第十八話 一九九六〜一九九九年 【静かなる共鳴と、温かな命の贈り物】
一九九六年、春。
真由子は無事に志望校である国公立大学の薬学部に合格し、住み慣れた松本の街を離れ、自身の専門性を磨くための四年間をスタートさせた。
一方の佐藤は、予定通り松本に留まり、過酷な生活を始めた。
父親の看病、S大学医学部附属病院の薬剤部での勤務、そして医学部での研究。
普通の人間なら確実に破綻する、この「三足のわらじ」。彼がかつてT大教授に提示したこの冷徹な数式は、今や全く別の熱を帯びていた。
真由子が大学生として過ごす、これからの四年間。彼が松本で地盤を固めるためのこの期間は、やがて彼女が社会に出た時に安心して寄りかかれる、「頼れる大人」としての絶対的な基盤を完成させるための準備期間へとすり替わっていたのだ。
この年、松本蒼峰高校吹奏楽部の三年生たちは、周囲が驚くほどの快挙を成し遂げた。全員が現役で志望校への合格を勝ち取ったのだ。
佐藤が授けた「短時間で密度を上げる」という合理的、かつ哲学的な練習法・学習法は、部員たちの人生に吹奏楽以上の大きな影響を与えていた。卒業式の日、部員たちが口々に「佐藤先輩のおかげです」と涙ながらに語る姿は、今や部の新たな伝説となっていた。
真由子は、放課後の音楽室で交わした約束を守り、下宿先が決まるとすぐに佐藤へ手紙を出して住所を伝えた。
ほどなくして、佐藤から小包が届いた。中には数冊の分厚い参考書と、短い手紙が添えられている。
『真由子ちゃん。薬学部の化学は最初が肝心だ。行き詰まったら、三十二ページの書き込みを見てほしい』
「ふふ、ポイントいっぱい書いてくれてる」
ページをめくると、端正な字でびっしりと補足が書き込まれていた。一度目の人生で文系だった真由子にとって、高度な化学や薬理学の講義は、中身が四十九歳であっても容易なものではなかった。
しかし、その書き込みは、まるで彼が真由子の行き詰まるポイントを予測していたかのように的確で、難解な数式を魔法のように解きほぐしていく。
将来、自分の足で立ち、誰かを救うための学び。
かつての閉塞感に満ちた事務作業とは比べものにならないほど充実した日々の中で、真由子は折に触れて、遠い松本にいる彼に心の中で感謝した。
松本を離れている四年間、二人が顔を合わせることは、ほとんどなかった。
代わりに二人の間を繋いだのは、数ヶ月に一度やり取りされる「手紙」だった。
世間ではポケベルからPHS、そして携帯電話へと通信手段が急速に変化しつつある時代だったが、佐藤からの便りは、いつも万年筆の端正な字で便箋に綴られていた。
大学病院での多忙な勤務、研究の進捗、そして少しだけ語られる松本の季節の移ろい。真由子もまた、大学での学びや、一人の女性として社会を見つめる視点を、背伸びすることなく文字にした。
安易な電話や、まだ黎明期だった電子メールではなく、あえて時間をかけてポストに届く手紙。
それは、お互いの人生の歩みを邪魔しないための距離感であり、精神年齢の高い二人の間には、言葉の裏側にある深い知性と、相手の孤独を尊重するような、静かで確固たる信頼関係が築き上げられていった。
しかし、大学卒業を間近に控えた一九九九年の冬。
真由子の元に届いたのは、いつもの封書ではなく、佐藤からの「喪中はがき」だった。
(……お父様が。ついに……)
はがきを握りしめたまま、真由子はかつて宮坂先生から聞いた言葉を思い出していた。
一九九四年の冬。父の余命は二年だと宣告されていた。だからこそ、佐藤は「最後の一年」として松本蒼峰高校のトレーナーを引き受けてくれたはずだったのだ。
しかし、佐藤の父は、それから五年近くを生き抜いた。
それが単なる奇跡ではないことを、四年間薬学を学んできた今の真由子にはわかる。
(……いいえ。きっと彼が、医療関係者としての彼らが、持てるすべての知を尽くして全力で関わり続けたからだわ)
自分たちが積み上げる知識や、届ける薬。その一つひとつが、誰かの絶望的な余命を、愛する人と過ごすための『温かな命の贈り物』として書き換えることができるのかもしれない。
彼が松本に残ったのは、ただの自己犠牲ではない。医療関係者として、そして息子として、全力でお父様の時間を守り抜くための「戦い」だったのだ。
その過酷な「三足のわらじ」を、彼は真由子に一度も弱音を吐かずに履き続けた。
(それに……どうして電話でお知らせしてくれなかったの。……ああ、そうか)
真由子ははっと気づいた。
今は一九九九年の冬。四年制である薬学部の学生にとって、卒業と「薬剤師国家試験」を控えた最も切羽詰まった時期だ。
彼は、真由子の勉強の邪魔にならないよう、あえて電話ではなく、事後報告の葉書一枚で自分の深い悲しみを完結させたのだ。
(……佐藤先輩は今、何を思っているのだろう。一人で、辛くないかな。私でよければ、寄り添ってあげたい)
会いに行こうか。でも。会いに行ったら「今は国試が優先だ。僕の計算を狂わせるな」って、あの涼しい顔で怒られちゃうかな。
冬の自室で、真由子の目からホロリと涙が零れ落ちた。
薬剤師としての自分の使命を改めて肌に感じるのと同時に、一人で最後まで父親に寄り添い抜いた彼の孤独と、遠く離れた自分への不器用な優しさを想い、静かに泣いた。
今すぐ松本へ帰る特急に飛び乗りたい衝動を、真由子は必死に押さえ込んだ。
ただ背中をさすってあげたい。彼が今まで私にしてくれたように、今度は私が、彼の冷え切った手を温めてあげたい。
(……だって、私は先輩にたくさん恩があるのだから。人として、恩人を心配するのは当然のことじゃない)
そう自分に言い聞かせるけれど、胸の奥がひどく締め付けられて、どうしようもなく彼に会いたかった。
もう、尊敬や恩義だけでは説明のつかない感情が、確実に真由子の中で育っていた。
「……早く、一人前にならなきゃ」
真由子は涙を拭い、再び机に向かった。
彼に「もう大丈夫だ」と胸を張って言える、隣に立っても恥ずかしくない大人になるために。
この喪中はがきに記された冬の日は、真由子にとって「早く彼に追いつきたい」と、ただひたすらに前を向くための、新たな決意の日となった。




