29.幸せとは sideマリエーヌ
「公爵様。幸せって、どういうことなのでしょう……?」
甘い笑みを浮かべていた公爵様のお顔があからさまに硬直するのを見て、私は慌てて補足した。
「いえ、今が幸せでないという意味ではないのです。ただ、何をもって人は幸せと言うのか……よく分からなくなってしまって……」
自分がなぜこんなことを口にしているのかもよく分からない。
ただ、思うことがあった。
「どうしてあの人は、あんなにも多くの人や物に囲まれていながら、少しも幸せそうに見えなかったのでしょう」
「前皇帝のことか」
私は小さく頷く。
レスティエール帝国の頂点に君臨し、巨万の富を築き、皆がひれ伏すほどの絶対的な権威を手にしていたというのに……こちらへ向ける眼差しには、隠しきれない羨望の色が滲み出ていた。
「自分の息子に地位を奪われるのを恐れて暗殺を企てたのですよね。それなのに、人との繋がりを求めていたなんて……なんだか、心と行動がちぐはぐしているように思えたのです」
結局、あの人が本当に望んでいたものは何だったのだろうか……?
いくら考えてみても、私には全く答えが分からなかった。
「多くの物を手にしていたからこそ、自分が本当に望むものが何なのか分からなかったのだろう。それでいて、自分が得たものを誰かに奪われることを恐れていた。自分自身が、あらゆる人間から多くの物を奪ってきたからこそ、誰のことも信用できなかったのだろうな。……これは事故に遭う前の僕にも言えることでもあるが」
自嘲的な笑みを浮かべると、公爵様は少し遠くを見つめるようにして語った。
「父親が死んで、僕は公爵位という絶大な権力、広大な領地と領民、莫大な財産を得た。それこそ言葉一つで人も金も自由に動かせるほどの強大な力だ。その頃から皇帝に呼び出されることも少なくなり、それなりの自由も得た。だが、それでも僕は一度も幸せだと思ったことはなかった。しいて言うなら、何をしていてもつまらないと思っていた」
「それは、どうしてですか?」
訊きながら、以前の公爵様の姿を思い返していた。
私と視線を合わせることのなかった公爵様は、分かっていてわざと無視する使用人たちと違い、本当に私のことが視界に映っていないように思えた。
「僕はずっと、自分のいる世界をどこか俯瞰して見ていた。たとえるなら、盤上に配置された駒を眺めているような感覚だった。僕の目には、そこに存在する人や物も、全てが作り物のように見えていた。そして僕には、それらを自由に動かす権利が与えられていた。だが、何を得たところで、所詮は作り物だ。そこに何の価値も見出せなかった」
話を聞いて、なんとなく腑に落ちるものがあった。
かつての公爵様にとって、私はきっと視界の隅にすら映らない駒の一つでしかなかったのだろう。
「それが事故を境にして、全てが変わった。盤上を見下ろしていたはずの僕が、一つの駒としてその上に落とされた。それも一番弱い、捨て駒にしかならない存在だ。僕自身が、自ら創り出した世界の住人となったんだ。その途端、それまで意思などないと思っていた駒たちが、はっきりとした悪意を持って僕に攻撃し始めた。好き勝手に動かされてきた鬱憤を晴らすように。格下の駒となった僕には、抵抗する力も無く、彼らからの暴力に晒されるしかなかった」
事故の後、初めて対面した時の公爵様の姿を思い出し、胸が痛んだ。
――もっと、早く公爵様のお部屋を訪ねていればよかった……。
そうしていたら、少しでも公爵様の痛みは軽減されていただろうか。
「だが、それらも全て僕自身が招いた結果だ。むしろこれでよかったんだ。自分自身が傷つけられる側の立場にならなければ、僕は今も人の痛みを想像できなかった」
その言葉に、私もハッとする。
私も、自分が孤独だったからこそ、同じような境遇にいる公爵様の孤独を想像できた。
だから、少しでも公爵様の心に寄り添いたいと思った。
「ボロボロになり、朽ち果てるのを待つしかなかった僕の前に、君が現れたんだ」
ジッと見つめられ、なんとなく面映ゆい気持ちに駆られる。
曖昧な笑みを浮かべながら、軽い冗談の意味を含めながら訊いた。
「私も、盤上の駒の一つとして、でしょうか?」
「いや」
公爵様は迷いなく、首を横に振った。
「君は、ちゃんと人のかたちをしていた」
意外な答えに、私は軽く目を見張った。
公爵様は、私を見つめながら柔らかく微笑む。
「きっと、君が僕のことを一人の人間として見てくれていたからだ。僕の目を見て、親身になって接してくれて、僕ですら気付かなかった僕の心に寄り添ってくれた」
公爵様は、握っている私の手の上に、もう片方の手をそっとのせた。
「君の優しさに触れてから、それまで駒のようにしか見えなかったものが、本来あるべき姿へと変わっていった。それぞれに表情があり、痛みがあり、心がある一人の人間として認識できるようになった。それまで価値のないと思っていた物にも、確かな価値を見出せるようになった。君が現れたことにより、僕の世界は新しく生まれ変わったんだ」
「それは……さすがに言い過ぎではありませんか……?」
「いいや。君と出会えなければ、僕は自分の創り出した世界に囚われたままでいただろう。あの男と同じように」
思わず息を呑む。
そんな風に、公爵様が思っていたことを初めて知った。
「幸せとは、心が満たされて初めて感じられるものなのだと思う。どれほど多くのものを手にしたとしても、心が満たされなければ、そこにあるものの価値も分からない。かつての僕は、自分に心があることさえ気づかなかった。だが、君の優しさに触れ、僕は自分にも心があるのだと知った。何を得ても満たされなかった僕の心は、君が僕のために摘んでくれた、たった一本の花で満たされた」
その時の幸せを嚙みしめるように、公爵様の瞳がそっと閉じられる。
その横顔を見ながら、なぜか私の方が泣きそうになった。
「何が心を満たすのかは、人によって違いはあるだろう。だが、今の僕は、こうして君の傍にいられるだけで十分満たされる。君が僕に笑いかけてくれる。ただそれだけのことが、泣きそうになるほど嬉しいんだ。君の笑顔を見られることが、決して当たり前ではないと知っているから」
私も、こうして公爵様の言葉を聞いているだけで、こんなにも心が満たされていく。
けれど、その心の僅かな隙間に不安が張り付いている。
「私も、公爵様と一緒にいるだけで幸せです。ただ……私は、怖いのかもしれません。幸せになるほど、自分が欲深くなってしまいそうで……。たくさんの物や人に囲まれて、満たされることに慣れてしまったら、私もいつかあの人のように、自分の欲を満たすために誰かを傷つけてしまいそうな気がして……」
「マリエーヌ。君はあの男とは違う。君は、自分の幸せよりも誰かの幸せを優先しようとする人だ。だから君は、幸せになることに、どこか後ろめたさを覚えてしまうのだろう。自分だけが幸せになってはいけないと、いつも自分を戒めているのではないか?」
「……それは……」
公爵様の言う通りだった。
ただでさえ、私は奇跡によって二度目の人生を歩んでいるのだ。
これ以上、何も望んではいけないと、自分を律している。
「幸せになることを恐れなくていい。君が思う以上に、多くの人が君の幸せを望んでいる。君こそが幸せになるべきなんだ」
その言葉が、心に溜まった澱【おり】のように残っていた罪悪感を打ち消した。
ふっと胸が軽くなり、じわりと涙が滲む。
私も幸せになっていいのだと、許しを得たような気がした。
「それでもきっと、君は自分の幸せを誰かに分け与えようとするだろう。だから君が誰かに分け与えた分も、僕が君を幸せにする」
意地でも私を幸せにしようとする公爵様の意気込みに、思わず笑みが零れた。
私自身が、幸せになることに少し身構え過ぎていたのかもしれない。
「あと、子供のことだが……」
そう切り出され、思わず体が跳ねた。
まさか急に子供の話が降ってくるとは思わなかった。
しばらく沈黙が続いた後、静かな声で告げられた。
「焦る必要はないと思っている」
「え?」
キョトンとする私に、穏やかな笑みが向けられる。
「今日も、これまでと同じように君と一緒に寝たいと思っていただけで、そういう目的で誘ったわけではない。だから力を抜いて、もっと気を楽にしてほしい」
そう言われて気付いた。
子供のことを切り出され、再び自分の体が強張っていたことに。
体の力を緩めると、張り詰めていた糸がきれたように楽になった。
けれど、少しだけ落胆している自分もいる。
――私ったら、何を期待していたのかしら……。今日は何もないと分かっていたはずなのに……。
そう反省しながら、私も公爵様に倣って笑みを返す。
「そうですね。今日は公爵様もお疲れでしょうし……あ」
そこでふと、さっきまで考えていたことを思い出し、ポンと手を叩いた。
「今日は私が、公爵様のお体をマッサージします」
「……え?」
私の提案に、なぜか公爵様の顔が僅かに強張ったような気がした。
その反応に僅かな違和感を覚えたけれど、先を続けた。
「以前、公爵様にマッサージしていただいてすごく気持ちが良かったので……。あまり上手にできないかもしれませんが、公爵様の体の疲れが少しでも取れるように頑張ります!」
「……気持ちは嬉しいが、今日はいいかな。言うほど疲れてはいないから」
やっぱり公爵様の反応はあまりよくないように思う。
けれど、なんとしてでも公爵様を癒したい私は負けずにアピールする。
「ですが、休憩する時間を削って帰ってこられたのではないのですか? でなければあんなに早く帰ってこられるはずがありません。どうか遠慮なさらないでください。眠くなったらそのまま寝ていただいて構いませんので」
「いや、本当にいいんだ……」
てっきり、公爵様は遠慮しているだけなのだと思っていたけれど、どうやら本当にマッサージはしてほしくないようで。
疲れたように首を振る公爵様を見て、ちょっとだけショックを受けていると、公爵様は気まずそうに私から視線を外した。
「今、君に触れられると、自分を抑えられる自信がない」
「……はい?」
公爵様は、どこか落ち着かない様子で首筋をさすりながら、ちらりとこちらを向く。
「僕も、君に触れたくなってしまう」
「……触れればいいと思うのですが……?」
これまで何度も触れ合ってきたのに、どうして今更そんなことを言うのだろう……?
そう疑問に思っていると、公爵様は恥ずかしがるように片手で顔を覆った。
「いや……きっと触れるだけで収まらなくなってしまう。……子供は焦る必要はないと言ったばかりなのに、とんだ甲斐性なしだ」
あ……と、公爵様の言葉の意味にようやく気付いた。
けれど、そこに何か引っ掛かりを覚えて、気付けば問いかけていた。
「公爵様にとって、そういう行為は子供を作るためのものなのですか?」
「……! それは……」
言葉を詰まらせ、公爵様は少しだけ目を伏せる。
私は、今の自分の想いを正直に伝えた。
「もちろん、私は子供が欲しいと思っています。そのためには必要な行為だということも。けれど、そういうのを抜きにしても……私は、公爵様に触れてほしいです。公爵様に、もっと深く愛してほしいのです」
「マリエーヌ……」
公爵様が目を見開いて私をじっと見る。
「公爵様と居ると、心が満たされるのに、どこか切なくもあるのです。満たされているはずなのに、もっと、もっと……って。どんどん心の器が膨らんで、そこにできた隙間を公爵様に埋めてほしくて、もっと愛して欲しいって求めたくなるのです」
胸の内側に引っかかっていた言葉を一気に吐き出すと、それ以上何も言えなくなってしまった。
沈黙が流れ、なんとなく気まずい雰囲気を紛らわせるように、少しだけ笑って付け足した。
「なんて、欲張りですよね……」
今の幸せに満足できなくて、更なる幸せを求めてしまう自分は、ずいぶんと欲深くなってしまったと思う。
そう自覚して、私はそっと俯いた。
恥ずかしい。
こんな強欲さが自分の中にあることが。
それを公爵様に知られてしまったことが。
けれど、知って欲しいとも思った。
こんな欲深い私がいることを。
こんな私も丸ごと愛して欲しい、と。
「マリエーヌ……」
絞り出すような声で呼ばれ、ハッと顔を上げた。
公爵様は、自分の胸元を掴みながら苦しそうに体を震わせていた。
「公爵様⁉ どこか苦しいのですか⁉」
「ああ……。今のは、とんだ殺し文句だった。危なかった……」
「……え?」
首を傾げると、公爵様が横目で私を見る。
「無自覚だとしたら、危険すぎる……」
はぁ……と、公爵様は深い溜息を漏らす。
額に手を当てて項垂れると、深刻そうな声で告げた。
「すまない、マリエーヌ……。もう少しだけ頭を冷やさせてほしい……」
「は、はぁ……」
それから再び沈黙が続いた。
その間、公爵様は額や頬の汗を拭ったり、遠くを眺めたり、時折深い溜息を吐いたりしていた。
やがて思案顔となった公爵様が、ふいに切り出した。
「マリエーヌ。君は自分のことを欲張りだと言うが、僕はそうは思わない。むしろ、もっと欲張ってほしいと思っている。君がこれまで我慢を強いられてきた分を取り戻すくらい、多くのものを望んでほしい」
公爵様の指先が、私の髪を撫でるように梳いていく。
「それに、僕も君と同じなんだ」
「同じ?」
公爵様が頷く。
その瞳はどこか寂しそうで、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「僕も君と一緒にいる時、満たされているのに、どこか切なさを覚えることがある。……恐らく、目の前にある幸せを信じきれていないんだ」
公爵様の手が、そっと私の手に重ねられた。
「僕が今、生きていることも、君が生きていることも、こうして君と話をして、触れ合っていることも……全てが夢のようにも思えて、いつか突然、何もかもが消えてしまうのではないかと。そんな想像をしてしまうんだ」
私の手に触れる公爵様の手は、微かに震えていた。
私は公爵様の指に自分の指を滑り込ませ、絡めるようにして握る。
先ほどまでの震えは、もう止まっていた。
公爵様は安堵したように笑みを浮かべ、先を続ける。
「そういう時、もっと君に触れていたいと思う。触れて、君の存在を確かめたい。君の肌の感触、君の体温を直に感じて、君の全てを余すことなく愛したい、と」
私を見つめる赤い瞳が、急に熱を帯びたように色めいた。
「互いの熱が混ざり合い、どちらのものかも分からないくらいに、君の中に溶け込んでしまいたい。そうしたら、言葉では言い尽くせない君への愛を、体を通して注ぐことが――」
「こ……公爵様!」
思わず声が上ずった。
これ以上、公爵様の言葉を聞いていたらどうにかなってしまいそうで、沸騰寸前まで熱くなった頭を抱えながら必死に訴える。
「あの……それ以上は……もう……。公爵様の言いたいことは十分伝わりましたので……」
だんだんと声が小さくなる。
欲深い自分を見せた恥かしさもどこかへ消えてしまった。
公爵様は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
「僕の気持ちが少しは分かっただろうか?」
「え?」
「さっき、君が僕に言ったことと、今、僕が君に言ったことは、そんなに変わらないと思うのだが」
「え……ええ⁉」
「やはり無自覚だったのか……」
「そんなつもりでは……」
そう言いつつも、改めて自分の発言を振り返ると、確かに伝えようとした内容はおおかた同じだった。
恥かしさのあまり、両手で顔を覆い隠したまま項垂れた。
フフッと、公爵様の笑い声が降ってくる。
「君が僕と同じ気持ちでいてくれて嬉しいよ」
耳元で囁かれ、そっと顔を上げる。
心底嬉しそうな様子の公爵様と目が合った。
僅かに視線を逸らし、喉の奥から声を絞り出す。
「……私も……嬉しいです……」
途端、公爵様は綻ぶように笑った。
そして私の額、こめかみ、眉尻、目尻にと、口づけを落としていく。
そんな戯れの最中、ふいに背中と膝裏に手を回され抱きかかえられた。
公爵様はそのままベッドの真ん中へと移動すると、そっと私の体を下ろした。
ふわっと柔らかな枕の感触が熱くなった頭を包み込む。
ひやりとしたのは一瞬で、すぐに私の熱が枕にまで浸透する。
ギシッと、ベッドの軋む音が耳元で聞こえた。
私の体に覆い被さるような体勢で、公爵様が私をジッと見つめていた。
「マリエーヌ……本当に、大丈夫なのか?」
少し掠れた声から、公爵様の緊張が伝わってくる。
私だけが緊張しているのではないと思うと、少しだけ緊張が解れた。
「はい。大丈夫です」
「……そうか。僕は、少し怖いな」
「……怖い?」
「また君を傷つけてしまいそうで……。今は大丈夫でも、もしかしたら途中で昔の僕を思い出させてしまうかもしれないから」
眉間に皺を刻み、悔いるように言う。
私は手を伸ばし、公爵様の頬をそっと撫でた。
「それなら尚更、公爵様が上書きしてください。辛い記憶を、幸せな記憶に」
「……!」
ハッとしたように公爵様は息を呑む。
その瞳から憂いが消えると、恍惚とした眼差しが私を見つめた。
「そうだな……。これ以上ないと思えるほど幸せな記憶にしてみせる」
ゆっくりと、公爵様の顔が近付いてくる。
そっと唇が重なり、私は公爵様に身を委ねた。
ここまで読んで頂きありがとうございました…!
次回のエピローグで物語は完結となります。
最後まで見届けていただけると幸いです…!




