第5話 硝子港の決闘④
硝子港ベルクリフ。
夜明け前の街は、まだ眠っているように静かだった。
港の灯は落ち、賭場の喧騒も薄れ、娼館の窓から漏れる赤い光だけが石畳を濡らしている。
海から吹く風は冷たく、潮と酒と煙草の匂いを運んでいた。
街の高台には、ベルクリフ名物の巨大な魔法鏡がそびえている。
昼には太陽を受けて港を白く照らし、夜には月を映して海を淡く輝かせる硝子の塔だ。
その光景を眺めながら、古い礼拝堂の鐘楼台の縁に、バンキッシュ・ガンデスペラードは腰掛けていた。
白い帽子。
白い外套。
腰には白銀の拳銃。
彼の足元から街を見下ろせば、白鴎会の本邸へ続く坂道が細い線のように見える。
その坂道を、一台の馬車が上っていた。
護衛は四人。
中に乗っているのは、白鴎会が血硝試合に立てる予定だった代表者。
ベルクリフ東区画で名を売った用心棒。
白鴎会の切り札。
黒錨組のバロッサと同格と噂される男。
バンキッシュは懐中時計を開いた。
「予定通りですね」
彼は穏やかに呟き、白銀の拳銃を抜いた。
距離は遠い。
常人なら、馬車の形を捉えることすら難しい。
それでもバンキッシュは、白い手袋をはめた指を銃把へ添え、静かに詠唱を紡いだ。
――イベルダルクの星界神よ。御神の道を阻むもの、月の光で照らし貫け—
――月光岩穿—
本来は、指先から細い光の穿孔弾を放つ汎用神官魔法。
だが、目に見える変化は何も起こらない。
ただ、バンキッシュの体から、白銀の拳銃へ魔力の脈動が注がれていく。
「装填完了」
銃を構える。
バンキッシュは目を細め、引き金を引いた。
銃声が鐘楼の上で小さく弾けた。
直後。
馬車の中で、男の額に静かに穴が空いた。
男は声もなく崩れ落ちる。
馬がわずかにいなないたが、馬車は何事もなかったように坂道を上り続けた。
その足音だけが、夜明け前の坂道に響く。
バンキッシュは拳銃を軽く回し、ホルスターへ戻した。
「まずまず」
「ギャハハハッ」
背後から、下品な笑い声が響いた。
バンキッシュは小さく溜息をつく。
「静かにしてくださいよ、Mr.ザイード」
ザイード・シンが、鐘楼の脇で胡座をかいていた。
灰色の外套。
黒いシャツ。
手には、瓶ごとのワイン。
神官服は着ていない。
その姿は、黒錨組が雇った荒くれ者にしか見えなかった。
ザイードは瓶を傾け、喉を鳴らしてワインを飲む。
それから、ゆっくりと立ち上がり、バンキッシュの横へ来て坂道を見下ろした。
「殺ったのか?」
「ええ。血硝試合に出る予定だった男です」
「殺すっていうから見に来たが、つまんねえもんだな」
「だから言ったじゃないですか」
「俺の好みじゃあねえ」
「でしょうね」
バンキッシュは微笑む。
ザイードは崩れた石壁に腰を下ろし、膝に肘を乗せた。
「で、なんで殺した」
「時間稼ぎです」
バンキッシュは淡々と答えた。
「白鴎会が代表を失えば、血硝試合は即座には行えません。代わりの代表者を探す必要がある。黒錨組は、それを待つしかない」
彼は坂道を見下ろす。
馬車は、まだ何事もなかったように走っている。
「全面抗争を避けるための慣習ですから、血硝試合そのものを白紙に戻すわけにもいきません。つまり、白鴎会は焦る」
「獅子軍神が来るまで、引っ張るってことか」
「その通りです」
「それでも来なかったら?」
ザイードの目が細くなる。
「てめえ、獅子軍神が来るって言ったよな」
「来る可能性が高い、と申し上げました。ここからカイガ島は、それほど遠くありません」
バンキッシュは、指先で帽子のつばを整えた。
「ラーミア学院の者が情報を収集しているなら、まず間違いなく学長ラーミア・ウィップティッチの耳には入るでしょう」
「あー、よく分かんねえが、来るってことだな」
バンキッシュは柔らかく笑った。
「とりあえず、待ち損させたら、ただじゃおかねえぞ」
「いえ、絶対に待ち損にはなりません」
「確実に来るわけじゃねえって言ったじゃねえかよ!」
ザイードが、飲みきったワイン瓶を握り潰す。
バンキッシュは、まったく動じない。
「来なかった場合は、貴方が血硝試合に勝利した後で、私が封印櫃の中身を確保します」
「例の黒い宝石か」
「ええ。街で集めた情報とジャガーノート卿の報告を照らし合わせれば、あの黒い魔導器こそ、白雪姫たちが集めているものと見てよいでしょう」
ザイードは首を傾げる。
バンキッシュは軽く溜息をついた。
「つまり、それを奪えば、獅子軍神は取り返しに来ます」
「ああ、なるほど。そういうことかい」
「彼らが魔王復活を本気で目指しているなら、あれを失ったままにはできないはずです」
バンキッシュは白い帽子を被り直す。
「来れば、血硝試合で貴方とぶつける。来なければ、こちらが餌を持ち去って、後から引き寄せる」
そして、口元に笑みを浮かべた。
「どちらにせよ、何の当てもなく獅子軍神を探すよりは有益でしょう?」
「なるほどねえ」
ザイードは笑った。
「理解していただけたようで何より」
バンキッシュは、少しだけ肩を竦めた。
「まあとにかく、俺は獅子軍神と殴り合えりゃそれでいい」
「ええ。だから貴方をお連れしたのです」
「だが、白鴎会が別の代表を立てたらどうするんだ」
「また殺すなり、なんなりしますよ」
バンキッシュは穏やかに言った。
「次善の策があるとはいえ、貴方のご要望に沿うよう、努力はさせていただきます」
ザイードは喉の奥で笑った。
その頃、坂道の下では、馬車が止まっていた。
白鴎会の者たちが、馬車の扉を開け、ざわつき始めている。
どうやら、ようやく異変に気づいたらしい。
「そうやって手札がなくなってきた組織なら、手近な強者をなりふり構わず集めるでしょうしね」
「手近な強者?」
「たとえば、港に着いたばかりの、腕の立つ旅人とか」
ザイードは、そこでようやく意味を察した。
口角が吊り上がる。
「白鴎会が、獅子軍神に代表を頼むと」
「その形が最も美しい」
「偶然任せじゃねえか」
「いえ。先ほど言った通り、白鴎会も、血硝試合に出る努力をするでしょう。代表を失った以上、面子を保つには代わりの強者が必要です」
バンキッシュは、夜明けの港を見下ろした。
「そして、念のために申し上げますが、獅子軍神も例の魔導器を探しています」
「そりゃそうだ」
「少し調べれば、血硝試合にはすぐ辿り着くでしょう。魔導器が賞品。相手は所詮地元のマフィア。獅子軍神にとっては、簡単すぎるボーナス・ゲーム。もし私が獅子軍神だったらまずは代表に名乗りを上げますよ」
「なるほどな、まあ理にはかなってるな」
ザイードは低く笑った。
「それに」
バンキッシュは、魔法鏡の並ぶ高台を見た。
「信じております。この街では、物事は必ず面白い方へ転がります」
そして、うっすらと口元を緩める。
「硝子と血と欲望の街、ベルクリフ。ここは一度も、私の期待を裏切ったことがありません」
「カッカッカ。なるほど、よほど良い街みてえだな」
「お褒めに預かり光栄です」
ザイードは立ち上がり、潰れたワイン瓶を鐘楼の隅へ放った。
瓶が石に当たり、乾いた音を立てて転がる。
「いいぜ。待ってやる」
「感謝いたします」
「ただし、待たせすぎるなよ」
「心得ております」
「じゃあな」
ザイードは鐘楼跡を降り、夜明け前の街へ消えた。
バンキッシュだけが、しばらくそこに残る。
彼は、坂道で騒ぐ白鴎会の者たちを見下ろし、それから港の方角へ目を向けた。
海の果てが、白くなり始めている。
「さて」
彼は静かに呟いた。
「楽しい見世物になりそうです」




