第8話 硝子港の決闘⑦
血硝試合は、翌々日の日没に決まった。
残された準備時間は、二日半。
ネモは朝からベルクリフ中を歩き回った。
目的は二つ。
バンキッシュ・ガンデスペラードの潜伏先を見つけること。
そして、血硝試合の闘技場へ射線を通せる場所を、可能な限り潰しておくこと。
鐘楼。
監視塔。
鏡塔。
商館の屋根。
港を見下ろす崖。
闘技場を視認できる高所には、ほとんど足を運んだ。
白い帽子と外套を身につけた男を見なかったか。
不審な旅人が建物を借りていないか。
屋上へ出入りする者はいなかったか。
管理人や酒場の客にも尋ねたが、有力な情報は得られない。
バンキッシュの痕跡は、どこにもなかった。
ネモは商館の屋根の縁に立ち、遠くの闘技場を見下ろす。
円形の試合場。
段状の観客席。
その傍らにそびえる塔には、巨大な魔法鏡が設置されていた。
同じ鏡は鐘楼や倉庫、監視塔など、ベルクリフの各所に設置されている。
今はどれも空を向き、白い雲を映していた。
昼の光を硝面の内部へ蓄え、夜の街灯などに利用するための設備らしい。
ネモは闘技場へ視線を戻した。
問題は鏡ではない。
バンキッシュが、どこからジェラルドを狙うかだ。
◇
港沿いの旧排水区。
ベルクリフがまだ小さな城塞港だった頃、海辺の岩壁を削って造られた排水施設だ。
切り立った岩壁の間に浅い水路と潮溜まりが続き、頭上には後世に築かれた倉庫群と防潮壁が覆いかぶさっている。
昼でも谷底は薄暗い。
濡れた岩肌。
錆びた格子。
動かなくなった巨大な水門。
崩れた石壁や岩棚が、広い空間に無数の死角を作っていた。
人通りも少ない。
身を隠すには適している。
ネモは水路の奥まで入り、階段や横穴を一つずつ確認した。
足跡。
食事の残り。
魔法を使った痕跡。
それらしいものはない。
海側では岩壁が途切れ、崩れた水門の向こうに夕空が細長く覗いていた。
港の高台に並ぶ巨大鏡が、岩壁の隙間から見える。
さらに遠く、倉庫の屋根と防潮壁の上には、闘技場の主鏡の縁も見えていた。
だが、試合場そのものは倉庫群に遮られている。
ここからジェラルドを直接狙うことはできない。
「ここは違うな」
ネモは旧排水区を後にした。
◇
同じ頃。
シオンとブラドは、白鴎会の案内役とともに闘技場の地下へ入っていた。
石造りの通路には、油灯が一定の間隔で並んでいる。
壁の向こうから、鎖の軋む音が聞こえた。
「こっちだ」
案内役が鉄扉を開く。
広い地下室の中央に、黒硝子で造られた三段の祭壇が置かれていた。
最上段には封印櫃を載せるための窪みがあり、周囲を巨大な歯車と鎖が取り囲んでいる。
鎖は天井の昇降口へ続いていた。
「試合が始まると、祭壇ごと上へせり上がる」
案内役が台座を叩いた。
「勝者が決まるまで下りてこねえ。封印櫃も開かねえ。途中で細工するのは無理だ」
シオンは祭壇の周囲を歩いた。
黒硝子の表面に、少女と黒犬の姿が暗く映っている。
張り出した台座の下には、油灯の光を受けた影が落ちていた。
シオンはしゃがみ、指先で影に触れる。
指が黒い水面へ、わずかに沈んだ。
「光が弱い……影が浅い……」
「なんか言ったか?」
「……なんでもないです……」
シオンは指を引き抜き、昇降口を見上げた。
塔の上の巨大鏡が見える。
今は天を向いて沈黙していた。
「……あの鏡は?」
「あれは主鏡だ。試合の前になると、街中の鏡が溜め込んだ光を、あそこへ送り込む」
「上……向いてるけど……?」
「始まる前に傾くんだ。集めた光を決闘場へ落として、戦う二人を照らし続ける。大評判の演出さ」
案内役が笑う。
シオンは祭壇へ視線を戻した。
張り出した台座。
その下に落ちる影。
試合前に降り注ぐ、強烈な光。
ブラドが小さく鼻を鳴らした。
シオンは、その頭へ手を置く。
「もう……大丈夫」
「何がだ?」
シオンは答えず、案内役へ振り返った。
「……戻る」
◇
地下賭場の宿泊室。
窓のない石室で、ジェラルドは一人、拳を振るっていた。
理魔法による肉体補強は使わない。
踏み込み。
拳。
肘。
崩し。
投げ。
血硝試合へ持ち込めるのは、生まれ持った身体と積み重ねた技術だけだ。
魔力を使えば、今より速く、重く動ける。
神域纏装を呼び出せば、武器も防具も手に入る。
だが、試合場では全て封じられる。
相手も同じ条件だ。
天支神官第十席、ザイード・シン。
黒錨組で三年無敗だった用心棒を、一撃で倒した男。
魔法でも武器でもない。
ただ殴り、倒した。
危険な戦いになる。
それでも、身体の奥がわずかに昂っていた。
強い相手と、余計なものを捨てて殴り合う。
ただそれだけの戦いに、心が引かれている。
「いい歳して、何を喜んでやがる」
ジェラルドは苦笑し、再び腰を落とした。
◇
試合当日、昼。
三人と一匹は、地下の宿泊室へ集まった。
卓上には、街の地図と闘技場の見取り図が広げられている。
「バンキッシュは見つからなかった」
ネモが言った。
「闘技場を狙える場所も一通り調べた。人目につかず、長時間潜める場所にもいなかった」
「もしかして……本当に狙ってないのかも……」
「ないと思う」
ネモは首を振った。
「ジェラルドの鋼みたいな防護魔法が封じられる機会だ。僕が敵なら、意地でも狙う」
「会場で見張るしかねえな」
「うん。姿でも魔力でも、撃つ瞬間には必ず何かが動く。そこを捉えれば居場所を割り出せる」
ジェラルドは頷いた。
「よろしく頼むな」
ネモはシオンへ目を向けた。
「そっちは?」
シオンはブラドの背へ手を置き、小さく頷く。
「……多分、大丈夫」
「多分?」
「試合が始まらないと、確かめられないから……でも、いけると思う」
「シオンちゃんがそう言うなら大丈夫なんだろうけど、無理はしないでね」
「……分かった」
ネモが地図を畳む。
「ジェラルドは試合に集中する。僕はバンキッシュを探す。シオンちゃんも手筈通りに」
「うん」
「敵が何も仕掛けてこなけりゃ、普通に殴り勝てば済むんだがな」
「そんな親切な連中なら、最初から代表を暗殺してないよ」
「違いねえ」
ジェラルドは鼻を鳴らした。
ブラドが三人の顔を順番に見上げる。
シオンは、その頭を撫でた。
「……今日、頑張ろう」
「ワフ」
短い声が、地下室に響いた。
◇
試合当日の夕刻。
血硝試合の闘技場は、観客で埋め尽くされていた。
白鴎会と黒錨組の構成員。
商人。
船乗り。
着飾った富裕層。
立ち見席まで人が溢れ、硝子の杯と金貨が飛び交っている。
日没が近づくにつれ、ベルクリフ各所の巨大鏡が動き始めた。
鐘楼。
港の倉庫。
商館街。
崖上の監視塔。
空を向いていた集光鏡が、蓄えた光を抱えたまま、ゆっくりと闘技場の塔へ向きを変えていく。
白鴎会側の扉が開いた。
ジェラルドが試合場へ姿を現す。
港で白鴎会の部下四人を傷一つ負わせず制圧した、獅子面の旅人。
その巨体が石床を踏むたび、観客の視線が集まった。
反対側では、黒錨組の扉が開く。
上半身裸の大男が歩いてきた。
岩塊のような肉体。
太い首。
獲物を前にした獣の目。
ザイード・シン。
ジェラルドを見つけた瞬間、獰猛な笑みを浮かべる。
「カッカッカッ! いいオーラだ! いい躰だ!」
目に見えて興奮するザイード。
「実物を見て、さらに確信したぜ。テメエは間違いなく獅子軍神だ!」
ジェラルドは眉をひそめる。
「まあな……随分と嬉しそうだな、第十席ザイード・シン」
「お前と殴り合うために来たんだ。当然だろ!」
「本当に、それだけのために来たのかい」
「他に何が要る!」
ザイードが両拳を打ち合わせる。
鈍い音が闘技場へ響いた。
石床の中央で歯車が動き始める。
床が円形に開き、黒硝子の祭壇が鎖に引かれてせり上がってきた。
その上には、黒い金属で造られた封印櫃が置かれている。
黒い法衣の中立管理者が、二人の間へ立った。
手には、儀式用の刃物が二本。
「双方、契約を」
ジェラルドとザイードが刃物を受け取り、それぞれ指先を切る。
赤い血が、封印櫃の左右へ落ちた。
赤黒い術式が浮かび上がり、二人の足元まで走る。
次の瞬間。
ジェラルドの全身から、理魔法による補強が消えた。
骨が重くなる。
筋肉を巡っていた魔力が途切れる。
普段なら意識することすらない支えが、一斉に失われた。
ジェラルドは息を吐き、足裏で石床の感触を確かめる。
これが、本来の身体。
対するザイードも自身の肉体を確かめ、ニヤリと笑った。
「いいな。余計なもんが全部消えた」
ジェラルドは腰を落とし、構えを取る。
その時だった。
――ガコン。
鐘楼の集光鏡が傾いた。
蓄えられた光が、白い帯となって闘技場の塔へ走る。
続いて、港の倉庫。
商館の屋上。
崖上の監視塔。
街の各所から放たれた光が、次々と主鏡へ吸い込まれていった。
環状の金具が回転し、術式が順番に発光する。
流れ込んだ光が硝面の内部で束ねられ、主鏡が白熱した。
――ガコン。
最後の固定具が外れる。
主鏡がゆっくりと傾き、蓄えられた光を決闘場へ解き放った。
真昼の様に輝く決闘場。
ジェラルドとザイードの巨体が、その中に浮かび上がる。
封印櫃。
黒硝子の祭壇。
石床。
全てが、輪郭を焼きつけるほど強烈な光に照らされた。
張り出した台座の裏側から、濃い影が長く伸びていく。
観客席まで届く程に。
観客の誰もが、街の集めた光を浴びて立つ二人の巨人を見つめていた。
◇
観客席の上段。
ネモは人々の顔と、周囲の建物を見回していた。
白い帽子。
白い外套。
不自然な魔力の動き。
バンキッシュの姿は、どこにもない。
――ガコン。
主鏡を取り囲む金具が動き、流れ込む光条の角度がわずかに変わった。
ネモは鏡を見上げる。
鐘楼。
商館。
監視塔。
港の倉庫。
ベルクリフの各所から伸びた光が、主鏡へ集まっている。
そのうちの一本。
港側から伸びる光条の先に、見覚えのある集光鏡があった。
崩れた防潮壁の上。
連なる倉庫の向こう。
旧排水区の岩壁の隙間から見えていた、あの鏡。
ネモの目が大きく開いた。
あそこから闘技場は見えない。
だから除外した。
だが、集光鏡は見えていた。
その先の主鏡も。
今、港側の集光鏡は、蓄えた光を主鏡へ送り込んでいる。
ネモの脳裏に、嫌な直感が奔った。
イベルダルクの魔法。
月光岩穿、八卦乱彩砲、百景乱砕大砲。
神の光条を敵へ叩きつける、嫌になるほど喰らった攻撃。
旧排水区から、港側の集光鏡へ撃ち込む。
攻撃魔法を光へ紛れ込ませる。
集光鏡はそれを主鏡へ送り、主鏡は他の光とともに決闘場へ落とす。
街の集光網そのものが、巨大な射撃経路になっている。
魔法銀の鏡は、それが照明か、殺人のための光かなど区別しない。
標的を直接見る必要などなかった。
「まさか」
ネモの顔から血の気が引いた。
席を蹴る。
「まずいっ!」
その声は、観客の歓声に飲まれた。
◇
旧排水区。
崩れた水門の奥。
岩壁の隙間に、港側の巨大鏡が見えていた。
今は闘技場の主鏡へ向かって傾き、鏡面から白い光条を伸ばしている。
街じゅうの集光鏡から放たれる膨大な光と魔力の奔流。
ベルクリフ全体を揺らす脈動に紛れ、旧排水区で膨れ上がる神気は、闘技場から完全に覆い隠されていた。
白い帽子。
白い外套。
白い手袋。
一丁の白銀の拳銃。
バンキッシュ・ガンデスペラードは、静かに詠唱を紡いだ。
――アルテミス、四つの調度をお貸しいただく。
十字結ぶ槍、血濡れの刺股、鎌首擡げる毒大蛇。
絡んだ殺意の格子を貫く矢を一つ――
――天眼獄耳網透し――
バンキッシュの脳裏に、ベルクリフの地図が広がった。
建物。
水路。
通路。
闘技場を埋め尽くす、無数の生体反応。
一つ一つが赤い光点となり、位置と動きを伝えてくる。
その中に、ひときわ巨大な反応が二つ。
黒錨組側の門から現れた反応がザイード。
その正面に立つもう一つがジェラルド。
二人の位置。
距離。
向き。
必要な情報が、次々と意識へ流れ込んでくる。
「見つけましたよ……」
拳銃の銃身で帽子のつばを持ち上げ、バンキッシュは細く笑った。
「色々と嗅ぎ回られていたようですが、とんだ徒労だったようですね、白雪姫」
そして、新たな詠唱を紡ぐ。
――イベルダルクの最高神よ。
貴殿に害成す逆徒共、屠る力をこの我に。
覇を和と成すため月を喰み、慈愛と共に創造せん。破戒無慙を破滅へ導け――
――燼滅巨神爪――
イベルダルク最高位魔法が顕現する。
本来なら敵を叩き潰す二本の巨腕。
しかし異形、腕というよりは腕を模した二門の大砲。
そこにさらにバンキッシュは詠唱を重ねる。
――雲間、神晄、腕の紡ぐクトゥグヴァルトンのヤコブの梯子、悶え朽ち果てるその今際に、平和の暁、目に灼き付けよ――
――百景乱砕大砲――
二門の弾倉が同時に光り出す。
凝縮された神気が術式環を巡り、砲身の奥へ呑み込まれていった。
燼滅巨神爪を砲台とし、その内部へ百景乱砕大砲の術式を装填する。
「……装填完了」
大規模。
消耗した獅子軍神を、確実に吹き飛ばすための一発だった。
バンキッシュは二門の巨砲を、港側の集光鏡へ向ける。
「狙撃手は、高い所にいるのではないのです」
銀銃を指先で回す。
「敵を撃てる場所にいるのですよ」
遠く離れた闘技場で、中立管理者が銅鑼の前へ立つ。
槌が振り上げられた。
銅鑼が鳴る。
ザイードが踏み込む。
ジェラルドが拳を構える。
ネモが観客席を駆け下りる。
バンキッシュは撃たなかった。
二門の巨砲の照準を保ったまま、二つの赤い反応を見つめている。
「まだですよ」
ザイードの拳が唸る。
ジェラルドの身体が、その軌道から外れた。
二人の巨体が激突し、闘技場が揺れる。
バンキッシュは満足そうに目を細めた。
「獅子軍神……もう少し弱っていただかなくては」
万全の獅子軍神を、一撃で葬れるとは考えていない。
ならば、弱らせればいい。
魔法防御を取り去り。
骨を折り。
肉を裂き。
体力を使い果たしたところで。
神の光で消し飛ばす。
バンキッシュは獲物が最も弱る瞬間を、静かに待っていた。
血硝試合が始まった。




