担をかけないための、最もリスクの低い最適解であって……」
耳まで真っ赤にしながら早口で理屈をこねる誠に、美穂が呆れたように笑って突っ込んだ。
「はいはい、言い訳はいいですから! 真由子のこと、絶対に幸せにしてくださいよ!」
周囲の温かな笑い声に包まれながら、誠が「言われるまでもない」と少し照れくさそうに真由子の手をそっと握る。その不器用な独占欲が、真由子にはたまらなく愛おしかった。
そんな賑やかな外の世界から離れた、特別な予定のない休日は、二人で近くのスーパーへ買い出しに行き、並んで自炊をした。
キッチンに立つと、誠の「計算機」としての顔が少しだけ覗く。「真由子ちゃん、この一週間のビタミン摂取量が不足気味だ。今日は緑黄色野菜を中心に献立を組み立てよう」と理屈をこねながら、手際よく野菜を刻んでいく。
隣でコンロの火を見守りながら、真由子がふつふつと煮える小鍋のスープを小皿に取り、ふーふーと息を吹きかけて味見をしようとした時のことだ。
「……僕にも一口、もらえるかな」
トントンという規則正しい包丁の音を止め、横からスッと顔を出した誠が、真由子の手元を覗き込んできた。
「あ、うん。ちょっと待ってね、まだ熱いかも……はい」
真由子がそっと差し出した小皿に口をつけ、誠は静かにスープを飲んだ。そして、少しだけ眼鏡の奥の目元を和らげ、とても穏やかな表情で微笑んだ。
「……うん、美味しい。君の作るものは、いつも完璧だね」
一度目の人生で、健二と共に台所に立ったことなどただの一度もなかった。「飯はまだか」と急かされ、冷え切った心で急ごしらえの食事を並べていたあの頃の孤独が、誠の温かな体温と不器用な過保護さによって、完全に上書きされていく。
また、休日の午後は誠の実家にある防音の『音楽室』で、しばしばクラリネットの練習をさせてもらっていた。
立派な門構えや広大な敷地から薄々察してはいたが、個人の邸宅にこれほどの空間があることからも、佐藤家が代々続く旧家の資産家であることが窺えた。
付き合い始めてからというもの、誠の奏でる音は確実に進化し、大人の男としての濃密な色気と艶が足されていた。高校時代、誠に「音大も望めるレベル」と評価された真由子自身のクラリネットの腕前も相当なものだが、進化し続ける彼の音には到底敵わないと、彼女は謙虚に受け止めていた。
だからこそ、プレイヤーとして少しでも彼に追いつきたいと強く願い、必死に楽器を吹く。そんな真由子をお屋敷の立派なソファで、誠が本を読みながら優しく見守ってくれている時間は、何にも代えがたい至福のひとときだった。
仕事も順調で、すべてが完璧な軌道に乗っていた。
そして、二〇〇三年、初頭。
松本市内にある、音響設備の整ったホールのリハーサル室。
吹奏楽団の練習日だったこの日、副団長の藤原から、真由子たちに楽譜が配られた。
「今年のコンクールの自由曲、これに決まったから」
真由子は配られた楽譜のタイトルを見て、小さく瞬きをした。
『第六の幸福をもたらす宿』
(……あれ?)
真由子の記憶のデータベースが、微かな違和感を告げる。一度目の人生で、二〇〇三年のコンクールでこのバンドが演奏した自由曲は、これではなかったはずだ。
真由子が怪訝な顔をしているのに気づいたのか、藤原が隣に歩み寄り、声を潜めてこっそりと教えてくれた。
「実はね、本当は違う曲に決まりかけていたんだけど。少し前に、団長と佐藤さんと指揮者の先生の三人で飲みに行ってたみたいでさ。そのあと急に、先生が『どうしても、佐藤さんがいるうちにこの曲をやってみたい』って強く推してきたんだよ。しかも、巷でよく演奏されてる有名な版じゃなくて、先生がコネを使って別の人に特注したオリジナル版らしいよ。特に二楽章は、僕たちがイメージしてるものと楽器編成を変えてくるみたい」
「誠さんが、いるうちに……? それに、楽器編成が違うって?」
「そう。ホルンが上手くないと、絶対に形にならない曲だからね。二楽章の具体的な内容はまだ内緒らしいけど、何でも『特別なソロの掛け合い』を作るとか何とか……。『コンクール』だから、佐藤さんみたいな圧倒的に上手いホルンを前面に出して、審査員の加点をガッツリ狙おうって腹もあるんだろうね」
真由子は楽譜に視線を落とした。
『第六の幸福をもたらす宿』。その選曲には、確かに納得できるものがあった。
四十九歳の記憶を持つ真由子は、健二が不在の昼下がり、家事をしながら動画サイトで吹奏楽の名演を聴き流していたことがある。二〇二〇年代でも演奏する団体はちらほら見かけたが、この曲がコンクールで爆発的な人気を誇っていたのは、まさに二〇〇〇年代の前半だった。
何より、あの雄大でロマンチックなホルンの旋律。恋人の欲目を差し引いたとしても、今の誠の豊かで芯のある音色で、この曲を聴いてみたい。真由子は純粋にそう思った。
その日の練習帰り。
暖房の効いた誠の車の助手席で、真由子はふと思い出したように口を開いた。
「誠さん。今年のコンクールの自由曲、一度目の人生の時と違う曲になったの」
「……」
ハンドルを握る誠の横顔が、微かに強張った。
赤信号で車が停まる。誠は真由子の方を向いたが、その知的な瞳が一瞬だけ、まるで計算の合わない数式を突きつけられたように泳いだ。
「そうか。……そんなことも、あるんだね」
返ってきたのは、普段の彼らしからぬ、どこかそっけない返事だった。
真由子は首を傾げた。未来が変わったことに対する驚きにしては、反応が妙に薄い。
(誠さん、もしかして……あのホルンの難曲を吹くことに、緊張してるのかな?)
指揮者からのプレッシャーを感じているのかもしれない。真由子は無自覚にそう解釈し、「誠さんのホルンなら、絶対に最高の演奏になるよ」と無邪気に微笑みかけた。
誠は「……ありがとう。頑張るよ」と小さく息を吐き、再び車を走らせる。
指揮者の言った「佐藤さんがいるうちに」という言葉の本当の意味に真由子が気づくのは、もう少し先のことだった。




