第二十一話 二〇〇〇年冬【琥珀色の約束と、崩れゆく防波堤】
「浅野さん。今夜、少し時間は空いているかな」
週末の金曜日の夕方。白衣を脱いで私服に着替えた佐藤が、真由子の前に立った。
ウールの仕立ての良いコートを羽織った彼は、病院で見せる「指導教官」の顔から、一人の洗練された大人の男の顔へと切り替わっていた。
「はい、特に予定はありませんが……」
「そうか。なら、五年前の『約束』を果たしに行こう」
約束。
その言葉に、真由子の脳裏に一つの情景が鮮やかにフラッシュバックした。
——一九九五年、秋。東京、普門館の帰り道。
少し濁った白い空の下、真由子がサックスの女の子の演奏に涙したあの日のことだ。
泣き止んだ真由子に、佐藤は自販機で買った温かい缶のミルクティーを手渡しながら、優しい声で言ったのだ。
『今はまだ、お茶しか奢れないな。君は未成年だから。……いつか、君が大人になって、自分の足で立てるようになったら。その時は、美味しいお酒を飲みに行こう。約束だ』
(佐藤先生……あの時のこと、ずっと覚えていてくれたんだ)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
吐く息も白く凍る十二月の夜気を抜け、連れて行かれたのは、松本市内の裏路地にひっそりと佇む、オーセンティックなバーだった。
仄暗い照明の中、磨き上げられた一枚板のカウンター。静かに流れるジャズの調べ。二十三歳の真由子にはまだ少し不相応に思えるほど、本物の大人だけが許される空間だった。
「何を飲もうか。君の好きそうな、甘くて度数の低いカクテルを頼むよ」
隣に座った佐藤が、マスターに静かにオーダーを通す。グラスに氷がぶつかるカラン、という涼やかな音が響いた。
「先生……あの日の約束、ずっと覚えていてくださったんですね」
「当然だ。僕の記憶力と計算を甘く見ないでほしいな」
佐藤が眼鏡の奥の目を細めて、微かに笑う。
「国家試験合格、そして一人前の薬剤師としての第一歩。……遅くなったけれど、おめでとう、真由子ちゃん」
カチン、とグラスを合わせる。
病院では「浅野さん」と呼ぶ彼が、今夜だけは五年前と同じ「真由子ちゃん」と呼んだ。その境界線の揺らぎに、真由子の心臓はまたしても甘く、苦しく跳ねた。
彼にふさわしい、自立したプロフェッショナルになりたい。そう誓ったばかりなのに、彼の隣にいると、どうしようもなく甘やかされたくなってしまう。
その時だった。
「あら、佐藤先生じゃない。奇遇ね」
ふわりと、高級な香水の匂いが漂ってきた。
真由子の背後から現れたのは、S大病院の外科に勤める、三十代半ばの美しい女医だった。彼女は佐藤の隣に滑り込むように立つと、親しげにその肩に手を置いた。
「先生、最近冷たいじゃない。何度食事に誘っても、忙しいって断るんだもの。今日はこんな可愛い子とデートだったの?」
女医の視線が、値踏みするように真由子に向けられる。
「あ、あの、私は職場の後輩で……」
真由子が慌てて否定しようとした瞬間、女医は真由子から興味を失ったように佐藤へ向き直り、その顔を艶やかに近づけた。
「ねえ、この後、私の行きつけの店に寄らない? 先生に相談したいオペの件もあるし……」
その光景を見た瞬間。
真由子の中で、ピンと張り詰めていた「理性」という名の防波堤が、音を立てて崩れ去った。
(嫌だ)
心の中にドロリと湧き上がったのは、醜いほどの強烈な『独占欲』だった。
一度目の人生で、健二に別の女性の影がちらついた時。私はただ、ひたすらに『悲しかった』だけだった。彼に見捨てられることへの恐怖と、惨めな自己嫌悪で泣くことしかできなかった。
でも、今は違う。
彼の肩に置かれたその手に、今すぐ触れないでと言い放ちたい。彼に向けられる甘えた声も、大人の女の余裕も、すべてが神経を逆撫でする。
私は彼と「対等なプロ」になりたいと願っていたはずだ。尊敬される同僚になりたいと。
それなのに、今、真由子の頭を支配しているのは、知性も理性も欠け落ちた、ただの嫉妬に狂う一人の「女」の感情だった。
(……ああ。私、この人のことが……)
言い訳の余地など、もうどこにもなかった。
尊敬なんかじゃない。恩師への憧れでもない。
真由子は、佐藤誠という一人の男を、骨の髄まで愛してしまっているのだ。
「……申し訳ありませんが、ご一緒できません。今夜は、彼女のために空けた大切な時間ですので」
ふいに、佐藤の低く冷ややかな声が空気を切った。
彼は肩に置かれた女医の手を紳士的に、しかし明確な拒絶の意志を持って外し、真由子の方へと体を向け直した。
「それに、僕の視線は一つしかない。今夜は彼女から目を外す気はありませんから」
完璧なまでに冷徹な、大人の男の拒絶。
女医はバツが悪そうに「……そう、お邪魔したわね」とヒールを鳴らして去っていった。
再び二人きりになったカウンター。
佐藤は何事もなかったかのようにグラスを傾けている。しかし、真由子の胸の奥では、自覚してしまった「恋心」が、制御不能な熱を帯びて激しく燃え上がっていた。
(どうしよう……好きだ。狂おしいくらい、好きになってしまった)
琥珀色のカクテルを握りしめながら、真由子は泣き出しそうな思いで俯いた。
彼への恋心を自覚した歓喜。しかしそれと同時に、四十九歳の真由子の記憶が、一つの残酷な真実を突きつけてくる。
——もし、私が彼を愛し、彼と結ばれてしまえば。
一度目の人生で愛した娘、遥は、この世に生まれてこない。
芽生えたばかりの鮮烈な恋情の裏側で、真由子を待ち受ける「究極の絶望」の足音が、静かに近づいていた。




