第二十七話 二〇〇一年秋【新しいベッドと、じゃがいもの答え合わせ】
それは、真由子が誠と付き合い始めて最初の練習が終わった後のことだった。
練習場近くのファミレス。運ばれてきたシフォンケーキを前に、真由子は意を決して目の前の親友に切り出した。
「……あのね、美穂。私、佐藤先輩とお付き合いすることになったの」
「ぶふっ! ……ゲホッ、ゲホッ! ……やっと!?」
美穂はコーヒーを吹き出しそうになりながら、身を乗り出してきた。
「や、やっと、って……」
「やっとだよ! あんたたち、どれだけ時間かかってんの!?」
美穂は呆れたように笑った後、ふと真剣な、親友を気遣う優しい瞳で覗き込んできた。
「……真由子。浩平先輩のことは、もう大丈夫?」
その名前に、真由子は胸の奥が温かくなるのを感じて、そっと微笑んだ。
真由子は中身が大人であっても、純粋に浩平に惹かれていた。だからこそ、自身のエゴで彼を深く傷つけてしまった罪悪感は拭いきれなかった。心から好きだった相手との別れは、大人だったからこそ痛切で、『もう恋なんてしない』と頑なに心を閉ざし、高校の間じゅうずっとその痛みを引きずっていた。
美穂はそんな真由子を、学校は違えど一番近くでずっと心配し続けてくれていたのだ。
でも、大学の四年間という『時間薬』が、少しずつ真由子の心を癒し、その痛みを過去の穏やかな思い出に変えてくれた。そして傷が塞がっていくのと同時に、佐藤誠という存在が、知らず知らずのうちに真由子の中で少しずつ大きくなっていたのだ。
「うん。……もう、すっかり大丈夫だよ。ずっと心配かけてごめんね」
真由子が心からの笑顔で頷くと、美穂は「そっか!」と本当に安心したように破顔した。
「ならよし! あの佐藤さんだよ? T大卒の薬剤師で、今はS大病院勤務のエリート。おまけにあのルックス。楽団に入ってきた時から、女子メンバーの間じゃちょっとした有名人だったんだからね」
美穂は「私は観賞用として見てただけだけど」と付け加え、呆れたように笑った。
「あのね、真由子。佐藤さんって、今まで言い寄ってきた女の子たちを全員、無慈悲にぶった斬ってきたんだから。話しかけてくる子たちのこと、全員『じゃがいも』か何かだと思ってるんじゃないかってくらい無関心でさ。……『僕にはずっと、忘れられない好きな人がいるので』って、あの綺麗な顔で愛想笑い一つせずに瞬殺。それがまさか、あんただったとはね」
「じゃ、じゃがいも……」
「そう。でも、佐藤さんが初めて練習に真由子を連れてきた時、楽団のみんな一瞬で察したよ。だってあの絶対零度の氷の男が、この世に真由子しか存在してないみたいな、ものすごく甘くて優しい目をしてたもん。じゃがいも扱いされてた女の子たちなんて、『扱い違いすぎ!』って裏で泣いてたんだから」
「っ……」
「佐藤さん、やっと実ったんだね。今日のホルンの音、いつも以上に艶があって色っぽかったのは、そのせいかー」
美穂のからかうような視線に、真由子は顔が爆発しそうなほど熱くなるのを抑えられなかった。
みんな、誠の「激重な愛」を最初から知っていて、生温かく見守ってくれていたのだ。
そんなやり取りがあった、数日後の午後。
真由子は、誠の実家——両親が他界し、彼が一人で管理している大きくて静かな一軒家のリビングで、彼の真剣な眼差しを受け止めていた。
「真由子ちゃん。今日、家具屋に行こう。新しいベッドを買う」
「えっ? ベッドって、今のシングルがあるじゃない」
「成人の男女二人がシングルベッドで就寝するのは、物理的な圧迫感だけでなく、君の安眠を妨げるリスクが高すぎる。睡眠効率が悪化すれば、君の健康に直結するからね。それに人間は一晩に平均二十回は寝返りを打つんだ。十分なスペースが確保できなければ、血流が阻害されて疲労が回復しない」
遠慮して断ろうとする真由子に、誠は淡々と『論理的根拠』を並べ立て、最後にはボソリと「……それに、君と離れて寝るなんて、僕が耐えられない」と本音を漏らした。
その不器用な甘さに絆され、真由子は大人しく彼と一緒に家具屋へ向かうことになった。
そして、家具屋のベッドコーナーに着くなり、誠の『人間計算機』としての本領が遺憾なく発揮された。
「こちらのタイプが人気でして……」と勧める店員に対し、誠は眉一つ動かさず鋭い分析を突きつける。
「いや、柔らかすぎる。反発力が低いと筋力に無駄な負荷がかかる。ポケットコイルの密度と、体圧分散のデータシートを見せてもらえるかな。……あと、将来的に女性側の体重が十キロ前後増加した場合でも、腰の沈み込みを完璧にサポートできる耐久性のものがいい」
店員が「デ、データシートですか……!?」と狼狽してバックヤードへ走っていく。
真由子は、恥ずかしさで彼のシャツの袖を力一杯引っ張った。
(ちょっと佐藤先輩! 体重十キロ増って、それ明らかに『将来子供ができた時』のこと想定してるよね!?)
真っ赤になって睨みつける真由子に対し、本人は至極真面目な顔で「将来を見据えた設備投資は妥協できないからね」と胸を張っている。
結局、誠の厳しすぎる審査をクリアした最高級のクイーンサイズのベッドが、その日の夕方には実家の寝室に運び込まれることになった。
通常であれば大型家具は後日配送になるところだが、誠が「今夜の君の睡眠効率が損なわれるのは重大な損失だ」と一歩も譲らず、特別配送料を即金で上乗せして店側を理詰めで説得しきった結果であった。
その日の夜。
部屋の半分を占領する真新しいクイーンサイズのベッドで、真由子は誠の腕の中にすっぽりと収まっていた。
広いベッドを買った張本人のくせに、結局彼は真由子を逃さないようにきつく抱きしめているので、密着度はシングルの時と大して変わらない。
真由子は、先日美穂から聞いたことを思い出し、彼の胸板に頬を寄せたまま尋ねてみた。
「……ねえ、佐藤先輩。美穂から聞いたんだけど。先輩、大学病院やバンドでモテモテだったのに、みんなのこと『じゃがいも』みたいにあしらって、『ずっと好きな人がいる』って言ってたんでしょ。……それって、私のこと?」
真由子が上目遣いで尋ねると、図星を突かれた誠の身体が、ビクッと硬直した。
「……情報漏洩だ。美穂さんには後で厳重に抗議しておかなければ……」
「はぐらかさないで。……もしそうなら、もっと早く告白してくれればよかったのに」
真由子はわざと口をとがらせ、彼の胸を指先でツンツンと突いた。
「そうしたら、私……もっと早く、先輩の隣にいられたのに」
二度の人生の遠回りを思い、少しだけ本音が混じってしまう。
すると誠は、一気に顔を赤くして、焦ったように早口で言い訳を始めた。
「そ、それは非論理的な暴論だよ、真由子ちゃん! 当時の君の僕に対する評価パラメーターは、あくまで『親切な先輩』でしかなかった。あの時点で僕が感情のままに告白した場合、君を困惑させ、関係性が完全に崩壊する確率が『九十八パーセント』を超えていたんだ! そんなハイリスクな賭け、僕にできるわけないだろう!」
「もう……っ、要するに振られるのが怖かっただけでしょ?」
「……否定は、しない。君のことになると、僕はどうしても臆病な計算しかできなくなるんだ」
人間計算機と呼ばれる男の、あまりにも人間くさくてヘタレな自白。
真由子は可笑しさと、それ以上に胸を締め付けるような愛おしさに耐えきれず、彼に腕を回してギュッと抱きついた。
「臆病でいてくれて、ありがとう。私を待っていてくれて、ありがとう」
「……真由子ちゃん」
誠は深く息を吐くと、真由子を包み込む腕の力をさらに強めた。
「でも、これからはもう、どんな確率も計算しないよ。君を逃がすつもりはないからね」
耳まで真っ赤にしながら、それでもドヤ顔で言い放つ彼に、真由子は幸せなため息をこぼし、そっと目を閉じた。
真新しいベッドは、二人の愛の重さをしっかりと受け止め、きしむ音ひとつ立てなかった。




