第3話 硝子港の決闘②
硝子港ベルクリフ。
その街は、光を砕いて生きていた。
港沿いの屋根には色硝子の瓦が敷き詰められ、窓枠にも赤、青、緑の硝子が嵌め込まれている。海から差す陽光はそれらに反射し、白く、青く、時に虹色に割れながら石畳へ降り注ぐ。
酒場、土産物屋、賭場、劇場、娼館。
船乗りたちはそこで長旅の疲れを癒し、商人たちは潮風に混じる金の匂いを嗅ぎつける。
美しく、活気のある街だった。
だが、その美しさは決して純粋な美意識で成り立った物ではなかった。
近隣の港街との競争に勝つため、ベルクリフは古くからの硝子細工の技術を街興しに利用した。港そのものを欲望と艶で飾り立て、旅人と船乗りを呼び込んだ。
その名残が、今の硝子港だった。
港の西区画。
マフィア・黒錨組の屋敷は、古い硝子工房を改装して作られていた。
天井から吊られた煤けた硝子灯が、ぎらぎらとした光を撒いている。壁際には黒い服の男たちが並び、中央には大きな卓が置かれていた。
その卓の前で、天支神官第九席、バンキッシュ・ガンデスペラードは帽子を胸に当て、穏やかに一礼した。
「お久しぶりです、グラント殿。ベルクリフの空気は、やはり懐かしい」
黒錨組の頭目、グラントは、葉巻をくわえたまま目を細める。
「中央教会で出世した男が、今さら港の空気を懐かしむか」
「出世と言えるほどのものではありませんよ。ただ、多少は顔が利くようになっただけです」
バンキッシュは微笑む。
ベルクリフの者にとって、彼は天支神官第九席ではない。
かつてこの街を出て、中央教会でそれなりに名を上げた武僧。
礼儀正しく、愛想がよく、しかし底の読めない男。
その程度の認識だった。
天支神官という名を知らぬ者はいない。
だが、その席次や顔ぶれまで知る者は、地方の港街にはほとんどいなかった。
「それで。昔話をしに来たわけじゃねえんだろう。何の用だ」
グラントの視線が、バンキッシュの隣へ向く。
そこには銀髪の大男が立っていた。
天支神官第十席ザイード・シンである。
ただし、神官服ではない。
灰色の外套。
黒いシャツ。
剥き出しの首元には、聖皇国の紋章も、天支神官の徽章もない。
身なりだけなら、港にいくらでもいる喧嘩屋か用心棒の類に見えた。
だが、体格が違う。
腕は丸太のように太く、立っているだけで部屋の空気が押し潰される。鋭い目には、この世のすべてを舐めているような傲岸不遜さが宿っていた。
「腕の立つ男を一人、ご紹介しようと思いまして、名はザイード・シンと言います」
バンキッシュは言った。
「黒錨組は今、血硝試合に臨む代表者を立てようとしている。相手は白鴎会。半端な者を出せば、封印櫃の中身のみならず、面子も失うことになるでしょう」
そこで、バンキッシュは柔らかく目を細める。
「私も昔は、貴方たちに世話になった身です。せめて、お役に立てればと思いまして」
「余計な心配だ」
低い声がした。
壁際から、一人の男が進み出る。
バロッサ。
黒錨組が血硝試合に立てる予定の代表者である。
厚い胸板。傷だらけの顔。鉛を仕込んだ黒い手甲。
港の喧嘩試合では三年無敗。黒錨組の中では、最も拳の立つ男だった。
白鴎会との小競り合いでも、彼一人で十人を沈めたことがある。
バロッサは、ザイードを睨みつける。
「バンキッシュ。あんたが地元に顔を利かせてくれるのはありがてえ。だがな、血硝試合は黒錨の喧嘩だ。よそ者に任せる筋合いはねえ」
「もちろん、無理にとは申しません」
バンキッシュは柔らかく答えた。
「私はただ、選択肢を一つ持ってきただけです」
「選択肢だと?」
バロッサは鼻で笑った。
「そのデカブツが、俺より強いって言いたいのか」
「私は何も」
「言ってるようなもんだろうが」
バロッサの拳が鳴る。
周囲の黒服たちが、面白がるようにざわめいた。
ザイードは、それまで退屈そうに黙っていた。
だが、そこでようやく口角を上げる。
「面倒くせえな」
「あ?」
「誰が代表になるかって話だろ?」
ザイードは一歩前に出た。
「じゃあ、殴り合って決めりゃいい」
部屋の空気が止まった。
バロッサは、ゆっくりと笑った。
「いい度胸だ、よそ者」
「お前からでいいぜ」
「何?」
「一発くれてやる」
ザイードは顎を軽く上げた。
「それで俺が倒れたら、身を引いてやるよ」
バロッサの目に怒りが走る。
「舐めてんな、てめえ」
「それがわかるたあ、顔の割には頭が回るんだな」
「てめえっ!」
ザイードは笑った。
「早くしろ。退屈なんだ」
バロッサが踏み込んだ。
速かった。
黒い手甲をはめた拳が、ザイードの顔面へ叩き込まれる。鈍い音が部屋に響き、硝子灯がかすかに揺れた。
まともに入った。
黒錨組の男たちが息を呑む。
だが、ザイードは動かなかった。
一歩も下がらない。
首も揺れない。
顔の向きすら変わらない。
微動だにしない。
「……は?」
バロッサの声が漏れる。
ザイードは、つまらなそうに目を細めた。
「終わりか」
「な――」
次の瞬間、ザイードの拳がバロッサの腹へ沈んだ。
音は一つだった。
肉を打つ音。
骨を軋ませる音。
肺から空気が潰れる音。
それらがまとめて一つになり、部屋の奥まで響いた。
バロッサの身体が吹き飛ぶ。
背中から壁に叩きつけられ、石壁にめり込むようにして沈黙した。
誰も笑わなかった。
黒錨組の男たちは、ただ沈黙していた。
ザイードは拳を下ろす。
「で?」
彼は、周囲へ視線を向けた。
「まだ異論のある奴はいるか?」
誰も答えなかった。
グラントは葉巻を噛み潰しかけた。
バロッサは気を失っている。
死んではいない。
だが、数カ月はまともに動けないだろう。
あのバロッサが。
黒錨組の誰一人として、前に出ようとしない。
しばらくして、グラントが低く言った。
「……バンキッシュ」
「はい」
「この男は、信用できるんだろうな」
「勝つことに関しては」
バンキッシュは微笑んだ。
「私が保証いたします。まあ、素行はほんの少しだけ悪いですが」
「ははっ……」
グラントは短く笑った。
だが、その笑いは引き攣っていた。
「いいだろう。血硝試合の代表は、そのザイードに任せる」
「ふんっ、最初からそう言えば、あのおっさんもひどい目に遭わずに済んだのにな」
ザイードは薄ら笑いを浮かべながら吐き捨てるように言った。
バンキッシュは帽子を被り直し、丁寧に一礼する。
「ご理解いただき感謝します、グラント殿」
黒錨組の者たちは、もう誰も異を唱えなかった。
彼らは理解したのだ。
バンキッシュが連れてきたのは、ただの用心棒ではない。
規格外の化け物である、と。
グラントは葉巻を灰皿へ押しつけると、低く呟いた。
「……相変わらず、食えねえ男だ……」




