第十九話 二〇〇〇年【白衣の再会と、無自覚な心音】
二〇〇〇年、四月。
薬剤師免許を手にし、真由子が新たな一歩を踏み出した場所は、地元・長野県のS大学医学部附属病院だった。
一度目の人生では、どこか投げやりな気持ちで就職を決めていた真由子。しかし今は違う。この場所でプロフェッショナルとして生き、誰かを救うのだという強い覚悟がある。
真新しい白衣を纏い、背筋を伸ばして薬剤部の扉を開ける。特有の薬の匂いと、忙しなく行き交うスタッフたちの熱気が、真由子の顔を撫でた。
「——浅野真由子さんですね」
呼ばれた声に顔を上げると、そこには、一人の男が立っていた。
隙一つなく結ばれたネクタイに、糊のきいた真っ白な白衣を羽織り、首からはネームプレートを提げている。
眼鏡の奥の瞳は、五年前のあの日、松本の音楽室で見た時よりも、さらに深く、鋭い知性を宿している。
「佐藤……先輩」
「ここでは、佐藤先生、と呼んでほしいな。今日から君の指導担当を務めることになった」
佐藤誠は、そう言ってわずかに口角を上げた。
かつての「トレーナーと部長」から、「指導薬剤師と新人」へ。
二人の立場は、再び、教え教えられる関係として交わった。
真由子は、彼がこの数年、どれほどの重圧に耐えてきたかを知っている。父親を看取り、病院の最前線で働き、夜は医学部で研究に没頭する。その過酷な日々の果てに、彼は今、この巨大な病院で欠かせない存在としての地位を確固たるものにしていた。
「よろしくお願いします、佐藤先生」
真由子が深く一礼すると、佐藤は満足そうに深く頷いた。
「君が来るのを、待っていたよ。……さあ、行こうか。まずは調剤室のシステムから説明する」
案内された調剤室は、想像以上の戦場だった。
飛び交う処方箋、厳重に管理された麻薬や向精神薬の棚、そして何百種類もの錠剤。医師の処方に間違いがないかを鋭くチェックする先輩薬剤師たちの、張り詰めた空気が満ちている。
一度目の人生では事務職だった真由子にとって、この命に直結する医療現場の熱量は、中身が四十九歳であっても圧倒されるものがあった。
しかし、先頭に立つ佐藤の動きには一点の迷いもなかった。
「当院のシステムは、視覚的な効率化を最優先している。だが、最後に命のフィルターとなるのは僕たち薬剤師の目だ。見落としは一パーセントも許されない」
理路整然と、かつ厳格に語る彼の声。
歩き出す彼の大きな背中を追いかけながら、真由子は胸の奥がトクン、と甘く高鳴るのを感じていた。
S大病院という大きな組織の中で、彼と再びこうして一番近い距離で関われること。それを真由子は「本当に幸運な偶然」だと信じて疑わなかった。
まさか彼が、何年も前からこの再会を計算し尽くし、自分が真由子の指導担当になるよう完璧に根回しをしていたなどとは、微塵も想像していない。
先を歩く彼の白衣が翻るたびに、清潔な柔軟剤とアルコールの混ざった匂いがフワリと鼻をかすめる。
真由子の名前を呼ぶ、低くて耳の奥を撫でるような声。
カルテや処方箋をめくる際の、長く骨ばった綺麗な指先。
それらを視界の端に捉えるだけで、真由子の心臓はどうしようもないほど騒がしく脈打っていた。
(しっかりしなさい、私。佐藤先生は高校時代の恩師よ。この高鳴りはただの尊敬。立派な薬剤師になるための、身の引き締まる思いと心地よい緊張感なんだから!)
そう必死に自分に言い聞かせなければならないほど、彼女の視線は無意識のうちに「男としての彼」を追ってしまっていた。
もしこの鼓動の正体を「別の名前」で呼んでしまえば、せっかく築き上げた自立への足場が崩れ、彼に甘え、頼りきりになってしまう気がしたのだ。
(私は、自分の足で立つと決めたんだ。だから、今は勉強に集中しなきゃ)
だからこそ真由子は、必死に蓋をしている自分の心を守るために、彼からの特別扱いをすべて「優秀な先輩からの熱心な指導」へと都合よく変換してしまっていた。
二度目の人生、二十三歳の春。
白衣を纏った二人の、甘くてもどかしい「すれ違い」の日々が、いよいよ静かに動き出そうとしていた。




