第十七話 一九九五年秋 【土曜午後のときめきと、優しくも意地悪な予測】
普門館で演奏を聞いた翌週土曜日の午後。
「よし、今日は徹底的に……」
音楽準備室を訪れた佐藤は、入り口で凍りついた。
佐藤の「計算」には、浅野真由子という少女の「善良すぎるお節介」が組み込まれていなかったのだ。
「佐藤先輩! 皆さんもお待ちしています!」
「「佐藤先輩、よろしくお願いします!!」」
真由子の後ろには、同じく引退して受験勉強に追われる元・吹奏楽部の三年生たちがズラリと十数名。
佐藤の脳内計算機は「Error 999(想定外の負荷)」を吐き出してフリーズした。
その様子を廊下から見ていた宮坂が、腹を抱えて笑いながら現れた。
「はっはっは! 佐藤、大人気じゃないか。よし、物理準備室も開放してやろう。全員、元T大生の頭脳を絞り尽くせ!」
結局、佐藤はその日、ただの「ボランティアの超スパルタ予備校講師」として、部員全員の質問を捌き続ける羽目になった。
さらに、土曜の午後は現役生(一・二年生)の部活の時間でもある。宮坂に「ついでに後輩の金管の様子も見てやってくれ」と頼まれ、佐藤は休む間もなく音楽室へと連行された。
数学の解説で少し疲労を見せていた佐藤だったが、音楽室に入り、後輩のホルンを借りて構えた瞬間、空気が一変した。
「……ここは、もっと息を深く。こうだ」
佐藤が唇を当て、息を吹き込む。
滑らかで優しい、けれど輪郭のはっきりとしたアタック。迷いのない速い息のスピードに支えられたその響きは、放たれた瞬間に音楽室のすべての空気を「佐藤誠の音」へと塗り替えた。
初冬の冷えた空気を一瞬にして震わせ、深く、温かく、すべてを包み込むような黄金色の響きとなって空間を満たし尽くしていく。まるで、そこだけ春の陽だまりが生まれたような錯覚に陥るほどの豊かな音色。
自習室から様子を見に来ていた真由子は、入り口でその音を聴き、雷に打たれたように足を止めた。
(ああ……やっぱり、凄いや)
理屈っぽくて、厳しくて、いつも完璧な論理で武装している人。なのに、彼が奏でる音はどうしてこんなにも優しく、心の一番やわらかい場所を撫でるように響くのだろう。
楽器を下ろし、後輩に的確なアドバイスを送る佐藤の横顔。真剣な眼差し。
真由子は、音楽室の入り口からその姿を眩しそうに見つめていた。
(佐藤先輩って……本当に、素敵な人だな)
それはまだ「恋心」という明確な名前のつかない、純粋で圧倒的な尊敬と憧れ。かつて浩平に向けていたような淡い未練とも、健二への恐怖とも違う、ただ一人の人間としての「佐藤誠」の魅力に、静かに惹きつけられている証だった。
やがて放課後の学校が静まり返った頃。
宮坂が粋な計らいを見せ、二人はようやく音楽室で「二人きり」になった。
鉛筆が紙を走る音と、ストーブがカチカチと鳴る音だけが響く。
数学の質問に答えた後、佐藤はふと、ポケットから一枚の紙を取り出した。
「真由子ちゃん。……これを」
「えっ、何ですか?」
渡されたのは、佐藤の整った字で書かれた、彼個人の連絡先だった。
「春になって無事に大学が決まったら、僕がT大の薬学部時代に使っていた専門的な参考書やテキストをまとめて送る。……だから、一人暮らしの住所が決まったら、ここに連絡してほしい」
「先輩……でも、そんな大切なもの……。先輩も春からS大の医学部で研究を再開されるんですよね?」
「ああ。だが、薬学の基礎となるそれらの本は、もう僕の頭の中に入っている。それに、僕の書き込みがかなりあるから、君が大学の講義を受ける上で、多少は効率のいいショートカットになるはずだ」
自分の学びの証(書き込み)が詰まった本を、彼女に託す。それは、彼なりの最大限の「特別扱い」だった。
「……だからこれは、未来の優秀な薬剤師への『先行投資』だと思ってくれ」
真由子は、手渡されたその小さな紙の重みをしっかりと感じ取り、宝物のように両手で握りしめた。さっき音楽室で感じた「憧れ」が、じんわりと胸の奥を温かく満たしていく。
「ありがとうございます、佐藤先輩。……私、絶対に合格します!」
真っ直ぐな真由子の瞳に、佐藤は眩しそうに目を細めた。
しかし、彼の頭の中の計算機は、真由子の純粋な憧れとは裏腹に、極めて野心的な数式を弾き出していた。
(参考書の送付にかこつければ、四月には確実に彼女の生活圏と一人暮らしの住所を把握できる。遠距離になる以上、これは彼女の安全を守るための極めて合理的な防衛策だ)
完全にストーカー一歩手前の狂気的な自己正当化であることに、当の佐藤は微塵も気づいていない。
すると、隣の準備室から宮坂が「ゴホン!」とわざとらしい咳払いをして顔を出した。
「どうだ、終わったか? なんだ、もう真由子先生だけじゃないか。……まあ、優秀な元・T大生の頭脳を独り占めできるのは、部長の特権か」
自分が二人きりになるよう取り計らったくせに、宮坂は白々しく驚いてみせた。
「……宮坂先生。浅野さんは志望校に向けて順調でしたから、春に向けて、少し参考書を譲る話をしていただけです」
どこまでも涼しい顔で答える愛弟子に対し、宮坂は呆れたように肩をすくめ、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「はいはい、そうかい。……まあ、お前が自分の『未来』のために一番いい計算式を組んでるって言うなら、俺から口出しはしないさ。せいぜい、『計算ミス』には気をつけろよ」
「……肝に銘じておきます」
意味深な宮坂の言葉に、誠は眼鏡の奥の瞳をわずかに細めた。
宮坂は、確実にご利益のあるお守りをもらったような顔で連絡先のメモを見つめる真由子と、そんな彼女を静かな熱を帯びた瞳で見つめる誠を交互に見やり、心の中でやれやれと小さく息を吐いた。
(まったく。あの不器用な人間計算機が、ついに人生を懸けた『長期計画』に乗り出したか。……あの鈍感な真由子先生が完全に外堀を埋められるのも、時間の問題……になるといいけどな。佐藤、『こころ』は計算式では解が出せないぞ)
恩師の生温かい視線に見守られながら、週末の音楽室には、ストーブが小さく爆ぜる音と、静かに回り始めた運命の歯車の気配だけが満ちていた。




