第二十二話 二〇〇一年初頭【追憶のスコアと、満ちていく包容の音】
二〇〇一年、一月。
松本の冬は、肌を刺すような寒さが続いていた。
あの日、バーで自分の恋心を決定的に自覚して以来、真由子は佐藤に対して、無意識に心のシャッターを下ろしていた。
佐藤を避けているわけではない。仕事上のコミュニケーションは完璧にこなしている。だが、彼の視線が自分に留まるたびに、耳の奥まで熱くなるのを隠すのに必死だった。
そして何より、彼を愛せば愛すほど、一度目の人生で抱きしめた娘・遥の感触が指先から消えていくような恐怖が、真由子を苛んでいた。
(私は、彼を好きになってはいけない。……でも、離れ方もわからない)
そんなある日の昼休み。調剤室の片隅で資料を整理していた真由子の隣に、佐藤が音もなく立った。
「……浅野さん。少し、いいかな」
「あ、はい。佐藤先生、何か?」
必要以上に丁寧な敬語を使う真由子に、佐藤は眼鏡の奥の瞳を一瞬だけ細めた。彼の「人間計算機」は、彼女の微かな態度の硬化を逃さず、その理由を独自のロジックで分析し始めているようだった。
「仕事以外の話だ。……実は、僕が入っている松本の市民吹奏楽団なんだけどね。クラリネットがいつも人手不足で困っていて。君さえよければ、次の週末、見学に来ないか? もちろん大歓迎されるはずだ」
「えっ……市民バンド……。それって、もしかして『常念松本吹奏楽団』ですか?」
「ああ、そうだが」
その名前を聞いた瞬間、真由子の胸の奥が冷たく強張った。
忘れもしない。一度目の人生で、真由子が大学を卒業した後に誘われて入団し……そして、花岡健二と出会った、因縁の楽団だ。
この数年後に転勤で松本にやってきた、圧倒的な才能を持つ証券マンであった彼と交際0日婚に至り、真由子の人生の歯車は狂い始めたのだ。
健二はいまはここにいないとわかっていても、どうしても当時の記憶がフラッシュバックされて苦しくなった。
一瞬、息が詰まる真由子の様子を見て、佐藤が少しだけ首を傾げた。
「……どうかしたかな。無理にとは言わないよ。ただ、今の君には、少し『呼吸』が必要だと思ったんだ。張り詰めた弦はいずれ切れる。週末、楽器を吹いて張力を逃がすのは、君にとっても良い気分転換になるはずだ」
佐藤の静かな声が、過去の冷たい記憶を溶かすように響く。
「僕もホルンを吹いている。……一緒に、どうかな」
少しだけ不安げに語尾を落とす佐藤に、真由子の心はあっけなく降伏した。
一度目の人生では、あそこは健二の支配する場所だった。でも、今は違う。自分の力で運命を掴み取り、自立した二度目の人生を歩んでいる。
そして何より、今の私の隣には、健二ではなく佐藤誠が立っている。彼と一緒に、あの場所の記憶をもう一度「私自身の音楽」で塗り替えたい。
「……行きます。ぜひ、見学させてください」
真由子が答えると、佐藤はホッとしたように小さく頷いた。
「よかった。……では、今週末が初練習だ。クラリネットのケースを持って冬の道を歩くのは非効率だから、僕が車で迎えに行くよ」
「えっ、いえ、家まで来ていただくのはさすがに……!」
真由子は慌てて首を振った。男の人を、しかも自分が密かに想いを寄せている人を実家に近づけるのは、心理的なハードルが高すぎた。
「……じゃあ、家の近くのコンビニで待ち合わせでお願いします。あそこなら駐車場も広いですし」
真由子が少し早口で誤魔化すように言うと、佐藤は深くは追及せず、「わかった。じゃあ、土曜日の夕方五時に」とあっさり了承した。
土曜日の夕暮れ時。
雪がちらつくコンビニの駐車場に、水平対向エンジンの特徴的な重低音を響かせながら、一台のダークブルーのセダンが静かに滑り込んできた。
雪道にもびくともしない四輪駆動の、洗練されたスポーティな車体。
助手席のドアが開き、「寒かっただろう、早く入りなさい」と佐藤の声がする。
真由子がクラリネットのケースを抱えて乗り込むと、暖かな車内には、彼がいつも纏っている清潔な柔軟剤の匂いが微かに漂っていた。
「シートベルトを。……よし、行くよ」
彼がハンドルを握る横顔や、シフトレバーを的確に操作する長い指先。その洗練された大人の男の仕草を隣で見るだけで、真由子の心臓は警鐘のようにうるさく鳴り続けていた。
車は松本市内の公民館へと向かう。
夜の帳が下りる頃、音楽室に足を踏み入れた真由子の胸には、形容しがたい懐かしさと微かな緊張が入り交じっていた。
「浅野さん? もしかして、真由子?」
ふいに声をかけられ振り返ると、そこには中学時代の親友である美穂の姿があった。
「美穂! 久しぶり……!」
「やっぱり! クラリネット、ずっと続けてたの?」
「ううん、第一線からは引退したんだけどね。高校の時に『忙しくても、息抜きできる趣味は持っていた方がいい』ってアドバイスをもらって。大学時代も、すごく緩いサークルで細々と吹いてたの」
真由子が少し照れくさそうに笑うと、背後に立つ佐藤が、ひっそりと、だが明らかな慈しみを込めて目を細めた。
普段の彼からは想像できないほど柔らかいその表情に、美穂は一瞬だけ目を丸くした。
「……真由子、佐藤さんとは……」
探るような美穂の視線に、当の真由子はきょとんとした顔で答えた。
「ああ、職場の先輩で、高校の時に私にそのアドバイスをくれた恩師なの」
「え? ……あっ、あ、そう……」
真由子のまったく裏表のない「恩師」という言葉と、背後の佐藤から漏れ出ている隠しきれない独占欲。その二つを交互に見比べ——美穂は何かをストンと腑に落としたように、呆れたようなため息を短く吐いた。
「……あっ、藤原さん! こちら浅野真由子です、私と同じ中学のエースだった子です!」
クラリネット担当である真由子は、人手不足のパートから大歓迎を受け、すぐに合奏の席につくことになった。
譜面台に配られた楽譜のタイトルを見て、真由子は内心で小さく息を吐いた。
(……全部、一度目の人生で、ここで吹いた曲だ)
指揮者がタクトを構え、合奏が始まる。
真由子は初見のふりをして楽器を構えるが、指の筋肉が完璧に運指を記憶している。ただ思い出すだけで、淀みなくメロディを奏でることができた。
だからこそ、真由子の意識は自分の演奏ではなく、背後から聴こえてくる「音」へと自然にフォーカスされていった。
ホルン奏者である佐藤の音が、音楽室の空気を震わせる。
真由子は、薄い記憶の糸を手繰り寄せた。一度目の人生でこのバンドにいた時も、彼は同じ空間でホルンを吹いていたはずだ。健二の背後で、親友として。
しかし、当時の真由子の記憶に、彼の音はまったく残っていなかった。
(……そうだ。あの頃の佐藤先生の音は、どこか空虚だった)
父の病気、看病、絶たれた研究への夢。自分の人生を諦め、義務と責任だけで日々をすり減らしていた一度目の彼。その絶望が、音から生気を奪っていたのだから、真由子の心に響かなくて当然だった。
しかし、今の音は違う。
背後から響くそのホルンは、どこまでも優しく、そして決して揺らがない芯があった。正確なピッチとタイミングで、真由子のクラリネットを土台から支え、魂を癒やすような絶対的な包容力で包み込んでくる。
それは、真由子という光を得て、自分自身の未来への熱を取り戻した「佐藤誠の生命の音」そのものだった。
(なんて、素敵な音なんだろう……。恋心を抜きにしたって、この音はずっと聴いていたくなる)
真由子は目を閉じ、彼の音の波に身を委ねた。
健二が奏でていた、本能を暴く暴力的な音とはまるで違う。私を支配するのではなく、私の足元を照らし、共に歩んでくれる音。
今はただ、この音を全身で感じるだけでいい。彼の隣で、心地よい音楽に浸っていられれば、それで十分なのだ。
真由子は自分にそう言い聞かせ、必死に理性の蓋を押さえつけようとした。
しかし、一度自覚してしまった激しい恋心が、そんな綺麗な言い訳で大人しく収まるはずがなかった。
彼の優しさに触れるたび、その音に包まれるたび、「彼に触れたい」「彼を誰にも渡したくない」という剥き出しの熱情が、静かに、けれど確実に真由子の心を侵食し始めていた。
一方で、斜め後ろの金管列。
ホルンを構えた佐藤は、合奏の最中、不意に眼鏡の奥の目を鋭く細め、真由子の背中を一瞥した。
再びクラリネットを手にした彼女は、久しぶりに生き生きと輝いて見えている。 しかし、佐藤の耳は誤魔化せなかった。数年のブランクがあるはずの彼女が、配られたばかりの新曲を奏でるその音色に、彼の頭の中の計算機が明確な「数式のズレ」を検知していたのだ。
——佐藤は微かに眉を顰め、何かを思案するように彼女の横顔を静かに見つめた。
しかし、彼はそれ以上深く探ろうとはせず、すぐに元の穏やかな眼差しへと戻った。 今はただ、真由子が自分の隣で再び楽器を吹き、楽しそうに笑っているという事実だけで十分だったからだ。
健二と出会った因縁の場所は、佐藤の深い包容の音によって、真由子にとって確かな安らぎの空間へと変わり始めていた。




