28.夫婦共有の寝室で sideマリエーヌ
その夜、就寝の支度を終えた私は、夫婦共有の寝室で公爵様が来るのを待った。
ベッドの端に腰掛け、公爵様の部屋に繋がる扉を見る。
この寝室は、私の部屋と公爵様の部屋に挟まれており、それぞれの部屋に繋がる扉がある。
公爵様から愛されるようになって以来、私がこの寝室に入ったのはこれで三度目。
一度目は、私から公爵様をお誘いした時。
私がまだ前世の記憶を思い出す前で、公爵様が二重人格を発症していると信じていた頃だった。
今思い返しても、なんて大胆な行動を取ってしまったのだろうと頭を抱えたくなる。
けれど、あの時は私も必死だった。
いつ元の公爵様に戻ってしまうのかと不安ばかりが募って、今だけでも公爵様からの愛をもっと受け止めたいと思っていた。
結局、その日は公爵様と話をして一緒に眠っただけで、それ以上のことは何も起きなかった。
けれど、それがきっかけで二重人格という誤解が解け、公爵様との距離も一気に縮まった。
二度目にこの寝室を訪れたのは、二回目の結婚式を終えた夜。
私の身体をくまなく磨き上げた侍女たちは、自然な流れで私を夫婦共有の寝室へと送り出した。
けれど、その日の私は大勢の人と挨拶を交わし、一日中緊張し続けていたのもあって、心身共に疲れ果てていた。
そんな私を労うように、公爵様は全身のマッサージをしてくれた。
それがとても気持ちよくて、私はあっという間に眠りに落ちていた。
当然、その日もそれ以上のことは何もなかった。
そして三度目となる今日は、公爵様からお誘いがあった。
といっても、ハレイヤ国では一緒に寝るのが普通になっていたから、その流れで『今日は一緒に寝よう』と言ってくれたのだろう。
それに公爵様だって、今日帰ってきたばかりでお疲れのはず。
――そうだわ。今日こそ私が、公爵様のお体をマッサージして労をねぎらうべきよね。
リディアが提案してくれた、私の身体をピカピカに磨き上げて公爵様の疲れを吹き飛ばす――というのは間に合わなかったけれど、マッサージならすぐにでも実行できる。
気合が入ったところで、公爵様の部屋の扉が開いた。
「マリエーヌ、すまない。待たせてしまって」
「いえ。遅くまでお疲れ様でございます」
公爵様は足早にやってくると、何かに気付いたように軽く目を見張った。
「いつもと香りが違う気がするが、何か変えたのだろうか?」
「はい。今日は侍女がお薦めしてくれたヘアオイルを使ってみたのですが、そんなに違いますか?」
「ああ。ずっと君の香りを嗅いできたから違いがよく分かる」
人によっては誤解を生みかねない発言をしながら、公爵様は私の隣に腰掛ける。
オイルを使った時はいい香りだと思っていたけれど、そんなに強い香りではなかったはず。
でも、人一倍優れた嗅覚をもつ公爵様には気になる匂いだったのかもしれない。
公爵様は私の髪を一房指ですくい上げ、口元へと寄せた。
「いつもの香りも好きだが、この香りもいいな。ほのかな甘さのある芳香……君にピッタリだ」
「……ありがとうございます」
公爵様にとって不快な香りでなかったことに胸を撫で下ろす。
けれど次の瞬間、ドキリと心臓が跳ねた。
すぐ目の前で、公爵様が手にしていた私の髪に口づけを落としたのだ。
途端に内側から爆ぜるように全身が熱くなり、心臓が早鐘を打ち始める。
こういった戯れは初めてではないのに、五ヶ月も離れていたせいか、公爵様の挙動にいちいち反応してしまう。
どぎまぎとしていると、ふいに公爵様と目が合った。
疲れなんて微塵も感じさせない、熱を帯びた眼差しに見つめられ、思わず息を呑む。
――あれ……? こういう時、今までどうしていたかしら……?
まるで恋人になる前の男女のような心境で、ぎこちなく公爵様を見つめ返した。
この反応で合っているのかと、誰かに確認したくなる。
視界の端で、公爵様の手から私の髪が滑り落ちるのが見えた。
私の髪を絡め取っていた指が、今度はこちらへ伸びてくる。
骨ばった手と袖から覗く手首がやけに色っぽく見えた。
「マリエーヌ」
甘い呼びかけと共に公爵様の手が頬に触れ、顎へと滑る。
ピクッと体が反応し、思わず身を竦めた。
途端、私を見つめる公爵様の眼差しが柔らかく笑んだ。
「少し、話をしよう」
もしかしたら、私の緊張が伝わったのかもしれない。
公爵様は私の顔から手を離すと、ベッドに座り直した。
しゅるしゅると、全身から力が抜けていく。
どうやら思っていた以上に体が強張っていたらしい。
余裕のない自分が情けない。
「手紙でも少し触れたが、やはり直接話をした方がいいと思っていたんだ。日中はゆっくり話しができなかったからな」
公爵様が帰ってきてから間もなくして、血相を変えたジェイクさんが私の部屋にやってきた。
そして有無を言わさぬ勢いで公爵様を執務室へと連行し、そのまま公爵様は食事の時間まで戻ってこなかった。
聞いた話によると、公爵様が戻ってきたらジェイクさんが長期休暇を取るという約束だったようで、そのためには膨大な量の引継ぎ作業を行わなければならないらしい。
明日には引継ぎ作業を終え、ジェイクさんは念願の長期休暇に入る予定だという。
「まず、皇室の意向により公爵家に課せられていた後継者教育だが、正式に廃止が決まった。今後の後継者教育については僕の方で改めて見直すつもりだ。もちろん、洗脳も毒の訓練もなくす。君が子供と引き離されることもない」
「……良かった」
そうなることは予想していたけれど、こうして公爵様の口から直接伝えられて、ようやく安心できた。
これで、いつか私たちの間に男の子が生まれたとしても、過酷な運命を背負わせてしまうこともなくなった。
「それと帝国騎士団だが、今ではほとんどの騎士が洗脳から解放されている。中には自分が長らく洗脳されていたと知って、騎士団や帝国に対して嫌悪を抱く者もいるが、今のところ暴動が起きるような状況までにはなっていない。だが、これを機に帝国騎士団を去った者も少なくはない」
「そう……ですか……」
騎士団で行われていた洗脳は、前皇帝よりも前の時代から続いてきた悪習だったようで。
前皇帝がいなくなったとはいえ、帝国騎士団そのものに不信感を抱く人が出るのも仕方がないと思う。
「とはいえ、それが本来あるべき姿だ。人が集まる組織である以上、何かしらの反発は必ず生じる。組織が大きければ大きいほど、それは顕著に現れるものだ。それこそ洗脳で無理やり押さえ付けない限りはな」
「……ウィルフォード騎士団の中でも反発があるのですか?」
「そうだな。昔は何かにつけて僕に反発する者もいた」
その答えは意外だった。
帝国騎士団と対峙したウィルフォード騎士団の結束力を目にしたからこそ、とてもそんな風には思えなかったから。
今回、公爵様が起こした謀反に参加したウィルフォード騎士団の人たちは、決して強制されていたわけではない。
あくまでも有志としてこの計画に参加し、私たちと共に戦ってくれたのだ。
彼らの協力がなければ、この計画を成し遂げることはできなかっただろう。
「まあ、それは昔の僕にも問題があったからだと自覚している。それと最近は、そういう声はほとんど聞かなくなった。恐らく、君のおかげだ」
「え?」
唐突に自分の話を盛り込まれ、思わず首を捻った。
そんな私を公爵様は誇らしげに見つめている。
「実は、ウィルフォード騎士団の本部にもマリエーヌ女神像を祀っているんだ。そこで毎朝、誠心誠意祈りを捧げ、己の穢れを削ぎ落としてから訓練に励むよう皆に義務付けている。それを始めた辺りから、不満を口にする者はほとんどいなくなった」
「……それは公爵様がお変わりになられたタイミングと重なっただけで、女神像は関係ないと思うのですが……?」
「いや。やはりマリエーヌ女神像には皆の心を安寧へと導く神聖な力がある。この機に公爵領だけでなく、大陸全土に広く展開する必要がありそうだ」
「そんな必要はございません!」
私がめいっぱい反対すると、公爵様は驚いたように目を瞬かせる。
なぜ賛同を得られなかったのかと不思議そうな面持ちだ。
とりあえず、女神像についてはこれ以上触れず、さりげなく話題を逸らした。
「そういえば、公爵様はまた北部の方へ向かわれることがあるのですか?」
訊きながら、胸の奥がひやりとした。
また離れ離れになる時が来るのかと思うと、再会の喜びが霞んでいくように感じた。
「そうだな。そう遠くないうちに、また向かうことになりそうだ」
やっぱりそうなのだと……覚悟はしていたものの、それでも気持ちは暗くなる。
「だが、次に行くとしたら、その時は君も一緒だ」
「……私も、ですか?」
「社交の場に愛する妻を連れて行くのは当然だ。君が良ければだが」
公爵様は、もともと人の多く集まる場所を好まれない方で、これまでも皇帝の命令でない限り、社交の場へ出席されることはほとんどなかったという。
それほど社交を避けてこられた公爵様の口から『社交の場』という言葉が出てきたということは、これからは積極的にそうした場に足を運ばれるのかもしれない。
「本当に、私が行ってもいいのですか?」
「ああ。君には常に僕の隣にいて欲しい」
「……!」
本当に、どうして公爵様はいつも、私のほしい言葉をくれるのだろう。
今、私が学んでいるものの中には、社交界でのマナーや暗黙のルールなども含まれている。
これまでの私は、社交界とは無縁で過ごしていた。
公爵様が社交を避けられていたというのもあるけれど、私自身がそうした場に相応しい人間とは思えなかった。
けれど、ジーニアス君が皇帝となったことで、いずれ皇宮に招かれる機会があるかもしれない。
その時には、公爵夫人として相応しい振る舞いを身に付け、堂々と公爵様の隣に立てる自分でありたいと思ったのだ。
成り上がりの公爵夫人だと、周囲から厳しい目を向けられたとしても、私自身がそれを跳ね返せるだけの自信を持ちたい。
公爵様の足を引っ張るのではなく、少しでもお役に立てるような働きができるように、と。
漠然とした目標の輪郭がはっきりしたことで、俄然やる気が湧いてくる。
「では、その日のためにも、もっと精進いたします」
「ならば、さっそく明日から僕と踊るダンスの練習をしよう」
そう言うと、公爵様は私に手の平を差し出した。
私が手をのせると、ぎゅっと優しく握られた。
手の平から、公爵様の熱いほどの体温が伝わってくる。
「もう、僕と君が離れ離れになることはない。僕たちの幸せを阻むものもなくなった。今度こそ、僕が君を幸せにする」
いつもなら、その言葉に純粋な喜びを覚えただろう。
けれど今は、幸せ――という言葉に、何かがひっかかった。
「公爵様。幸せって、どういうことなのでしょう……?」




