第5話 白雪姫の潜入作戦⑤
静まり返った大聖堂に、壁へ穿たれた大穴から月明かりが差し込んでいた。
砕け散ったステンドグラスと、宙を漂う氷の結晶がその光を受け、淡く乱反射している。
気絶し、泡を吹いて倒れているアルバトロスを一瞥もせず、ネモはフェリスのもとへ歩み寄った。
そして、深く頭を下げる。
「フェリスさん……ごめんなさい……」
正体を偽っていたこと。
助けるまでに迷ったこと。
そして、フェリス本人の知らないところで抱えていた感情に、自分勝手な形でけりをつけようとしていること。
その全部をひっくるめて、ネモは謝っていた。
フェリスはそんなネモを見つめ、痛みも恐怖も残るはずなのに、やわらかく微笑んだ。
「ソフィ……きっと、貴方の事情は私にはわからない……わからないけど……貴方は私と一緒にご飯を食べて、私と笑ってくれて……そして、私を助けてくれた」
一度、言葉を切る。
「私は、貴方が今までも、これからも大好きよ……だから……そんな辛そうな顔しないでよ……」
込み上げるものを押し殺すように、ネモは唇を噛んだ。
「…………ありがとうございます……大好きだよ……フェリスさん……」
「こちらこそ……ありがとう……楽しかったよ」
二人は涙の滲む目で見つめ合う。
けれど、その時間も長くは続かない。
「フェリスさん……皆を連れて宿舎に戻って下さい……そして、何も知らないふりをしていて下さい。ここのことは忘れて下さい……ここは私が収めます。迷惑も絶対にかけないようにします……」
ネモはそこで一瞬だけ言い淀み、視線を落とした。
「……それから……これから見せる私の振る舞いを……私は、貴方に見せたくない……」
フェリスは小さく頷いた。
「わかったわ……ありがとう、ソフィ……また、一緒にご飯食べようね……」
「……はい。是非」
フェリスは他の女性たちを促し、宿舎のほうへ走り去っていく。
ネモはその背を、しばらく無言で見送っていた。
「辛い思いをさせちまったようだな……」
隣に立ったジェラルドが、ネモの肩を軽く叩く。
「ほんとだよ……こういうの、僕みたいなのには、すごく辛いよ……」
「……本当に、済まなかった。俺も浅慮だったよ」
ジェラルドは短く息を吐いた。
「だが、今はやるべきことをやろう」
「……うん。ごめん、そうだよね」
ジェラルドの拘束魔法で縛り上げられた二級神官たちを横目に、ネモはうつ伏せで気絶しているアルバトロスのもとへ向かった。
「おい、起きろ」
返事はない。
ネモは無造作にその側頭部を蹴り上げた。
「ぐふぁっ!? こ、これは……いったい……」
目を開いたアルバトロスの視界に映ったのは、水色の髪と青い鎧。
直後、敗北の記憶が一気に蘇る。
「貴様っ! 私にこのような狼藉を働いて、どうなるかわかっているのか!」
「うるさい」
ネモはしゃがみ込み、アルバトロスの頭を鷲掴みにした。
そのまま顔面を床へ軽く叩きつける。
「自慢の魔法を一発で粉々にされて……今、どんな気持ち?」
「……っ! このクソガキっ!」
なんだこの握力は。
それに、あの魔法。
いったい何者なんだ、こいつは――。
めしり、みしり、と頭骨を締め上げる音が響く。
万力のような力が、静かに、しかし確実に強まっていく。
「があっ……やめろ……! 貴様、いったい何が目的だ……! 全ての要求に答えてやる……だから、だからやめろぉ!」
「やめろ? 答えてやる?」
ネモの声はひどく冷たかった。
「言い方をわきまえようよ。出涸らし負け犬卑怯者。それとも、またあのご自慢のポンコツ魔法で反撃でもする?」
「……ぐぅっ……ぬぅ……このガキがぁ……!」
自分の半分ほどしか生きていなさそうな相手に敗北を認め、懇願する。
それは、プライドだけは高いアルバトロスにとって最大級の屈辱だった。
「ふーん……小型犬に大差つけて負けるくらいのカスみたいな判断力だね。今の僕は、お前の服従敗北宣言以外の言葉を聞く気はないよ」
さらに力がこもる。
「ぐぁっ! このぉっ! おのれ、おのれぇっ! クソガキがあぁぁっ!」
「そっか。じゃあ――」
圧が、なおも増した。
「があぁぁっ……! わかったぁっ! 全ての要求に応える! 応えるぅっ!」
「違うでしょ」
ネモは淡々と言う。
「『わかりました。全ての要求に応えさせて頂きます。どうかお慈悲を』だよ」
「ぐあぁっっ……ぎぃぁあっ……! わ、わかりました! 全ての要求に応えさせて頂きます! どうかお慈悲をぉっっ!」
屈辱に濁った叫びが大聖堂に響く。
それを聞いて、ネモはようやく手を緩めた。
「はぁ……はぁ……」
アルバトロスは荒い息を吐きながら、かろうじて顔を上げる。
その目前にあったのは、ぞっとするほど近いネモの顔だった。
「言ったな……屈服の言葉……」
昼の猫のように細く鋭い瞳孔。
艶のある唇から零れる冷たい吐息。
それはまるで、鼠を見つけた飢えた肉食獣の貌だった。
「ひいっ!」
ネモはアルバトロスの耳元へ顔を寄せ、囁くように魔導詠唱を始める。
―骨の髄と心の髄、肉欲で練り鍛えしローズマリーの卑しき嘴、虚勢で飾りし血糊塗れの頭蓋を剥がせ……我に記せぬ闇は無し…………百識啜り梟―
詠唱が終わった瞬間、深い闇の中から、てくてくと可愛らしい梟が歩いて現れた。
おどろおどろしい詠唱とはあまりにも不釣り合いなその姿に、アルバトロスは困惑のまま梟を見つめ返す。
そして次の瞬間。
「キエェエェエエエアァァ!」
「ぎゃあああっ!」
梟は耳を裂くような金切り声を上げた。
ぱっくり開いた嘴の奥では、無数の触手がうねり蠢いている。
梟はそのおぞましい嘴と触手を振りかぶり、アルバトロスの額へ突き立てた。
「いぎゃああぁぁっ!」
額を押さえ、梟ともみ合いながらアルバトロスは絶叫する。
その上で、紫色に光るエネルギー体がゆっくりと形を取り始めた。
「ああぁっ……ああっ、あぁあっ……!」
痙攣し、悶え苦しむたびに、その光は輪郭を増していく。
「ほら、ネモ」
ジェラルドが大聖堂にあった聖典を放った。
「ありがとっ――よっと」
ネモはそれを受け取り、開いた聖典で紫のエネルギー体を挟み込むようにして閉じた。
その瞬間、聖典は薄い本へと姿を変える。
「ホッホー……」
役目を終えた梟は、満足げに鳴いて静かに消えた。
「ふーっ、いい感じっ! しかしまあ、歳の割にうっすい本だこと」
「なんなのだ……いったいなんなのだ、それはぁぁっ!」
額から血を流しながら、アルバトロスが叫ぶ。
ネモは教壇へ腰掛け、脚を組む。
薄く笑って、その問いに答えた。
「この魔法はね……魂から情報を引き出して、その情報を本にする魔法なんだよ」
「そんな高度な魔法……一体、何者……」
「この魔法なら、多分、貴方の目指してた天支神官なら軽ーく出来るよ。多分」
「は……あ……」
アルバトロスは、がっくりとうなだれた。
「あと、一つ謝っとくね」
ネモはひらひらと本を振る。
「この魔法は、強烈な屈服感とか多幸感を感じてる状態じゃないと、情報を底まで読み込めないんだ。だから煽り倒して、貴方の全霊全力を引きずり出す必要があった。やたら悪口言ったり、大きい魔法を使ったのはそのため。ごめんね」
「うぐぅっ……私は……踊らされて……まんまと……」
「啜り梟を使わないなら、速攻魔法でさっさと叩きのめしても良かったんだけどね。こっちにも事情があってさ」
「あがぁ……いひぃ……くそおぉっっ!」
アルバトロスは床を叩き、半狂乱でもがく。
圧倒的な力の差を突きつけられ、自我が崩れ始めていた。
そんな姿を脇に置き、ネモとジェラルドは薄い本を開く。
ほどなくして、ネモの表情が微妙に歪んだ。
「え……何でちょっとポエム形式なのこれ」
「新しいフォーマットだな……」
「ちょっと読んでみたくなるじゃん」
「ふむ」
「うわ……」
「いや、それは急すぎるだろう……」
「いやぁぁ……そんなんキモいに決まってるじゃん」
「当然とはいえ振られちまったか……可哀想に……」
「…………」
「…………」
「じゃなくて! こいつが棺持ってるか早く見ないと!」
「……そうだったな」
ネモは本の後ろのほうへ一気に目を走らせる。
そして、すぐに顔を上げた。
「……ジェラルド。やっぱりこいつの錫杖だ……持ち手の宝石の裏側」
「了解だ」
ジェラルドは錫杖を砕き、指示された箇所を探る。
やがてその指先に、真っ黒な真珠のような物体が摘み上げられた。
「これだな……」
中指と人差し指の間で転がしながら、ジェラルドが目を細める。
「手に取るとツクモ様の魔力を感じる……間違いない」
それを見た瞬間、アルバトロスの顔色が変わった。
「やめてくれ! それだけは! それがなければ……私は……!」
我が子でも奪われるかのような必死さだった。
ネモはそんなアルバトロスを、哀れむような目で見下ろす。
「これは貴方には過ぎた物だよ。一体何なのかわかって使ってるの?」
「それを拾った時から! 私の、私の暗い人生は変わったのだ! それだけは渡さん! 返せっ! 返せぇぇっ!」
「ジェラルド、眠らせてあげて」
「……ああ」
ジェラルドの当て身が首筋へ落ちる。
アルバトロスは白目を剥き、そのまま崩れ落ちた。
ネモはしばらく、その顔を無言で見下ろしていた。
やがて、ジェラルドの手の中にある漆黒の真珠へ視線を移す。
「……【炭の棺】、見せて。僕も見たい」
ジェラルドはそれをネモへ渡した。
ネモは炭の棺を指先でそっと転がす。
まるで愛おしいものに触れるような、やさしい手つきだった。
「やっぱり……僕たちの最大最後の目的のためにも、この人みたいに力に踊らされる人をこれ以上出さないためにも……棺は回収しなきゃね……」
「ああ……そうだな」
ネモは砕けたステンドグラスの向こう、壁の大穴から覗く満月へと炭の棺をかざした。
月光を受けた漆黒が、ひどく静かに光る。
「早く……復活してよね、魔王様」




