第二十四話 二〇〇一年秋【十月二十日の泥酔と、黒い手帳の告白】
二〇〇一年、十月二十日。
土曜日だったが、真由子は日直のためS大病院の薬剤部に出勤していた。
本来なら、先輩薬剤師の市川と二人体制のはずだったが、始業時間を過ぎても彼女は現れない。
不安に駆られていた時、さっとドアが開き、見慣れた男が入ってきた。
「おはよう、浅野さん。市川さんが熱を出してね、急遽僕が代わりに入ることになった」
白衣を羽織りながら微笑む佐藤。しかし、真由子の胸の奥では警報が鳴り響いていた。
(……困る。今日は、駄目。彼と二人きりなんて)
今日、十月二十日。
それは一度目の人生で、真由子が愛する娘・遥を産み落とした日だ。
二度目の人生のこの世界に、遥は存在しない。自分が佐藤に惹かれれば惹かれるほど、遥が生まれてくる可能性は完全に断たれてしまう。
罪悪感と喪失感で引き裂かれそうなこの日に、よりにもよって、彼と一緒にいなければならないなんて。
「……浅野さん。真由子ちゃん?」
ふいに、佐藤の大きな手が真由子の額に触れた。「顔が真っ青だよ。大丈夫?」
「大丈夫……です。でも、今日は定時で帰らせていただきます」
夕方。定時を迎えるや否や、逃げるように病院を飛び出した真由子は、松本の駅前をふらふらと歩いていた。秋の冷たい風が、薄手のコートの襟元をすり抜けていく。
気がつけば、真由子はかつて彼に連れてきてもらった、あのバーの前に立っていた。
あの日、自分が彼を骨の髄まで愛していると決定的に自覚してしまった思い出の場所。そのカウンターの隅に座り、度数の強い酒を一人で煽る。焼け付くようなアルコールで、胸をかきむしるような罪悪感をすべて麻痺させたかった。
何杯目かのグラスが空になった時。
「……こんなところで一人で酔い潰れるなんて、君らしくもないな」
隣に、薄手のコートを着た佐藤が立っていた。日直中から様子がおかしいと察し、さりげなく後を追ってきていたのだ。
真由子は何も言えず、ただ涙を流した。
「真由子ちゃん、立てるかい。……今の君を、実家のご家族の元へ帰すわけにはいかない。僕の家へおいで」
佐藤に支えられ、タクシーで向かった先は、松本市内の静かな住宅街にある広い一軒家だった。
そこは佐藤が生まれ育ち、父を看取った後も一人で守り続けている実家だった。佐藤の肩に縋り、真由子はその玄関を潜った。
リビングのソファに寝かされた瞬間、真由子の中で張り詰めていた狂気の糸が、ついにプツリと切れた。
「……私ね」
泥酔した真由子の口から、掠れた声がこぼれ落ちる。
「私、本当は、二十三歳なんかじゃないの。……四十九歳なの」
意味不明な言葉。しかし、佐藤の瞳は驚くでもなく、ただ悲痛な熱を帯びて真由子を見つめていた。
「一度目の人生で、私は花岡健二さんと結婚したの。……そして、今日。二〇〇八年の十月二十日に……遥っていう、可愛い女の子を産んだの。私の、たった一人の娘……!」
真由子はソファから崩れ落ち、佐藤の膝に縋り付いて泣きじゃくった。
「あなたを好きになったら、遥が消えちゃう! 私のせいで、あの子がこの世に生まれてこなくなっちゃうの……! どうしたらいいの……好きになんて、なりたくなかった……!」
狂気的な告白。論理も科学も完全に無視したその言葉に、佐藤の頭の中の計算機はショート寸前のエラーを吐き出していたはずだ。
しかし、彼の静かな瞳は微塵も揺らがなかった。彼はただ黙って、泣き叫ぶ真由子の背中を一定のリズムで撫で続けていた。
「……先生」
真由子は涙で濡れた顔を上げ、すがるように佐藤のシャツの胸元を掴んだ。
「お願い、私を抱いて。……頭がおかしくなりそうなの。あなたの体温で、全部塗り潰して……!」
自分から女としての好意を突きつけ、身体を差し出す。絶望に任せた、自暴自棄な懇願だった。
一九九五年の秋から丸六年間。誰よりも彼女を求め、手に入れるための完璧な地盤を固め続けてきた彼にとって、それは喉から手が出るほど欲しい提案だったはずだ。
しかし、佐藤の大きな手は、真由子の震える肩を優しく、けれど断固たる力で押し留めた。
「……駄目だ」
「どうして……っ」
「君が今、どんな絶望の中にいるのか、僕には完璧には計算できない。でも、だからといって、君の傷の逃げ道に僕の身体を使うことは絶対に許さない」
佐藤は真由子の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「僕は、君を一生大切にすると決めている。だからこそ、こんな風に、君が自分自身を傷つけるような夜に抱くわけにはいかないんだ」
佐藤は一晩中、ソファの傍らで真由子の手を握り、彼女が泣き疲れて眠りにつくのを見守り続けた。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光と、香ばしい豆の香りで真由子は目を覚ました。
二日酔いの重い頭を抱えて顔を上げると、キッチンに立つ佐藤の背中が見えた。彼は昨夜の深刻な空気など微塵も感じさせない、穏やかな日常のトーンで振り向いた。
「おはよう、真由子ちゃん。コーヒー、飲む?」
その言葉は、冷え切っていた真由子の心を温かい毛布で包み込むような優しさに満ちていた。
(……なんて温かい人なんだろう)
昨夜の失態を思い出し、顔から火が出るほどの羞恥に襲われながらも、真由子はその日常の温もりを拒むことができなかった。
「……いただきます」
差し出されたマグカップを両手で包み込み、ゆっくりと一口飲む。
沈黙の中、真由子は意を決して、自分のバッグから「ある物」を取り出した。それは、逆行直後から記憶を頼りに書き留めてきた、黒ビニール表紙の小さな手帳だった。
「……先生。昨夜言ったことは、嘘じゃないんです」
真由子は、その黒い手帳を佐藤に差し出した。
「これが、私が未来から来たという証拠です。ここに、これから起こる出来事や、私が守りたかったものが全部書いてあります」
佐藤はコーヒーを置き、静かにその手帳を受け取ると、ゆっくりとページをめくり始めた。
朝日が満ちる実家のリビングで、二人の本当の「運命の共有」が、今ようやく始まろうとしていた。




