第44話 死闘 VSジャガーノート⑦
悲鳴じみた音を立てる寒風が、ジャガーノートの頬を打つ。
彼女は銀斧を構え、迎え撃とうとした。
――その瞬間。
「死ね」
ネモは、もう懐にいた。
氷剣が叩き込まれる。
ジャガーノートは反射的にそれを受けた。だが、受けたはずの身体がそのまま大きく弾き飛ばされる。
「くっ――!!」
踏み止まる間もない。
吹き飛ばされた先へ、ネモが先回りするように追いついていた。
二撃目。
横薙ぎの氷剣が、今度は真正面からジャガーノートを打ち据える。
さらに吹き飛ぶ。
だが、その後退すらネモは許さない。三撃、四撃と間髪入れず叩き込み、氷翼を翻して回り込み、ジャガーノートの身体を一方的に弾き回した。
「あぐっ……!」
ジャガーノートは咄嗟に銀斧を地へ叩き込み、どうにか体勢を立て直す。
その刹那、二本の氷剣が左右から振り下ろされた。
―銀錬一喝っ!―
銀の巨槌が横薙ぎに現れ、二振りの軌道をわずかに逸らす。
だが、それすら利用してネモは身体を捻った。
氷の足鎧がきらりと閃く。
「ぐっ……!」
蹴りがジャガーノートの顎を打ち抜いた。
首が跳ね、足元が揺らぐ。
彼女は大きく後ろへ跳んだ。だが、着地の暇すら与えず、ネモがさらに追いついて叩き飛ばす。
一方的だった。
だが、その乱打の最中、場違いなほど乾いた音とともに氷片が散る。
ネモの鎧だ。
ひび割れた装甲が、攻めるたびにばきばきと欠け落ちていく。
しかしネモは意にも介さず、冷たく、呪詛のように詠唱を紡ぐ。
―曇天に佇む氷の帝王よ……
世界に満ちる、貴殿の優しき力の奔流……ほんの僅か、お貸し頂く。
捧げるは小さな誇りと猛る生き様。
頂くは巨大なる威光と冷徹なる強さ。
獄に堕ちるは、邪悪に嗤う簒奪者――
ネモが一歩だけ引く。
そして、静かに締めの一句を告げた。
―悪辣よ……全て凍てつき無様に砕けろ……氷狼公凍獄大咆―
空間ごと捻じ切って凍らせるような、極大の凍気が奔流となって解き放たれる。
「くっ……! ――月神断壊壁ッ!」
ジャガーノートが防御魔法を展開する。
だが、受け止めた壁は一瞬で軋み、次の瞬間には決壊した。
轟音。
砂塵。
ジャガーノートの身体が岸壁へ叩きつけられる。
視界は煙に閉ざされた。
それでもネモは迷わない。
静かな殺気だけを纏い、砂煙の中へ一直線に突撃する。
だが――
―燼滅巨神爪!!―
白銀の巨腕の正拳突きが、砂煙を裂いて現れた。
詠唱破棄。
速攻。
完璧な迎撃。
ネモの身体が吹き飛ばされる。
詠唱破棄ゆえに、燼滅巨神爪は輪郭を失い、そのまま霧散した。
「ぐっ……あっ……」
強烈なカウンターだった。
地を滑り、ネモは膝をつく。
肺の空気をすべて押し出され、立ち上がれない。
砂煙の向こうから、血塗れのジャガーノートがゆらりと姿を現す。
肩へ深く食い込んだ岩片を、自ら引き抜く。
砕けた銀斧を、無造作に砂の上へ投げ捨てた。
「……なんですか……」
血が唇を濡らす。
それでもジャガーノートは笑う。
「あの時よりずっと小さいのに……ずっと速いじゃないですか……ガフッ……!」
血を吐く。
だが、その目は鋭くネモを見据える。
「……私が愚かでした。カイガ島を襲撃するための力を残しておこうなどと……そんな甘いことを考えていたのが、間違いでしたね」
自嘲気味に微笑みながら、ジャガーノートは新たな詠唱を紡ぎ始める。
―愚かなる売女は、ついに悟れず。
その白絹、既に清浄にして穢れ。
せめて振り返れ、骸重なる道。
目を合わせろ、その双眸。
見つめ続けろ、見つめ続けろ。
忘れるな。決意しろ。覚悟せよ。
その血絹を身に纏い――
漆黒の幾何学模様が、ジャガーノートの全身を包み込む。
繭のように閉じ、彼女の身体を宙へ浮かび上がらせた。
そして、それは光と共に炸裂する。
―嬌声を叫び戦場に舞え……神域纏装……闘娼の戦乙女―
中から現れたのは、巨大な白銀の槍と巨盾を携え、天使めいた翼を広げたジャガーノートの姿だった。
神々しく、しかし血の気配を纏う聖鎧。
声が、不気味に重なって響く。
「貴方達の真似事です……」
「……どこまでも……どこまでも腹立たしいよ、ジャガーノート……」
ネモはふらつきながら立ち上がり、苦々しく吐き捨てる。
次の瞬間、二人は同時に地を蹴った。
白銀の翼が大気を裂いて躍動する。
対してネモは大地を蹴り砕くように跳び、氷翼を翻して一息でジャガーノートの眼前まで迫った。
先手はネモ。
二刀の氷剣が、左右から首を刈りにいく。
ジャガーノートは巨盾を滑り込ませるように差し込み、辛うじてそれを受けた。
だが受け止めきれない。盾ごと押し込まれ、空中で大きく流される。
「ぐっ……!」
そこへ追い打ち。
一閃。
二閃。
三閃。
火花と氷片が乱れ散る。
ジャガーノートは槍を振るい、突き、払い、翼を大きくはためかせて無理やり距離を作ろうとする。
だが、そのたびにネモが追いつく。
速い。
小さく、欠けた鎧。
ひび割れた氷の装甲。
それなのに、その動きは少しも鈍らない。
「ハァッ!」
白銀の槍が鋭く閃く。
ネモもまた、豪快に斬りつける。
銀槍がネモの頬を掠める。
氷剣がジャガーノートの脇腹を撫でる。
氷が散る。
白銀の羽が舞う。
血が飛ぶ。
それらすべてが、暮れかけた空に細かく混ざる。
「堕ちろっ!!」
交錯の中、上を取ったジャガーノートが翼を畳み、落下の勢いを乗せて槍を叩き込む。
ネモは二刀を交差させ、それを受けた。
凄まじい衝撃。
周囲の空気が爆ぜ、海面が大きく窪み、雲が散る。
だが、押し合いを制したのはネモだった。
「邪魔なんだよっ!」
氷剣が弾けるように開き、銀槍を外へ流す。
返す刃で、ジャガーノートの右翼の付け根を斬りつけた。
「くっ……!」
体勢が崩れる。
そこへ、氷の足鎧を纏った蹴りがめり込んだ。
「がっ……!」
ジャガーノートの身体が空中でくの字に折れ、そのまま大きく吹き飛ぶ。
「頑張って創ったつもりなんですが……本物とここまで差があるとは……」
吹き飛ばされながら、ジャガーノートが毒づく。
だが、その最中にもネモの鎧は砕け続けていた。
肩が。
脇腹が。
脚甲が。
ばき、ばき、と嫌な音を立てて欠け落ちる。
それでもネモは止まらない。
むしろ、砕けるほどに速くなる。
まるで、自分の魂を削りながら前へ出ているようだった。
ジャガーノートがようやく空中で姿勢を立て直す。
血に濡れた唇をぺろりと舐め、薄く笑った。
「……なるほど……そういうことですか……」
「喋るな」
ネモはすでに次の間合いへ入っていた。
氷剣が槍を絡め取り、片方の刃が喉笛を狙う。
ジャガーノートは盾でそれを受ける。
盾表面に亀裂。
さらに二撃、三撃。
銀の巨盾が亀裂を広げながら悲鳴を上げる。
「何故……」
ジャガーノートが血を吐く。
「小さくなったのに……何故こんなに強いのか……ようやく、わかりましたよ?」
その瞬間、彼女の左掌に銀光が集まった。
―月光岩穿!!―
至近距離の光条。
ネモは首を捻ってそれを避けた。
だが避けきれない。頬を削られ、砕けた鎧がさらに剥がれ落ちる。
それでもネモは止まらない。
「まだだ」
冷え切った声。
そして再び、二刀が荒れ狂う。
斬る。
斬る。
斬る。
ジャガーノートは守勢へ回るしかない。
盾で受け、槍で逸らし、翼で軌道をずらす。
それでも次々と傷が増えていく。
肩。
腿。
脇腹。
頬。
白銀の装いが、少しずつ朱に染まっていく。
「うっ……ぐうっ……!!」
ジャガーノートは決死で歯を食いしばる。
限界が近い。
ネモもまた、もう長くはもたない。
腹の傷は氷では塞ぎきれず、装甲の隙間から血が滲んでいる。
だから前へ出る。
この装いごと使い潰すつもりで、ひたすら前へ。
だがジャガーノートも理解していた。
凌ぎ切れば、先に壊れるのはネモだ。
打ち返すな。
受けろ。耐えろ。
逃さないのは勝ち筋のみ。
次の瞬間、ネモが踏み込む。
二刀が同時に閃く。
―月神断壊壁!―
白銀の障壁が割り込んだ。
「小賢しいっ!」
氷剣が障壁へ叩き込まれ、火花のような氷片が散る。
深く踏み込み、ネモはそのまま壁を押し砕く。
壁の破片の中から槍が閃き、剣戟がさらに交錯する。
そして――
―捉えたっ!―
ネモは見た。
ジャガーノートに、一縷の隙。
迷わず肩口へ斬りかかる。
必殺の軌道。
しかし――
ジャガーノートは、盾を手放し、左肩でそれを受けた。
「――っ!?」
氷剣が盾の残骸ごと左肩を貫き、鎖骨まで深々と裂いた。
だが、その代わり。
ジャガーノートが、ネモの手首を掴んでいた。
「……捕まえました」
囁くような声。
手首の骨が、みしりと嫌な音を立てる。
ネモの目が、ほんのわずかに見開かれる。
その一瞬で十分だった。
翼が全開する。
白銀の羽が空気を裂き、二人の身体が絡み合ったまま急上昇する。
「離せっ!」
「離しませんよっ……!」
ジャガーノートは血を吐きながら笑う。
その笑みは、痛みと恍惚、そして平和への執念で歪んでいた。
限界は、もう近い。
だが、よりそれに近いのはネモだ。
守りながら必死に力を残してきたジャガーノート。
対してネモは、鎧に蓄えられた維持魔力すら燃やしながら前へ出続けていた。
体力にも膂力にも、差が出ている。
空の高み。
薄曇りの向こう、光の失せた夕空で、二人はもつれ合う。
そしてジャガーノートは、その翼でネモを抱き込んだ。
抱擁するように。
そのまま、崖へ向かって一直線に突進する。
「このっ……!」
避けられない。
ドゴォンッ!!
岸壁が大きく陥没し、岩肌に放射状の亀裂が走る。
砕けた氷の破片と石塊が、あたりへ激しく降り注いだ。
ネモの身体は、岩壁に半ばめり込むようにして止まっていた。
「……かっ……は……」
血が零れる。
氷の鎧は、もはや原型を留めていない。
肩も、胸も、腰も、いたるところが砕け落ち、残った装甲も今にも崩れそうに震えていた。
「さっきの仕返しですよ?……」
「…………」
ネモは無言で震える腕を持ち上げ、ジャガーノートへ手を伸ばす。
「まだ動けますか……」
半ば感嘆するように呟きながら、ジャガーノートは槍を構えた。
だが、その仕草に違和感を覚える。
ネモの伸ばした手は、攻撃ではない。
まるで、静止を求めるような仕草だった。
「なんでしょう?」
最後の情けか。
突進の構えを崩さぬまま、それでもジャガーノートは僅かに問い返した。
「せ……めて……シオンちゃ……んと……ジェラルド……は……助けて……」
「なりません」
「お……願い……僕は……どんな殺し方でも……いいから……」
「なりませんと言っています」
ジャガーノートの声は、静かだった。
「平和のために、貴方達は死ぬべきです……少なくとも……私は、そう考えます」
そう言うと、風を巻いて、ジャガーノートが突進する。
「……ふざ……けんなよ」
白銀の穂先が、真っ直ぐネモの心臓へ吸い込まれていく。
その瞬間。
「……っ!?」
世界が、止まった。
ジャガーノートの視界が途端に引き延ばされる。
風が止まる。
血飛沫が空中で静止する。
自分の身体すら、まともに動かない。
そして、ネモの全身から異様な魔力が迸った。
「……なっ……これはっ!? まさか……」
思考を整理するより先に、
「あはっ……アハハハハハッ!!」
ネモが狂喜の高笑いを上げた。
「顕現暴発……いや、顕現圧……!」
「ありがとうジャガーノート……僕に絶望をくれて……やっと掴んだっ! やっとだ! お前がっ! お前らが何度も何度も僕にくれた、この感覚をっ!」
その目は濁り、ギョロついている。
先ほどまでの弱々しさは、跡形もなかった。
「本当に大切な人が死ぬときってね……?」
「……っ」
ネモは笑いながら言った。
壊れたまま、冷たい声で。
「時って凍るんだよ」
「!!!!」
ジャガーノートは一瞬で事態を呑み込み、距離を取ろうとする。
だが、身体が動かない。
「アハハハハハッッ……お前にもその感覚を分けてやるよっ!」
高笑いしながら、ネモがその停止した時の中で、ゆっくりと詠唱を開始する。
―寒い、凍える、涙も流せぬ。
ゆりかごの中の蒼い目をした貧相なネコ。
そっと外見てうずくまる。
戦乱爆砕弾ける血風。
頬に薄ら血、紅化粧。
察したのだろう、外に駆けても、苦難だけ。
ただただひたすらうずくまる。
何も見たくない、聞きたくない。
全部凍って止まってしまえ。
全て拒絶し否定する。
円環を終わらす静謐のコーダ――
時空が歪む。
―散涙腥万漿凍結 慟哭抱擁―
「くっ……」
次の瞬間、ネモが消える。
一つの物音すら立てず。
そして――すでに背後に――
「ガッ……」
ジャガーノートの背中に剣が突き刺さる。
音もなく背後に佇むネモ。
「くぅ……このっ!」
腹を貫かれながらも、ジャガーノートは苦し紛れに裏拳を放つ。
だが、軽々と躱される。
「ふぅ……ふぅ……」
「どう? 辛い? 辛いよねぇっ!」
正気を失った瞳で、ネモがジャガーノートを見つめる。
「燼滅巨神爪!」
詠唱破棄の燼滅巨神爪。
自身ごと吹き飛ばそうとする、最後の抵抗。
しかし。
「!!」
燼滅巨神爪は空を切った。
ジャガーノートの遥か眼下で。
魔法の座標を間違えた?
否、違う。
ネモが上昇したのだ。
音もなく。
風すら感じさせず。
ジャガーノートは、完全に理解した。
今のネモは――死の危機を認知した瞬間、その周囲の時を凍らせる。
「馬鹿な……」
「言っただろ? ジャガーノート……死を目の前にすると……時って凍るって……」
「まだ……まだまだ甘く見ていましたよ……あなたのこと」
ネモは、もう片方の氷剣を振りかぶる。
狙いは、ジャガーノートの首。
「白雪姫さん……」
血を吐きながら、ジャガーノートがぽつりと呟く。
ネモが僅かに手を止める。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、その瞳に迷いのようなものがよぎった。
「いや……なんでもございませんわ……」
「……そうか」
一閃。
ジャガーノートの首が、暮れかけの夕日に照らされながら、空に舞った。




