第二十話 二〇〇〇年冬【白衣の引力と、隣を歩くための処方箋】
二〇〇〇年、十一月末。
S大学医学部附属病院の周囲は、この冬初めて降り積もった深く静かな雪に覆われていた。
入職から半年以上が過ぎ、真由子も少しずつ病棟での業務を任されるようになっていた。しかし、命を預かる医療の現場は、常に張り詰めた緊張感と隣り合わせだ。
その日の午後、病棟のナースステーションのカウンターで、真由子は循環器内科の処方箋と紙カルテを見比べてハッと手を止めた。
「……あれ?」
新しく追加された降圧剤と、患者が以前から飲んでいる別の薬。単独なら問題ないが、今のこの患者の弱った腎機能の数値のまま二つを同時に飲むと、薬の成分が体内に異常に蓄積し、血圧が危険なほど下がりすぎる恐れがあった。
いわゆる『相互作用』のリスクだ。医師に処方の変更を提案する「疑義照会」を行わなければならない。
しかし、今回の処方元の医師は、病院内でも気性が荒く「絶対に自分の処方を曲げない」ことで有名なベテランの教授だった。
一度目の人生の、花岡健二のあの容赦ない怒鳴り声が不意に脳裏をよぎる。フラッシュバックを起こし、受話器へ伸ばそうとした真由子の手が微かに震えた。
(でも、私がここで怯んだら、患者さんが危険に晒される……!)
意を決して受話器を取ろうとした、その時だった。
「浅野さん。どうした?」
真由子の震える手に、横からスッと、少しだけ体温の高い端正な指先が重なった。
ハッとして顔を上げると、指導薬剤師である佐藤がすぐ傍らに立ち、いつものように静かな、けれど底の知れないほど深い瞳で彼女を見下ろしていた。
「あ、佐藤先生……。この処方箋なんですが、患者さんの今日の腎機能データを見ると、この組み合わせと投与量では薬が効きすぎてしまうリスクがあると思うんです。でも、相手が、あの教授で……」
焦りで早口になる真由子から、佐藤はカルテの数値と処方箋を一瞥した。そして、ふっと微かに口元を緩める。
「素晴らしい。よく気づいたね。君の計算は完璧に合っている」
「先生……」
「僕が代わって電話をかけるのは簡単だ。でも、君はもうプロの薬剤師だ。自分の導き出した解に、自信を持ちなさい」
佐藤は真由子から受話器を取り上げることはせず、彼女のすぐ斜め後ろに立った。
彼がカルテを覗き込むように少しだけ身を乗り出すと、真由子の肩越しに彼のパリッとした白衣の気配が近づく。決して、不自然に触れ合うような距離ではない。
それなのに、清潔な匂いと共に彼の身体から伝わる静かな熱が、真由子の震える背中を確かな『盾』のように温かく守ってくれていた。
「大丈夫。君の論理の裏付けは、僕がこの場で完全に保証する。もし彼が感情的に怒鳴るようなノイズを出してきたら、その時は僕が理論で完璧にねじ伏せてやる。だから、安心してかけなさい」
その言葉と、背中越しに感じる「彼がそこにいてくれる」という絶対的な安心感は、どんな甘い慰めよりも真由子に圧倒的な勇気を与えた。
真由子は深く息を吸い込み、恐怖を振り払って教授のPHSに電話をかけた。
案の定、最初は「私の処方にケチをつける気か」と不機嫌そうに応答した教授だったが、真由子が佐藤に教え込まれた通りの理路整然としたエビデンスと、より安全な代替案を提示すると、やがて電話の向こうの声音が変わった。
「……なるほど、そのデータ通りなら変更した方が合理的だな。わかった、君の言う通りに変更しておいてくれ」
「ありがとうございます。失礼いたします」
「……やりました」
受話器を置いた真由子が、張り詰めていた緊張から解放されて安堵の息を吐き出す。
すると佐藤は「お疲れ様」と短く言い、自分の白衣のポケットから温かい缶のミルクティーを取り出して、真由子のポケットにそっと滑り込ませた。
「えっ……」
「糖分補給だ。君は緊張すると、いつも指先が冷たくなるからね。……少し休んでおいで」
そう言って歩き出す彼の白衣の背中は、凛としていて、どこまでも頼もしかった。
休憩室の丸椅子に座り、一人で温かいミルクティーを両手で包み込む。
じんわりと手に伝わる熱と一緒に、五年前の秋、東京の白い空の下で彼が同じように持たせてくれた缶の温もりと、先ほど自分の背中越しに感じた、彼の大きくて確かな体温が蘇ってきた。
(先輩は……佐藤先生は、私の癖をずっと覚えていてくれたんだ……)
胸の奥が、切ないほどに甘く疼く。
同時に真由子は、自分の中に芽生えた強烈な「渇望」に気づいてハッとした。
一度目の人生では、ただ健二の威圧から逃げたかった。浩平には、安全な場所でお姫様のように守ってほしかった。 でも、今は違う。
(私は、佐藤先生の背中に隠れて守られたいわけじゃない。……一日でも早く一人前のプロになって、あの人の隣を歩きたい。あの完璧な計算機の、正当な『共同作業者』になりたいんだ)
それは、ただの指導者への尊敬や恩義の域を、完全に超えていた。
彼の深い知性に惹かれ、彼が背負う孤独を想い、彼と共に同じ景色を見て生きたいと願う心。
手の中にあるミルクティーの熱よりもずっと熱いものが、胸の奥底からとめどなく込み上げてくる。
(ちがう、これは尊敬じゃない。でも、この感情に、名前をつけてしまったら、私はもう——)
必死に蓋をしてきた感情の名前に、指先が触れそうになったその時。
真由子の心臓は、これ以上は引き返せない領域へ踏み込むことを恐れる警鐘のように、ひときわ大きく、激しく跳ねたのだった。




