僅かな期待
春が来て、優花は無事に就職が決まった。実花も及第した。一区切りついても二人は引き続き同じアパートに暮らしている。週に一回、スタジオを借りて細々とベースとドラムの練習をしている。二人が気に入っているバンドの楽曲を端末とスピーカーで流しながら合わせたり、二人だけで演奏したりしている。
六月の始めの晴天。練習を終えて片付ける時に優花は、
「二人だけだと少し物足りないね」
実花は首を傾げ、
「去年、高橋さんの誘いを断っちゃったよね」
「仕方ないよ。向こうはプロだし」
優花は言うと、ベースの入ったケースを持ち上げる。ドラムはスタジオの備え付けなので持ち帰る必要はない。実花はうーんと唸り、
「何故か私達にかなり期待してたよね」
優花は扉を開ける。二人はほぼ同時に出る。優花は肩を落として、
「だからといってまた誘って下さいとは言えないし」
実花は頷く。優花は、
「あまり関係ないけれど、来週、高橋さんのライブが渋谷の喫茶店で行われるんだ」
実花は意外そうに軽く尋ねた、
「へぇ、行くんだ」
優花は頷く。二人はスタジオを後にした。
渋谷のとある喫茶店。小雨が降っている。客は満席で三十人ほど。皆、券を買っているだけではなく、コーヒーや茶を頼んでいる。優花は茶を頼んだ。後方の席に座る。男女比は一対一ほど。高齢者もいれば優花よりも若い学生もいる。
雰囲気は落ち着いている。熱狂的なファンが騒ぐわけでもない。会話する時は小声。客席が暗くなり、小さな劇場が明るくなる。武が控室から入場する。客達は黙って拍手する。武は満面の笑みで深々と挨拶する。
場が和んだところで演奏が早速始まる。武の代表作だ。ギターの軽妙で明るくて目まぐるしい曲調。非常に大きな声量だが全く煩いとは感じない。それがあっと言う間に終わる。二曲目は緩やかでしっとりとした曲調。歌声は理性的だが情緒にも訴えかけてくる。これも終わって三曲目。激しく暗い曲調。怒鳴り声に近いが絶妙に均整が取れているので客達は嫌な顔をしない。
メトロノームもリズムを主導する仲間もいない。武の独奏だ。しかし曲も歌も正確だ。音程だけでなく速さもリズムも自然な上に妙な変化も無い。実花と優花は練習の前半はメトロノームに頼る。楽譜を入手したら覚えるまで血眼になって慎重に演奏する。音楽を教えたバイトの高齢者達は耳を鍛えるべきであって楽譜に頼るなと諭していたが、そうしたくても頼ってしまう。武はどんな練習をしているのだろうか。優花は気になった。
七曲ほど演奏がなされた。武は再度深く頭を下げる。客達の拍手の後に劇場を後にした。
すぐに帰り支度する客もいれば、武と接触したがる客もいる。優花はぼんやりと客達を眺める。
「なんか、やーね。例のベーシストとドラマーが武の誘いを断ったんでしょ」
「またその話?止めときなよ。武に嫌われるよ」
「そうだけどさ、最初から音楽の道に進まないなんて勿体ないよねぇ」
二十代後半の女二人が武が出てくるのをCDを買いながら会話をして待っていた。優花は息を飲んだ。後ろにいた男がポツリと、
「一回ぐらい、試しに合奏して欲しいよな」
優花が振り返ると男は三十代後半ほど。優花と目が合うと軽く頭を下げて店を出て行った。




