第二十五話 二〇〇一年秋【計算機の解答と、防波堤の決壊】
佐藤は長い時間をかけて、真由子が差し出した黒い手帳のページを捲り続けた。
沈黙が支配する朝のリビングに、時折、紙が擦れる音だけが響く。真由子は、自分の喉がカラカラに乾いているのを感じながら、彼の横顔をただ見つめていた。
一度目の人生で受けた、健二からの容赦ないモラハラと暴力の記録。絶望の中で産み落とした愛娘・遥の存在。そして、タイムリープという常軌を逸した真実。
読み進めるにつれ、佐藤の端正な横顔から表情が消え、ページを繰る指先にギリッと強い力が込められるのを真由子は見た。彼の胸中でどれほどの計算と感情が荒れ狂っているのか、想像することすら恐ろしい。
この沈黙の果てに、彼は自分を「頭のおかしい女」だと軽蔑するのか。あるいは、哀れむのか。
やがて、最後のページを読み終えた佐藤は静かに手帳を閉じ、眼鏡を外して深く眉間を押さえた。
「……浅野さん。いや、真由子ちゃん」
佐藤の声は、驚くほど冷静だった。
「荒唐無稽な話だ。普通なら、精神の失調を疑うところだろう。……けれど、この手帳に書かれている過去数年の経済推移、そしてまだ起きていないはずの医療技術の進歩や社会情勢の予測。これらを『偶然』や『妄想』として片付ける方が、僕にとっては非論理的だ」
佐藤は真っ直ぐに真由子を見つめた。その深い知性を宿した瞳には、恐怖も困惑もなく、ただ真実を受け入れるだけの深い納得があった。
「ずっと、君に対して抱いていた違和感の正体がようやく解けたよ。出会った高校生の頃から、君は時折、同年代の少女にはあり得ないほどの、全てを悟ったような悲しい目をしていた。合奏で初見のはずの曲を淀みなく吹いたことも、周囲の感情の機微を先回りして察知する能力も。……それが、四十九歳の魂が持つ重みと経験だったんだね」
「……信じて、くれるんですか?」
「ああ。僕の頭の中の計算はすべて合ったよ。……そして、君が最も苦しんでいる『遥』という娘さんの件についても、僕なりの解を出した」
佐藤は椅子を引き寄せ、真由子の正面に座った。
「真由子ちゃん。君は、健二の元に戻らなければ同じ娘は生まれない、だから自分は幸福になってはいけないと考えている。けれど、それは残酷な誤解だ」
「え……?」
「命の誕生というのは、遺伝子の組み合わせ、受精のタイミング、母体の環境……天文学的で、気が遠くなるような偶然の連続の上に成り立つものなんだ。たとえ君が過去と寸分違わぬ行動をなぞり、あの男と同じ日、同じ瞬間に結ばれたとしても、過去と『全く同じ魂の配列』を持った娘が宿る確率など、数学的にも生物学的にも、事実上ゼロだ」
佐藤は言葉を選びながら、静かに、けれど断固とした口調で続けた。
「君がたった一人で地獄に戻るという自己犠牲は、尊いけれど、あまりに悲しい幻に過ぎないんだよ。もう二度と再現できない『if』のために、今ここにある君自身の命と未来を投げ捨てることに、何の意味がある?」
「でも……でも、あの子は私にとって、すべてだったの……!」
真由子の目から、堪えきれずに大粒の涙が溢れ出した。理屈ではわかっていても、母親としての本能が、愛した我が子の温もりを手放すことを拒絶しているのだ。
「……わかっている。……なんて、偉そうに理屈っぽいことを並べたけれど」
佐藤はふっと、自嘲気味に微笑んだ。
そして席を立ち、真由子の座るソファのすぐ隣に腰を下ろすと、その震える手を大きな両手で優しく包み込んだ。
「本当は、そんなことどうでもいいんだ。論理も、生物学も、未来の予測も。僕にとっては、目の前にいる君が一人で苦しんでいる、その事実だけが問題なんだ」
佐藤の瞳に、これまで彼が頑なに抑え込んできた理性を完全に凌駕するような、剥き出しの情愛が宿った。
「一緒にいよう、真由子ちゃん。君が背負っている四十九年分の重荷も、遥さんへの罪悪感も、全部僕が半分持つ。……いや、僕が全部上書きしてやる。君のこれからの人生に、悲しい過去の影を一切踏ませない。僕にはその覚悟がある」
「……佐藤、先生……」
「一緒にいよう。……僕が、君を幸せにする」
その真っ直ぐな、あまりに純粋な告白。
彼がその言葉を口にした瞬間、真由子の中で張り詰めていた四十九年分の呪縛と防波堤が、音を立てて完全に崩れ去った。
ああ、この人は。
指導者でもなく、恩師でもなく。私という一人の女を、丸ごと愛し、命がけで守り抜くと決めてくれた、一人の男なのだ。
「……あ、ああああ……っ!」
真由子は、堪えきれない嗚咽と共に、誠の胸の中へと飛び込んだ。
百六十七センチの、決して大きくはないけれど、世界で一番温かくて揺るぎないその身体。
泣きじゃくる真由子を、誠は壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという強い意志を込めて、力強く抱きしめ続けた。
彼の胸から聞こえる力強い心音と、清潔な柔軟剤の香りが、真由子の冷え切っていた心を隅々まで満たしていく。
朝日が、二人の姿を淡く白く染めていく。
二度目の人生、二十三歳の秋。真由子はついに、自分を縛り続けていた幽霊たちから解放され、佐藤誠という「真実の光」の中に、自分の帰るべき永遠の居場所を見つけたのである。




