第9話 硝子港の決闘⑧
銅鑼の音が、硝子港の夕空へ響き渡った。
次の瞬間。
ザイードが石床を蹴り砕く。
巨体が弾丸のように前へ飛び出し、観客席が爆発するような歓声に包まれた。
降り注ぐ白い光。
対峙する二人の巨人。
街じゅうの鏡が作り上げた、血硝試合の開幕。
誰もが決闘場を見ていた。
白鴎会の構成員の一人も、例外ではなかった。
アルゴから、客人たちに不自由がないよう気を配れと言いつけられていた男である。
試合が始まる直前まで、彼の数席隣には少女が座っていた。
艶のある銀髪。
血のように赤い瞳。
黒衣に身を包んだ、目を引くほど美しい少女。
その足元には、大きく、獰猛そうな黒犬が伏せていた。
だが。
銅鑼と光に奪われていた視線を戻した時。
「……あれ?」
少女はいなかった。
巨大な黒犬も。
座席には誰もいない。
立ち上がった気配も、通路へ移動した姿も見ていなかった。
周囲の観客は試合へ夢中で、気に留める者すらいない。
「どこ行ったんだ……?」
男は首を傾げた。
決闘場の中央では、斜め上から降り注ぐ白い光を受け、封印櫃を載せた祭壇の影が、少女の消えた座席の下まで細長く伸びていた。
◇
ザイードの右拳が、ジェラルドの顔面へ迫る。
速い。
肉体強化の魔法を封じられてなお、常人なら拳が動いたことにすら気づけない速度。
まともに受ければ、頭蓋ごと砕かれる。
だが。
ジェラルドは、半歩だけ前へ出た。
拳が届く寸前、獅子面をわずかに傾ける。
ザイードの拳が、頬の毛を掠めて通り過ぎた。
「っ!」
ジェラルドの右手が、その手首へ触れる。
左手は肘へ。
受け止めない。
押し返さない。
迫る拳へ外側から触れ、その力を斜め下へ流す。
全力で踏み込んだザイードの身体が、己の勢いに引かれて前へ流れた。
その懐へ、ジェラルドが身体を滑り込ませる。
腰を沈めた。
「ふんっ!」
ザイードの巨体が宙へ浮く。
力任せではない。
拳の勢い。
踏み込んだ脚。
前へ傾いた重心。
ザイード自身が生み出した全ての力を利用した投げだった。
岩塊のような身体が、背中から石床へ叩きつけられる。
轟音。
決闘場が揺れ、床に亀裂が走った。
観客席から歓声が上がる。
「うおおおおおっ!」
「獅子の方が投げたぞ!」
「何が起きたんだ!?」
ジェラルドは追わない。
静かに構えを取り直した。
石床へ倒れたザイードは、しばらく空を見上げていた。
やがて。
「カッカッカッ!」
笑い声を上げる。
両手を床へ叩きつけ、その反動だけで跳ね起きた。
「今の、俺の力を使いやがったな!」
「気づいたか」
「面白え!」
ザイードが再び踏み込む。
今度は左。
先ほど以上に速く、重い拳。
ジェラルドは腕を上げた。
拳へ正面から合わせるのではない。
前腕を外側から添え、軌道を僅かに変える。
ザイードの拳が肩口を通り過ぎる。
すれ違いざま、ジェラルドの掌底が顎の先端を打った。
硬い音。
ザイードの頭が跳ね上がる。
そのまま足首を払う。
巨体が二度目の宙を舞った。
石床へ落ちる直前、ジェラルドはザイードの左腕を捻り、肩から叩きつける。
再び轟音。
だが。
「軽いな!」
空いていた右手が、ジェラルドの足首を掴んだ。
「なっ……!?」
倒れた姿勢のまま、腕一本で持ち上げる。
ジェラルドの巨体が浮いた。
ザイードが吠える。
「うぅらあああっ!」
力任せに振り回し、石床へ叩きつける。
ジェラルドは空中で身体を丸めた。
背中から落ちる直前、掌を床へつく。
衝撃を腕から肩へ逃がし、転がるように受け身を取った。
それでも石床が砕ける。
ジェラルドは数度転がり、片膝をついた。
「馬鹿力め……」
「カッカッカッ! まだまだいくぞ!」
ザイードが迫る。
右拳。
ジェラルドは手首へ触れる。
先ほどと同じように、拳を外へ流そうとした。
だが。
流れない。
「……!」
ザイードは踏み込む寸前、腰を落としていた。
前へ偏っていた重心が、僅かに後ろへ残されている。
先ほどの投げを受けて、もう修正したのだ。
「そういうことか……!」
ジェラルドが気づいた時には、ザイードの左拳が下から跳ね上がっていた。
ジェラルドは顎を引く。
拳が胸元を掠めた。
直撃ではない。
それでも、巨体が僅かに浮く。
「ぐっ……!」
ジェラルドは後方へ跳び、距離を取った。
ザイードは追わない。
自分の右手を開き、先ほどジェラルドに触れられた手首を見る。
次に足の位置を確かめ、腰を落とし、肩の力を抜いて拳を構え直した。
先ほどよりも、明らかに無駄が少ない。
ジェラルドの目が細くなる。
「……一度で覚えやがったのか」
「目の前でやってくれてんだ」
ザイードは獰猛に笑った。
「盗まねえ方が失礼だろ!」
再び二人が踏み込む。
ザイードの拳。
ジェラルドの掌。
力と技が正面から噛み合った。
ジェラルドは拳の軌道を外す。
ザイードは外された勢いを殺さず、身体を回転させて肘へ繋げる。
ジェラルドは身を沈めて潜り込み、脇腹へ掌底を叩き込んだ。
鈍い音。
常人なら、肋骨を砕かれ、内臓まで潰される一撃。
ザイードの巨体が横へ流れる。
だが、倒れない。
踏み締めた足が石床を砕き、その場で無理矢理停止する。
返す拳を、ジェラルドが受け流す。
続く掌底を、ザイードは肩で受けた。
足払いには片脚を浮かせて対応し、崩される前に自ら間合いを切る。
巨体に似合わぬ動きだった。
「カッカッカッ!」
「グルルル……」
ザイードが高らかに笑う。
ジェラルドが、獣のように低く唸る。
拳が風を切る。
掌が走る。
肩がぶつかり、肘が交錯する。
一撃ごとに石床が砕け、白い光の中へ細かな破片が舞い上がった。
ジェラルドはザイードの致命的な拳を外へ流し、重心を崩し、何度も石床へ転がした。
だが、ザイードは倒れるたびに立ち上がる。
殴られても。
投げられても。
関節を捻られても。
その異常な肉体は、容易には止まらない。
そして、一度受けた技を、次には僅かに修正してくる。
技術の差を、膨大な肉体性能と異様な吸収力で埋めていく。
ジェラルドの掌底が、ザイードの胸へ沈んだ。
同時に、ザイードの拳がジェラルドの脇腹を捉える。
鈍い衝撃。
脇腹の奥で、骨が一本折れた。
二人の巨体が弾かれ、石床を滑った。
ほぼ同時に踏み止まる。
ジェラルドが口元の血を拭う。
ザイードは胸元に残る掌の跡を見て、嬉しそうに笑った。
「楽しいなぁ! 獅子軍神!」
「……ふん。勘弁してくれ」
二人は再び腰を落とす。
観客たちは息をすることさえ忘れ、白い光の中の攻防を見つめていた。
◇
ネモは観客席を駆け下りていた。
人波を縫う時間すら惜しい。
手すりへ足を掛け、そのまま外へ飛び出す。
眼下には、ベルクリフの街並み。
石畳。
色硝子の屋根。
入り組んだ路地。
遠くには港。
その先に、旧排水区がある。
ネモの身体が落下する。
――雪盤創氷刃。
靴底へ青白い魔法陣が浮かんだ。
冷気が足元を包む。
左右の靴底に一本ずつ、鋭い氷刃が形作られる。
屋根へ着地した瞬間、その表面を白い霜が走った。
氷の軌道。
ネモは走らない。
滑った。
水色の髪を後ろへなびかせ、一息で商館の屋根を横切る。
屋根の端。
その先に足場はない。
ネモは速度を落とさず、空中へ飛び出した。
正面には、別の建物。
着地点へ向かって、鏡のように滑らかな氷が屋根の上へ広がる。
ネモは細い氷の軌道へ刃を乗せ、そのまま屋上を滑り抜けた。
氷刃が表面を削り、白い欠片が夕空へ散る。
屋根の端から路地へ飛び降りる。
石畳へ氷刃が触れた瞬間、冷気が爆ぜた。
進行方向へ白い氷の道が走り、ネモの身体をさらに加速させる。
人々が悲鳴を上げて道を空けた。
「何だ!?」
「きゃあっ!」
「速っ――!」
ネモは振り返らない。
頭の中に、旧排水区までの道を描く。
一度歩いた。
階段の位置。
倉庫の配置。
防潮壁の高さ。
崩れた水門。
全て覚えている。
自分で調べた。
自分で見て。
自分で違うと判断した場所。
そこへ今、全力で向かっている。
「僕の馬鹿……!」
奥歯を噛む。
だが、悔やんでいる時間はない。
二門の巨砲は、まだ撃たれていない。
それは、ジェラルドが無事だからではない。
バンキッシュが、最も殺しやすい瞬間を待っているだけだ。
間に合わなければ。
ジェラルドがザイードに削られた瞬間、決闘場ごと消し飛ばされる。
「させない……!」
足元の氷が爆ぜた。
ネモは白い軌跡となって、港の街路を駆け抜ける。
◇
旧排水区。
天眼獄耳網透しが捉えたベルクリフの地図。
決闘場の中央では、二つの巨大な赤い反応が激しくぶつかり合っている。
一方が前へ出れば、もう一方が僅かに退く。
組み合い、離れ、再び衝突する。
バンキッシュは二門の巨砲を集光鏡へ向けたまま、その動きを静かに観察していた。
獅子軍神の反応に、まだ大きな衰えはない。
「流石ですね」
焦る必要はない。
ザイードは充分に役割を果たしている。
獅子軍神も、完全な余裕を保っているわけではない。
少しずつ、確実に、撃つべき時へ近づいている。
その時。
決闘場の観客席から、一つの赤い反応が飛び出した。
バンキッシュが目を細める。
他の反応より遥かに小さい。
だが、その光は濃く、移動速度も異常だった。
屋根から屋根へ飛び移り、街路へ降りながら、港へ向かって進んでいる。
「おや」
目的地は明白だった。
旧排水区。
自分のいる場所。
「もう気づかれましたか」
バンキッシュは感心したように笑う。
二門の巨砲は動かさない。
照準は港側の集光鏡へ固定したまま。
術式環が微調整を続け、百景乱砕大砲を弾倉内へ閉じ込めている。
獅子軍神を撃つための砲。
それを、接近してくる一人のために動かす必要はない。
バンキッシュは手元の白銀の拳銃を持ち上げた。
「随分と急いでいらっしゃる」
銃口が、崩れた水門の大きな開口部から、港へ続く街並みへ向く。
ネモの姿を直接見ることはできない。
だが、屋根の上や街路の交差点へ出る瞬間なら、水門の開口部から射線が通る。
天眼獄耳網透しがあれば、それで充分だった。
現在位置。
速度。
進行方向。
建物の高さ。
次に足を置く場所。
必要な情報は、全て揃っている。
「ですが、向かう先が素直すぎますね」
拳銃へ神気が流れ込む。
銀色の光。
本来なら、岩盤すら穿つ攻撃魔法。
だが、余剰出力を削り、光条を細く絞る。
白雪姫一人を貫くには、それで充分だった。
代わりに、発射までの時間を極限まで短くする。
――月光岩穿。
銃口の奥で、針より細い銀光が瞬いた。
バンキッシュが狙っているのは、赤い光点ではない。
その先。
ネモが数瞬後に到達する、商館の屋根。
次に右足の氷刃を置くはずの場所。
「まずは、足を止めていただきましょう」
バンキッシュは、商館の屋根へ向けて引き金を引いた。
◇
音はなかった。
ただ。
ネモが次に踏もうとしていた屋根の縁を、白銀の光が貫いた。
石材に、白く灼けた穴が開く。
一瞬遅れて、瓦と石材が内側から弾け飛んだ。
「っ!」
足場を失ったネモは、空中で腰を捻った。
左足の氷刃を壁へ叩きつけ、身体を横へ振る。
予定していた軌道を外れ、隣の建物へ着地した。
その足元から氷が走る。
ネモは勢いを殺さず、再び屋根を滑り始めた。
一発目が屋根を穿った時には、すでに二発目の銀光が放たれていた。
光が、水色の髪を数本焼き切る。
「もう二発目……!」
ネモは驚愕する。
遠い。
狙撃地点は、まだ姿すら見えない。
こちらの姿も見えていないはずだ。
それなのに。
最初の一発を避けることまで読み、次の射線がすでに置かれていた。
ネモは屋根を蹴り、さらに加速する。
三発目。
銀光が正面から奔る。
ネモは身体を低く沈めた。
光が水色の髪を掠め、背後の建物を貫く。
四発目は足元。
氷の軌道が砕かれ、ネモの身体が空中へ投げ出された。
「くっ……!」
落下しながら両腕を広げる。
眼下の石畳へ、巨大な氷の斜面が生まれた。
ネモは背中から氷の斜面へ着地した。
そのまま滑り落ちながら、上体を起こす。
銀光が斜面を追って走った。
ネモは立ち上がると同時に氷刃を立てる。
街路へ降りた瞬間、鋭く進路を変えた。
砕けた氷が、白い花のように舞い上がる。
光条が外套の裾を掠めた。
布が焼け、焦げた臭いが鼻をつく。
「姿も見えないのに……!」
撃たれてから避けているのではない。
こちらが動く前から、その先を撃たれている。
曲がれば、曲がった先へ。
跳べば、着地する先へ。
バンキッシュはネモではなく、ネモの選択を狙っていた。
それでも。
ネモは止まらない。
止まれば、狙撃手の思う壺だ。
足元から新たな氷の軌道を走らせる。
石畳を蹴る。
冷気が爆ぜた。
旧排水区まで、あと僅か。
◇
天眼獄耳網透しの赤い光点は、速度を落としていなかった。
バンキッシュは、わずかに眉を上げる。
「お見事」
足場を撃ち、逃げ道を撃ち、軌道を撃つ。
普通の魔法使いなら、どこかで止まる。
身を隠す。
防御魔法を使う。
逃走経路を探す。
だが、白雪姫は違った。
落とされても、塞がれても、その場で次の道を作り、こちらへ進み続けている。
バンキッシュの口元が、僅かに緩んだ。
「なるほど」
銀銃の銃口へ、再び銀光が集まる。
今度は、先ほどまでのように出力を絞らない。
人体ではなく、防潮壁そのものを崩すための一発。
銃口の奥で、先ほどより太い光が脈打った。
「そうでなくては、困ります」
狙うのはネモではない。
進行方向にある、亀裂の走った古い防潮壁。
旧排水区の入口は、街路より高い岩棚に開いている。
そこへ続く上り道は、防潮壁の脇を通っていた。
壁の根元を撃ち抜けば、崩れた石材が街路側へ雪崩れ落ち、上り道を塞ぐ。
崩落を避けるには、左右どちらかへ跳ぶしかない。
どちらを選んでも、その着地点へ次弾を置ける。
銀銃の照準が、静かに定まる。
一方、二門の巨砲は微動だにしない。
決闘場の獅子軍神へ繋がる光の道を、依然として捉え続けている。
バンキッシュは二つの戦場を同時に見つめていた。
一つは、ザイードに削られていく獅子軍神。
もう一つは、銀色の死線を滑り抜け、自らの喉元へ迫る白雪姫。
「さて」
白い指が引き金へ触れる。
「盛り上がってまいりましたね」
再び。
月光岩穿が放たれた。




