第二十六話 二〇〇一年秋【やまびこ公園の夜景と、上書きされる夜】
あの凄絶で、けれど最も温かかった告白の夜から、一週間が過ぎた。
その日の夕方、真由子は誠のエスコートで、松本市内の落ち着いたレストランで夕食を共にしていた。白衣を脱いだ二人の間には、以前のような「指導教官と新人」という張り詰めた空気はなく、穏やかで甘い緊張感が漂っている。
食事を済ませた後、誠は「少し、ドライブに行こうか」と真由子を助手席に乗せ、車を走らせた。
辿り着いたのは、岡谷市にある「やまびこ公園」だった。
急激に冷え込んだ晩秋の夜。本来ならば夜景を楽しむ恋人たちで賑わうはずのデートスポットだが、凍てつくような風のせいか、展望台には見渡す限り誰の姿もなかった。
車を降りて見晴らし台へと歩み寄ると、眼下に圧倒的な光の絨毯が広がっていた。街の瞬きの中心で、黒く静かに沈む諏訪湖の輪郭が、くっきりと美しいハートの形を浮かび上がらせている。
「きれい……」
白い息を吐きながら、真由子は防寒のコートの襟元を合わせ、その絶景に見惚れた。
ふと、胸の奥で懐かしい記憶が蘇る。一九九五年の秋、普門館の帰りに特急あずさの車内から、彼と並んで見たあの夜景だ。
一度目の人生でもこの景色を見たことはあったはずだが、これほどまでに美しく感じたことはなかった。
過去の幻影から解放され、穏やかな気持ちでいるから、こんなに綺麗に見えるのだろうか。それとも、隣に立つ彼への恋心で、私の心がどうしようもなくときめいているからだろうか。
(どちらにせよ、私は今日、この時の景色を一生忘れないだろうな……)
真由子がそんな風に胸を満たしていると、不意に、隣から低く優しい声が降ってきた。
「真由子ちゃん」
「……はい」
振り返ると、誠が真由子を真っ直ぐに見つめていた。街の灯りを反射するその瞳の奥には、一週間前の夜と同じ、理性を完全に凌駕するほどの深く熱い感情が揺らめいている。
「……ずっと、好きだった。多分、君と初めて会った時から、好きだったんだと思う」
誠の口から紡がれたのは、彼らしからぬ、けれど一切の計算を排した純度百パーセントの真実だった。
「自分で自分の人生を切り開いている君の隣に、立派に立ちたいと思っているうちに、伝えるのが遅くなってごめん。……でも、自分の気持ちを、きちんと伝えたかった」
真由子が自分の足で立ち、未来を掴もうともがく姿を、彼は誰よりも理解し、尊重してくれていた。だからこそ、彼は安易に手を差し伸べるのではなく、真由子の隣に立つにふさわしい「最強の地盤」を、松本の地で一人孤独に築き上げて待っていてくれたのだ。あの特急列車の車内で共に夜景を見た時から、ずっと。
その果てしない愛の深さに触れ、真由子の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
それはもう、過去を嘆く涙ではない。純粋な歓喜と、彼への愛おしさだけが詰まった涙だった。
誠は目を閉じ、深く息を吐いた。
「ああ、やっと、告えた」
冷たい夜風の中、二人の距離が自然とゼロになる。
どちらからともなく顔を寄せ合い、重なった唇。
一週間前の夜、絶望の中で真由子が懇願した時には決して与えられなかった彼の熱が、今は柔らかく、そして確かな独占欲を伴って、真由子のすべてを甘く溶かしていく。
唇がそっと離れた後。
誠は真由子の涙の跡を長い指先で優しく拭うと、その耳元で、吐息が触れるほどの距離で低く囁いた。
「……うちに、おいで」
その声の響きに、真由子は小さく頷いた。
一週間前は、壊れそうな彼女を守るための絶対的な「避難所」だったその場所へ。今夜は、愛し合う二人として向かうのだ。
帰りの車内は、行きとはまったく違う空気に包まれていた。
塩尻峠を越え、松本へと抜ける県道。緩やかなカーブが続く暗い夜道を、誠は両手でしっかりとハンドルを握り、滑らかに車を走らせていた。 窓の外には、松本平の美しい夜景が帯のように煌めいている。しかし、この県道には車を停めて景色を眺めるような路肩のスペースはほぼ存在しない。ただひたすらに、前へ進み続けるしかない道だ。
「……夜景、綺麗ですね」
助手席の真由子がぽつりと呟くと、誠は前を向いたまま、微かに熱を帯びた息を吐いた。
「そうだね。……でも、この道には車を停められる場所がなくてよかったよ」
「え……?」
「もし途中で車を停められたら、家まで理性が保てなかったかもしれない。……ごめん、余裕がなくて」
抑えきれない渇望が滲むその掠れた声に、真由子の顔が一気に熱を持った。
信号もなく、車を停める場所もない。ただひたすらに二人の帰る場所へと向かう三十分間。運転席と助手席という触れ合えない距離と、止まることのない車の疾走感が、かえって互いの「早く触れたい」という焦燥感を極限まで甘く煽っていた。
誠の実家に到着し、静まり返ったリビングに入る。
一週間前、狂気に駆られて泣き崩れたソファの横を通り過ぎる時、真由子は少しだけ視線を落とした。しかし、誠はそんな彼女の不安を察したように、背後から優しく抱きすくめた。
「もう、ひとりで抱えなくていい」
耳元で囁かれた言葉と共に、真由子の身体がゆっくりと反転させられる。
誠の瞳は、穏やかでありながら、大人の男としての熱情を隠そうともしていなかった。彼は真由子の髪を愛おしそうに撫で、その頬に、首筋に、そして再び唇に、何度も確認するように口付けを落としていく。
「君のすべてを、僕が上書きするって約束しただろう。……もう、泣かせない」
大切に、宝物を扱うような手つきで。けれど、もう二度と過去の記憶に逃げ場を与えないほどの圧倒的な愛で。
真由子は、自分を縛っていた四十九年分の鎖が、彼の体温によって一本、また一本と解かれていくのを感じた。
身も心もすべてを委ね、誠の深く温かい愛情に完全に包み込まれた、まさにその時だった。 ベッドサイドに外して置かれた彼の腕時計の針が頂点で重なり、デイト表示がカチリと微かな音を立てて切り替わった。
十月二十八日。 それは奇しくも六年前、東京の濁った白い空の下で誠が恋に落ちたあの日と同じ日付だった。
静かな夜の闇の中、彼が与えてくれる絶対的な安心感に溶けながら。
真由子はようやく、「佐藤誠と共に歩く未来」を生きる喜びを知り、静かに目を閉じた。
翌朝。
真由子が目を覚ましたとき、部屋は柔らかな秋の陽光に満たされていた。
使い込まれた木の床、整然と並んだ本棚、そして隣に眠っていたはずの男の体温。それらすべてが、一度目の人生では決して得られなかった「確かな現実」としてそこにあった。
真由子は毛布の中で深く息を吐き、自分の指先をそっと見つめた。そこにはもう、震えも、自分を責める冷たさもない。
ふいに、階下から心地よい音が聞こえてきた。
お湯が沸く音。そして、カシャカシャという、豆を挽く規則正しい手応えのある音。
真由子が身支度を整えてリビングへ降りていくと、誠はすでにキッチンの前に立っていた。
彼は昨夜の情熱的な大人の男から、いつもの冷静で穏やかな『人間計算機・佐藤誠』に戻っていた。けれど、真由子の姿を認めると、その眼鏡の奥の瞳がふわりと和らいだ。
「おはよう、真由子ちゃん。……よく眠れたかい」
「……おはようございます。はい、すごく」
少しだけ照れくさそうに答える真由子に、誠は「よかった」と短く応じ、丁寧にドリップされたコーヒーを二つのマグカップに注いだ。
「コーヒー、飲むだろう? 君は少しミルクを入れるのが好きだったね」
差し出されたマグカップを受け取ると、手のひらからじんわりと熱が伝わってくる。
一口啜れば、深い苦味のあとに優しい甘みが広がった。
一度目の人生、健二との生活に「朝」という概念はなかった。あったのは、彼の不機嫌をいかにやり過ごすかという、薄氷を踏むような緊張感だけだった。
けれど、この家にあるのは、淹れたてのコーヒーと、愛する男が自分を当たり前のように迎え入れてくれるという、至福の日常だ。
「……美味しい」
「それはよかった。僕の計算によれば、朝のこの一杯が、一日の薬剤業務のパフォーマンスを最も効率的に引き上げるはずだからね」
大真面目な顔で理屈をこねる誠に、真由子は思わず吹き出した。
昨夜、あんなにも深く自分を求めてくれた男が、今はコーヒーの効能について語っている。そのギャップが可笑しくて、愛おしくて、真由子は心からの笑顔を浮かべた。
「ふふ、さすが佐藤先生。一生、私のためにその『計算』を続けてくださいね」
「ああ、もちろんだ。……毎朝、君のために淹れると決めているよ」
誠は真由子の髪をそっと撫で、その額に柔らかな口付けを落とした。
この日から、誠がコーヒーを淹れ、二人で静かに朝を過ごす時間は、彼らの生活の強固な基盤となった。
二〇〇一年、秋。
二人の本当の物語は、この静かなコーヒーの音と共に、本格的な幕を上げたのである。




