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第8話 硝子港の決闘⑦

血硝試合は、翌々日の日没に決まった。


残された準備時間は、二日半。


ネモは朝からベルクリフ中を歩き回った。


目的は二つ。


バンキッシュ・ガンデスペラードの潜伏先を見つけること。


そして、血硝試合の闘技場へ射線を通せる場所を、可能な限り潰しておくこと。


鐘楼。


監視塔。


鏡塔。


商館の屋根。


港を見下ろす崖。


闘技場を視認できる高所には、ほとんど足を運んだ。


白い帽子と外套を身につけた男を見なかったか。


不審な旅人が建物を借りていないか。


屋上へ出入りする者はいなかったか。


管理人や酒場の客にも尋ねたが、有力な情報は得られない。


バンキッシュの痕跡は、どこにもなかった。


ネモは商館の屋根の縁に立ち、遠くの闘技場を見下ろす。


円形の試合場。


段状の観客席。


その傍らにそびえる塔には、巨大な魔法鏡が設置されていた。


同じ鏡は鐘楼や倉庫、監視塔など、ベルクリフの各所に設置されている。


今はどれも空を向き、白い雲を映していた。


昼の光を硝面の内部へ蓄え、夜の街灯などに利用するための設備らしい。


ネモは闘技場へ視線を戻した。


問題は鏡ではない。


バンキッシュが、どこからジェラルドを狙うかだ。



港沿いの旧排水区。


ベルクリフがまだ小さな城塞港だった頃、海辺の岩壁を削って造られた排水施設だ。


切り立った岩壁の間に浅い水路と潮溜まりが続き、頭上には後世に築かれた倉庫群と防潮壁が覆いかぶさっている。


昼でも谷底は薄暗い。


濡れた岩肌。


錆びた格子。


動かなくなった巨大な水門。


崩れた石壁や岩棚が、広い空間に無数の死角を作っていた。


人通りも少ない。


身を隠すには適している。


ネモは水路の奥まで入り、階段や横穴を一つずつ確認した。


足跡。


食事の残り。


魔法を使った痕跡。


それらしいものはない。


海側では岩壁が途切れ、崩れた水門の向こうに夕空が細長く覗いていた。


港の高台に並ぶ巨大鏡が、岩壁の隙間から見える。


さらに遠く、倉庫の屋根と防潮壁の上には、闘技場の主鏡の縁も見えていた。


だが、試合場そのものは倉庫群に遮られている。


ここからジェラルドを直接狙うことはできない。


「ここは違うな」


ネモは旧排水区を後にした。



同じ頃。


シオンとブラドは、白鴎会の案内役とともに闘技場の地下へ入っていた。


石造りの通路には、油灯が一定の間隔で並んでいる。


壁の向こうから、鎖の軋む音が聞こえた。


「こっちだ」


案内役が鉄扉を開く。


広い地下室の中央に、黒硝子で造られた三段の祭壇が置かれていた。


最上段には封印櫃を載せるための窪みがあり、周囲を巨大な歯車と鎖が取り囲んでいる。


鎖は天井の昇降口へ続いていた。


「試合が始まると、祭壇ごと上へせり上がる」


案内役が台座を叩いた。


「勝者が決まるまで下りてこねえ。封印櫃も開かねえ。途中で細工するのは無理だ」


シオンは祭壇の周囲を歩いた。


黒硝子の表面に、少女と黒犬の姿が暗く映っている。


張り出した台座の下には、油灯の光を受けた影が落ちていた。


シオンはしゃがみ、指先で影に触れる。


指が黒い水面へ、わずかに沈んだ。


「光が弱い……影が浅い……」


「なんか言ったか?」


「……なんでもないです……」


シオンは指を引き抜き、昇降口を見上げた。


塔の上の巨大鏡が見える。


今は天を向いて沈黙していた。


「……あの鏡は?」


「あれは主鏡だ。試合の前になると、街中の鏡が溜め込んだ光を、あそこへ送り込む」


「上……向いてるけど……?」


「始まる前に傾くんだ。集めた光を決闘場へ落として、戦う二人を照らし続ける。大評判の演出さ」


案内役が笑う。


シオンは祭壇へ視線を戻した。


張り出した台座。


その下に落ちる影。


試合前に降り注ぐ、強烈な光。


ブラドが小さく鼻を鳴らした。


シオンは、その頭へ手を置く。


「もう……大丈夫」


「何がだ?」


シオンは答えず、案内役へ振り返った。


「……戻る」



地下賭場の宿泊室。


窓のない石室で、ジェラルドは一人、拳を振るっていた。


理魔法による肉体補強は使わない。


踏み込み。


拳。


肘。


崩し。


投げ。


血硝試合へ持ち込めるのは、生まれ持った身体と積み重ねた技術だけだ。


魔力を使えば、今より速く、重く動ける。


神域纏装を呼び出せば、武器も防具も手に入る。


だが、試合場では全て封じられる。


相手も同じ条件だ。


天支神官第十席、ザイード・シン。


黒錨組で三年無敗だった用心棒を、一撃で倒した男。


魔法でも武器でもない。


ただ殴り、倒した。


危険な戦いになる。


それでも、身体の奥がわずかに昂っていた。


強い相手と、余計なものを捨てて殴り合う。


ただそれだけの戦いに、心が引かれている。


「いい歳して、何を喜んでやがる」


ジェラルドは苦笑し、再び腰を落とした。



試合当日、昼。


三人と一匹は、地下の宿泊室へ集まった。


卓上には、街の地図と闘技場の見取り図が広げられている。


「バンキッシュは見つからなかった」


ネモが言った。


「闘技場を狙える場所も一通り調べた。人目につかず、長時間潜める場所にもいなかった」


「もしかして……本当に狙ってないのかも……」


「ないと思う」


ネモは首を振った。


「ジェラルドの鋼みたいな防護魔法が封じられる機会だ。僕が敵なら、意地でも狙う」


「会場で見張るしかねえな」


「うん。姿でも魔力でも、撃つ瞬間には必ず何かが動く。そこを捉えれば居場所を割り出せる」


ジェラルドは頷いた。


「よろしく頼むな」


ネモはシオンへ目を向けた。


「そっちは?」


シオンはブラドの背へ手を置き、小さく頷く。


「……多分、大丈夫」


「多分?」


「試合が始まらないと、確かめられないから……でも、いけると思う」


「シオンちゃんがそう言うなら大丈夫なんだろうけど、無理はしないでね」


「……分かった」


ネモが地図を畳む。


「ジェラルドは試合に集中する。僕はバンキッシュを探す。シオンちゃんも手筈通りに」


「うん」


「敵が何も仕掛けてこなけりゃ、普通に殴り勝てば済むんだがな」


「そんな親切な連中なら、最初から代表を暗殺してないよ」


「違いねえ」


ジェラルドは鼻を鳴らした。


ブラドが三人の顔を順番に見上げる。


シオンは、その頭を撫でた。


「……今日、頑張ろう」


「ワフ」


短い声が、地下室に響いた。



試合当日の夕刻。


血硝試合の闘技場は、観客で埋め尽くされていた。


白鴎会と黒錨組の構成員。


商人。


船乗り。


着飾った富裕層。


立ち見席まで人が溢れ、硝子の杯と金貨が飛び交っている。


日没が近づくにつれ、ベルクリフ各所の巨大鏡が動き始めた。


鐘楼。


港の倉庫。


商館街。


崖上の監視塔。


空を向いていた集光鏡が、蓄えた光を抱えたまま、ゆっくりと闘技場の塔へ向きを変えていく。


白鴎会側の扉が開いた。


ジェラルドが試合場へ姿を現す。


港で白鴎会の部下四人を傷一つ負わせず制圧した、獅子面の旅人。


その巨体が石床を踏むたび、観客の視線が集まった。


反対側では、黒錨組の扉が開く。


上半身裸の大男が歩いてきた。


岩塊のような肉体。


太い首。


獲物を前にした獣の目。


ザイード・シン。


ジェラルドを見つけた瞬間、獰猛な笑みを浮かべる。


「カッカッカッ! いいオーラだ! いい躰だ!」


目に見えて興奮するザイード。


「実物を見て、さらに確信したぜ。テメエは間違いなく獅子軍神だ!」


ジェラルドは眉をひそめる。


「まあな……随分と嬉しそうだな、第十席ザイード・シン」


「お前と殴り合うために来たんだ。当然だろ!」


「本当に、それだけのために来たのかい」


「他に何が要る!」


ザイードが両拳を打ち合わせる。


鈍い音が闘技場へ響いた。


石床の中央で歯車が動き始める。


床が円形に開き、黒硝子の祭壇が鎖に引かれてせり上がってきた。


その上には、黒い金属で造られた封印櫃が置かれている。


黒い法衣の中立管理者が、二人の間へ立った。


手には、儀式用の刃物が二本。


「双方、契約を」


ジェラルドとザイードが刃物を受け取り、それぞれ指先を切る。


赤い血が、封印櫃の左右へ落ちた。


赤黒い術式が浮かび上がり、二人の足元まで走る。


次の瞬間。


ジェラルドの全身から、理魔法による補強が消えた。


骨が重くなる。


筋肉を巡っていた魔力が途切れる。


普段なら意識することすらない支えが、一斉に失われた。


ジェラルドは息を吐き、足裏で石床の感触を確かめる。


これが、本来の身体。


対するザイードも自身の肉体を確かめ、ニヤリと笑った。


「いいな。余計なもんが全部消えた」


ジェラルドは腰を落とし、構えを取る。


その時だった。


――ガコン。


鐘楼の集光鏡が傾いた。


蓄えられた光が、白い帯となって闘技場の塔へ走る。


続いて、港の倉庫。


商館の屋上。


崖上の監視塔。


街の各所から放たれた光が、次々と主鏡へ吸い込まれていった。


環状の金具が回転し、術式が順番に発光する。


流れ込んだ光が硝面の内部で束ねられ、主鏡が白熱した。


――ガコン。


最後の固定具が外れる。


主鏡がゆっくりと傾き、蓄えられた光を決闘場へ解き放った。


真昼の様に輝く決闘場。


ジェラルドとザイードの巨体が、その中に浮かび上がる。


封印櫃。


黒硝子の祭壇。


石床。


全てが、輪郭を焼きつけるほど強烈な光に照らされた。


張り出した台座の裏側から、濃い影が長く伸びていく。

観客席まで届く程に。


観客の誰もが、街の集めた光を浴びて立つ二人の巨人を見つめていた。



観客席の上段。


ネモは人々の顔と、周囲の建物を見回していた。


白い帽子。


白い外套。


不自然な魔力の動き。


バンキッシュの姿は、どこにもない。


――ガコン。


主鏡を取り囲む金具が動き、流れ込む光条の角度がわずかに変わった。


ネモは鏡を見上げる。


鐘楼。


商館。


監視塔。


港の倉庫。


ベルクリフの各所から伸びた光が、主鏡へ集まっている。


そのうちの一本。


港側から伸びる光条の先に、見覚えのある集光鏡があった。


崩れた防潮壁の上。


連なる倉庫の向こう。


旧排水区の岩壁の隙間から見えていた、あの鏡。


ネモの目が大きく開いた。


あそこから闘技場は見えない。


だから除外した。


だが、集光鏡は見えていた。


その先の主鏡も。


今、港側の集光鏡は、蓄えた光を主鏡へ送り込んでいる。


ネモの脳裏に、嫌な直感が奔った。


イベルダルクの魔法。


月光岩穿、八卦乱彩砲、百景乱砕大砲。


神の光条を敵へ叩きつける、嫌になるほど喰らった攻撃。




旧排水区から、港側の集光鏡へ撃ち込む。


攻撃魔法を光へ紛れ込ませる。


集光鏡はそれを主鏡へ送り、主鏡は他の光とともに決闘場へ落とす。


街の集光網そのものが、巨大な射撃経路になっている。


魔法銀の鏡は、それが照明か、殺人のための光かなど区別しない。


標的を直接見る必要などなかった。


「まさか」


ネモの顔から血の気が引いた。


席を蹴る。


「まずいっ!」


その声は、観客の歓声に飲まれた。



旧排水区。


崩れた水門の奥。


岩壁の隙間に、港側の巨大鏡が見えていた。


今は闘技場の主鏡へ向かって傾き、鏡面から白い光条を伸ばしている。


街じゅうの集光鏡から放たれる膨大な光と魔力の奔流。


ベルクリフ全体を揺らす脈動に紛れ、旧排水区で膨れ上がる神気は、闘技場から完全に覆い隠されていた。


白い帽子。


白い外套。


白い手袋。


一丁の白銀の拳銃。


バンキッシュ・ガンデスペラードは、静かに詠唱を紡いだ。


――アルテミス、四つの調度をお貸しいただく。

十字結ぶ槍、血濡れの刺股、鎌首擡げる毒大蛇。

絡んだ殺意の格子を貫く矢を一つ――


――天眼獄耳網透してんげんごくじあみどおし――


バンキッシュの脳裏に、ベルクリフの地図が広がった。


建物。


水路。


通路。


闘技場を埋め尽くす、無数の生体反応。


一つ一つが赤い光点となり、位置と動きを伝えてくる。


その中に、ひときわ巨大な反応が二つ。


黒錨組側の門から現れた反応がザイード。


その正面に立つもう一つがジェラルド。


二人の位置。


距離。


向き。


必要な情報が、次々と意識へ流れ込んでくる。


「見つけましたよ……」


拳銃の銃身で帽子のつばを持ち上げ、バンキッシュは細く笑った。


「色々と嗅ぎ回られていたようですが、とんだ徒労だったようですね、白雪姫」


そして、新たな詠唱を紡ぐ。


――イベルダルクの最高神よ。

貴殿に害成す逆徒共、屠る力をこの我に。

覇を和と成すため月を喰み、慈愛と共に創造せん。破戒無慙を破滅へ導け――


――燼滅巨神爪――

 


イベルダルク最高位魔法が顕現する。

本来なら敵を叩き潰す二本の巨腕。


しかし異形、腕というよりは腕を模した二門の大砲。

そこにさらにバンキッシュは詠唱を重ねる。


――雲間、神晄、(かいな)の紡ぐクトゥグヴァルトンのヤコブの梯子、悶え朽ち果てるその今際に、平和の暁、目に灼き付けよ――


――百景乱砕大砲ひゃっけいらんさいたいほう――


二門の弾倉が同時に光り出す。


凝縮された神気が術式環を巡り、砲身の奥へ呑み込まれていった。


燼滅巨神爪を砲台とし、その内部へ百景乱砕大砲の術式を装填する。


「……装填完了」


大規模。


消耗した獅子軍神を、確実に吹き飛ばすための一発だった。


バンキッシュは二門の巨砲を、港側の集光鏡へ向ける。


「狙撃手は、高い所にいるのではないのです」


銀銃を指先で回す。


「敵を撃てる場所にいるのですよ」


遠く離れた闘技場で、中立管理者が銅鑼の前へ立つ。


槌が振り上げられた。


銅鑼が鳴る。


ザイードが踏み込む。


ジェラルドが拳を構える。


ネモが観客席を駆け下りる。


バンキッシュは撃たなかった。


二門の巨砲の照準を保ったまま、二つの赤い反応を見つめている。


「まだですよ」


ザイードの拳が唸る。


ジェラルドの身体が、その軌道から外れた。


二人の巨体が激突し、闘技場が揺れる。


バンキッシュは満足そうに目を細めた。


「獅子軍神……もう少し弱っていただかなくては」


万全の獅子軍神を、一撃で葬れるとは考えていない。


ならば、弱らせればいい。


魔法防御を取り去り。


骨を折り。


肉を裂き。


体力を使い果たしたところで。


神の光で消し飛ばす。


バンキッシュは獲物が最も弱る瞬間を、静かに待っていた。


血硝試合が始まった。

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