第二十三話 二〇〇一年秋【親友の生温かい目と、十月の呪縛】
二〇〇一年、九月。
常念松本吹奏楽団の、とある穏やかな夜間練習でのこと。
その日、真由子は職場の当直でたまたま欠席していた。
休憩時間。佐藤は合奏の席から離れ、壁際の机に座ってのんびりとリードの調整をしている美穂の元へ、さりげなく自然な足取りを装って近づいた。
「美穂さん。……少し、いいかな」
「あ、はい。佐藤さん、お疲れ様です。どうしました?」
「いや。……浅野さんは、中学の頃はどんな感じだったのかなと思ってね。その……彼女の音楽的なルーツを把握しておくことが、今後のアンサンブルの最適解を導き出すために必要だと思って。あくまで、高校時代の『元・指導者』として気になっただけなんだが」
二十八歳、S大病院勤務のエリート研究者が必死にひねり出した、あまりにも理屈っぽく苦しい言い訳。
美穂は手元のリードケースから顔を上げ、すべてを見透かしたような『生温かい目』で彼を見つめた。
(相変わらず、真由子のことになると分かりやすい人……)
「ふふっ。私は真由子とは小学校の時から一緒だったんですけど……真由子、中一の夏ぐらいから急に楽器が上手になって、すごく大人っぽくなったんですよね」
「……中一の、夏」
「はい。それまでは私と一緒に花岡さんを見て『かっこいいー!』ってキャーキャー言ってたんですけど、その頃からピタッと言わなくなったんです。まるで、急に憑き物が落ちたみたいに」
(……花岡健二。あの男への興味が、中一の夏で完全に途絶えた……?)
佐藤の頭の中の計算機が、高速で稼働する。
彼女の不可解な成熟と、時折見せる深い影。それが「中一の夏(一九九〇年)」を境に突然現れたという美穂の証言は、佐藤の脳内に解き明かすべき『最大の変数』として深く刻み込まれた。
考え込む佐藤を見て、美穂がふと声を潜め、からかうような、けれど真剣なトーンで言った。
「佐藤さん。真由子って、ああ見えて恋愛に関してはものすごく鈍感なんですよ。他の人が誰を好きかっていうのはすぐに当てちゃうくせに、自分に向けられた好意には全く気づかなくて」
「……」
「浩平先輩の時だって、周りのみんなで示し合わせてくっつけようと裏で動いたりしたんですから。……あっ」
美穂がハッとして口を押さえる。
「ごめんなさい、私ったら。元カレの話なんて……」
「……いや。彼のことは、知っている。気にしなくていい」
胸の奥でチリッと警報を鳴らした『嫉妬』という不快なバグを必死に抑え込み、佐藤は極めて冷静な声で頷いた。
(そうか。彼女から積極的に好きになったわけではなく、周囲の環境に流された部分もあったのか。……ならば)
自分に都合の良い計算式をこっそり組み立て始めた佐藤の姿に、美穂はクスッと笑ってリードケースを閉じた。
「佐藤さん、頑張ってくださいね。私、応援してますから」
「なっ……! な、なんのことだ? 僕は純粋に、楽団員としての客観的なアプローチを——」
「はいはい。じゃあ私、そろそろ合奏の席に戻りまーす!」
からかわれて早口で弁解し始めた佐藤を残し、美穂は机から立ち上がる。
だが、その足取りは少しだけ重かった。
(佐藤さん。……真由子は時々、どうしようもなく深い闇みたいなものを一人で抱え込んでいる顔をするんです。私には、あの子の悲しみの正体がわからない。……だから、どうか。あの子の心を、あなたが救ってあげてください)
そんな美穂の密かな親友としての祈りを知る由もなく、一人取り残された佐藤は、完全に赤くなった耳を持て余しながら深々と溜息をついた。
(……真由子ちゃんの親友は、なかなかに侮れないな)
十月上旬。
公民館の音楽室。
合奏前の少しざわついた時間。化粧室から出た真由子の耳に、よく知ったホルンの音が飛び込んできた。
佐藤が、一人で練習をしている音だ。
真由子は吸い寄せられるように廊下の陰で足を止め、こっそりと彼の姿を見つめながら、その音に聴き入った。
正確で、丁寧で、どこまでも深い音色。
(いつまでも、聴いていたい……)
無意識のうちに頬が熱くなり、顔が綻んでいくのが自分でもわかった。きっと今の彼女は、誰がどう見ても「恋する乙女」のような顔をしているだろう。
だが、その甘い感情を自覚した瞬間、鋭い痛みが真由子の胸を刺した。
十月は、一度目の人生で、愛娘の『遥』が生まれた月だ。
二十日。その日付が近づくにつれて、真由子の心は過去の記憶と罪悪感で目に見えてすり減っていた。
腕の中に残る、あの小さくて温かい命の重み。ミルクの甘い匂い。初めて「ママ」と呼ばれた日の、胸が震えるような喜び。
このままこの楽団で待っていれば、二〇〇四年に健二が現れる。そしてもう一度あの男を選び、あの地獄のような人生をなぞれば、真由子はまた遥に出会えるはずなのだ。
自分を、包み込んでほしい。
……すべてを忘れて、佐藤の腕の中に飛び込んでしまいたい。
けれど。
(あの子のことを考えると、佐藤先生の腕には飛び込めない……)
もし真由子が彼を愛し、彼を選んでしまえば、健二と再会する未来は消滅する。それはつまり、愛する我が子・遥の存在を、母親である自分の手で「完全に上書きして殺してしまう」ことと同義だった。
高校生の頃、浩平と別れた時は、美穂の部屋で思い切り泣いて、慰めてもらうことができた。
でも、今彼女が抱えているこの気が狂いそうな絶望は、親友の美穂にだって、もちろん愛する彼にだって、絶対に打ち明けることはできない。
タイムリープなんていう異常な事実も、未来の命を消してしまうという母親としての罪悪感も、すべて真由子一人の胸の奥で抱えたまま生きるしかないのだ。
(辛いよ……誰にも、話せない……)
溢れ出す彼への愛おしさと、それを無残に引き裂くような孤独な絶望。
真由子はたまらなくなってギュッと強く目を閉じ、胸の奥から湧き上がる狂おしいほどの欲求を、必死に押さえ込んだ。
——でも。
もう、限界かもしれない。
第二十三話 吹奏楽用語辞典
・アンサンブル
もともとはフランス語で「一緒に」という意味で、音楽の世界では2人以上で音を合わせる「合奏・重奏」を指します。
吹奏楽の冬の大会には、8人以下の少人数で指揮者を置かずに演奏する『アンサンブルコンテスト(通称:アンコン)』という形式のコンクールもあります。
しかしここで佐藤が語っている「アンサンブル」は大会のことではなく、同じフレーズや対旋律(メインのメロディに対する別のメロディ)を吹く際に、お互いの息遣い、音の方向性、そして呼吸を繊細に感じ取りながら、ひとつの音楽として美しく調和させて吹くことを意味しています。




