26.手紙 sideマリエーヌ
昼下がり、公爵邸の中庭に設えられたガゼボの中で、私とリディアはベンチに並んで座っていた。
「今日も平和ですねぇ……」
ぼんやりと遠くの空を眺めながら、リディアはしみじみと言う。
通り風が木々を揺らし、葉が擦れ合う音がさざ波のように通り過ぎていった。
少し遅れて、私たちの方にも風が流れてくる。
ほのかに温かい、心地良い風。
眠気を催しそうなほど、ゆったりとした時間に身を任せていると、慌ただしかった日々が霞んでいく。
「こうしていると、この数ヶ月に起きたこと全てが夢の出来事のように思えてきますね……」
「そうね……。なんだかとても遠い日のように思えるわ」
春の気配を含んだ風を浴びながら瞼を閉じ、私はここへ戻ってきた時のことを思い出していた。
私が公爵邸へ帰還したその日、すでに戻ってきていたリディアと侍女たちが、私とガイゼンさんを乗せた馬車を出迎えてくれた。
彼女たちは涙を浮かべ、私の無事を喜んでくれた。
リディアにいたっては私の体にしがみつきながら泣きじゃくっているほどで。
ガイゼンさんは何も言わず、涙を流しながら再会を喜び合う私たちの姿をただ静かに見守ってくれていた。
少し落ち着いたところで、私はレイモンド様から預かっていた手紙をリディアに渡した。
彼女はその場で封を開け、中の手紙を読み始めた。
それを読み終えると、リディアはそっと手紙を胸に抱き、静かに泣いていた。
その姿を見つめながら、どうか一日でも早く二人が再会できますようにと、心の中で強く願った。
公爵邸にはエマさんと子供たちも滞在していると聞き、私はさっそくエマさんたちのいる客室を訪ねた。
扉の先には、シェリーちゃんを腕に抱くジェイクさんの姿があった。
ジェイクさんは、部屋を訪れた私に気付かないほど、シェリーちゃんに夢中のようで、目元を緩ませながらシェリーちゃんをあやす父親の姿に、マグナス君とランディ君が若干引いていた。
どうやらジェイクさんは、家庭では厳格な父親として振舞ってきたらしく、娘に骨抜きにされている父親の姿は、二人にとって相当な衝撃だったらしい。
エマさんと話をしていると、ようやく私に気付いたジェイクさんがシェリーちゃんをランディ君に預けて私の方へとやってきた。
「マリエーヌ様、お帰りなさいませ。ご無事で何よりです」
「ジェイクさんこそ、本当にご無事で安心しました。それと、お疲れなのに公爵邸のことまで色々と手配してくださり、本当にありがとうございます」
「とんでもございません。礼を申し上げなければならないのは私のほうです。ハレイヤ国でのことは妻から聞いております。その節は、私の家族を守っていただき、ありがとうございました。それと……息子たちが御迷惑をおかけしたようで、大変申し訳ありませんでした。私からもよく言い聞かせておきますので」
「いえ。ランディ君とマグナス君も、本当によく頑張ってくれたのですよ」
「ええ。それは一目見て分かりました。二人とも、以前とは目つきが違うので……。少し見ないうちにずいぶんと逞しくなったものだと、正直驚きました」
「私もです。たった数ヶ月一緒に暮らしていただけなのに……子供の成長って、本当に早いものなのですね」
「おっしゃる通りです。シェリーもきっと、あっという間に大きくなってしまうのでしょうね。いずれ私の手を離れていく日が来るのだと思うと……今の愛らしい姿を目に焼き付けておきたくなります」
しみじみとそう言いながら、ジェイクさんはランディ君の腕に抱かれているシェリーちゃんへと視線を向ける。
その眼差しがどこか寂しそうに見えるのは、将来、自分のもとから離れていくシェリーちゃんの姿を想像しているからだろうか。
そんな夫の様子に、「まあ……本当に仕方のない人ですね」と、エマさんは呆れるように笑った。
けれど、エマさん自身もまた、ちょっとだけ涙ぐんでいるように見えた。
ようやく戻ってきた家族の時間を、これ以上邪魔してはいけないと、私は挨拶もそこそこに部屋を後にした。
それから二日後、エマさんと子供たちは、本来暮らしていた屋敷へ戻ることになった。
「あまり長居をしてしまうと、夫の仕事に支障をきたしてしまいそうなので……」
困ったようにそう言うエマさんの背後では、仕事を抜け出してきたらしいジェイクさんが、シェリーちゃんを抱いて幸せそうに頬を緩めていた。
その姿はまさしく、仕事を抜け出して私に会いにきたアレクシア様の姿を彷彿とさせるもので、私はただ苦笑いを返すことしかできなかった。
私が目を開けると、隣でウトウトしていたリディアが「はっ!」と目を見開いた。
「申し訳ありません! 今、寝ておりました!」
ぴしゃりと背筋を伸ばしながら正直に申告するリディアに、私は思わず笑ってしまう。
「寝ていても良かったのに。もうすぐ休暇中の皆が戻ってくるから、そしたら今度はリディアがまとまった休暇を取るといいわ」
「いえ、私は大丈夫です。マリエーヌ様の専属侍女の座を誰にも譲るつもりはございませんので」
胸を張りながら、リディアはきっぱりと言い切った。
私と一緒にハレイヤ国に滞在していた侍女たちには、一ヶ月の休暇を取ってもらった。
自由に外へ出ることもままならない環境の中で、彼女たちは半年もの間、普段以上の働きをしてくれていたのだ。
せめてもの労いとして、休暇中も給与はいつも通り支払うことを伝えると、彼女たちは歓喜の声を上げて喜んでいた。
けれど、リディアだけは長期休暇を取るのを辞退していた。
休みを取るよりも、今は私との時間を長く過ごしたいのだと言ってくれた。
一ヶ月が経ち、心境に変化があったかもしれないと思って訊いてみたけれど、まだ休暇を取るつもりはないらしい。
「あ……」と、リディアは何かを思い出したかのように、小さな呟きを漏らす。
そして少し恥ずかしがるように、視線を足元に落とした。
「ですが……もしかしたら、そう遠くないうちに少し長めの休暇をいただくかもしれません」
いじらしい姿を見せる彼女に、私は聞かずにはいられなかった。
「……もしかして、レイモンド様に会いに行くの?」
「え⁉ あ……ま、まだ、どうなるかは分かりませんが……その……いつか向こうのお屋敷に招きたいとか……そういうのを匂わせてきたので……一応、私も考えておこうと思いまして……」
しどろもどろになりつつも、その様子はどこか嬉しそうにも見える。
そういえば最近、またレイモンド様からリディア宛てのお手紙が届いていた。
「あっ……もしよろしければ、その時はマリエーヌ様もご一緒に……」
「あら、私は遠慮しておくわ。代わりに素敵なお土産話を期待しているわね」
「そ、それは……期待しないでください……」
ぷしゅーっと蒸気を発しそうなほど、彼女のお顔は耳の先まで真っ赤に染まっている。
今の愛らしい彼女の姿を、ぜひレイモンド様にも見てほしいと思う。
リディアはパタパタとお顔を手で仰ぎながら、「そ、それよりも!」と、話題を強引に切り替えた。
「びっくりしましたね。まさか前の皇帝が、逃走中に滑落事故に遭って亡くなっていたなんて……」
「……ええ。本当に、驚いたわ」
その知らせが私のもとに届いたのは、昨日のことだった。
皇宮から西へ向かった先にある人里離れた山中で、土砂に埋もれて大破した馬車が発見された。
その車内で亡くなっていた人物が、行方を晦ましていた前皇帝だったのだという。
そこは人の往来がほとんどない場所で、長く雨が続いたのもあり、土砂崩れを警戒した地元の住人たちはしばらく近付かないようにしていたという。
そういう事情も重なって、馬車が発見されたのは、実際に事故が起きた日から相当な日数が経っていたという。
「あれだけの悪行を重ねてきた人ですから、同情する余地もありませんけどね。『神の裁きだ』『因果応報だ』なんて言われて、悲しんでいる人はいませんよ。まあ、自業自得ってことですよね」
自分の言葉に納得するように、リディアは頷きを繰り返す。
今もなお、前皇帝が行ってきた悪行についてのゴシップは後を絶たない。
長らく迷宮入りしていた事件を引っ張りだし、実は裏で前皇帝が関与していたなどと、真実かも分からない内容を新事実と謳った記事が新聞を飾っている。
前皇帝の滑落事故についても、きっと人々の娯楽の一部となって消化されていくのだろう。
リディアと会話を交わしながら、私は目の前の景色をぼんやりと眺めた。
静かで、温かくて、争いなんて無縁のような、平和な光景。
だけど、今もどこかで血は流れている。
いつだって、私たちの目に見えないところで、悲惨な争いは起きているのだ。
さっきまで温かいと思っていた風が、なぜか今はひどく冷たく感じた。
中庭から戻り、廊下を歩いていると、私を探していたらしい侍女から声を掛けられた。
「マリエーヌ様。公爵様からお手紙が届きました」
侍女にお礼を告げて自室に戻ると、私はさっそく受け取った封筒を開封する。
中から取り出した手紙の束は、五枚にも及んだ。
『親愛なるマリエーヌへ
おはよう、マリエーヌ。昨日はよく眠れただろうか。
こちらはしばらく雨季が続いていたが、昨夜は久しく雲が晴れ、満開の星空を見ることができた。夜空に煌めく星屑を眺めていると、君と一緒に過ごした流星群の夜を思い出した。君と会うことができない今だけは、ルヴィナに寄り添い続けるアルタスが羨ましい』
ルヴィナという星を守るように、すぐ傍で周り続けるアルタスという星。
その様子から、アルタスはルヴィナの守護者とも言われていて、以前、公爵様は私をルヴィナと見立て、アルタスが自分だと比喩したことがあった。
私もアレクシア様と一緒に見た星空を思い出し、胸が温かくなるほどの懐かしさと、一抹の寂しさを覚える。
ほんの数ヶ月前の出来事なのに、はるか遠い昔のように思えた。
アレクシア様は、私への手紙を夜寝る前に書いているらしく、手紙にはその日に起きた出来事が細かく書き綴られている。
今日届いた手紙を書いた日は移動日だったようで、馬車から見た景色だったり、途中で立ち寄った食事所で食べた料理のことや、宿の部屋の内装についても綴られていた。
アレクシア様からの手紙は、読んでいるだけでも色々と想像が膨らんで、私までちょっとした観光気分が味わえる。
『ここに君はいないのに、何を目にしても君を思い出す。それを嬉しいと思うのに、同時に寂しくもあり、切なさに胸が苦しくなる。せめて夢の中でも君に会うことができたなら、この寂寞たる思いが少しは晴れるのだろうか……。今はただ、君の温もりが恋しい。君に会いたくて堪らない』
――私もです、アレクシア様。
そう心の中で囁く。
手紙を読み終えた私は手紙を折りたたんで封筒の中に収めると、机の引き出しから一枚の便箋を取り出した。
羽ペンを手に取り、卓上の便箋をしばらく眺めた後、『親愛なるアレクシア様へ』とペンを走らせた。
その後も、アレクシア様からの手紙は途切れることなく毎日のように届いた。
私はアレクシア様が留守にしている間、公爵夫人としての教養を少しでも身に付けるべく、礼儀作法、語学、地理、歴史学など、それぞれ専門の講師の方をお招きして基礎から学んだ。
独学で得た知識よりもずっと深い話を聞けて、一緒に話を聞いていたリディアも興味津々に手を挙げて質問していた。
そんな学びの時間はとても楽しくて、新しい知識を得るたびに自分も少しずつ成長しているような気がして、充足感に満たされた。
それから少しでも体力をつけるべく、街の方へも積極的に足を伸ばした。
私が外へ出る時は、決まってガイゼンさんが護衛として同行してくれた。
街の人たちは私に気付くと、「マリエーヌ様」と声を掛けてくれて、今の流行だったり、お薦めのお店を教えてくれたりと、ガイゼンさんが目を光らせる中でも気さくに話をしてくれた。
変わらない街並みを見ていると、アレクシア様との街デートを思い出す。
その時の記憶を一つ一つ拾いながら、辿り着いた広場には撤去したと言われていたはずの女神像が祀られていた。
ちょっとした眩暈を覚えたけれど、それを見ていると、ようやく日常が戻ってきたのだとひしひしと感じた。
更に月日は流れ、今日もアレクシア様からの手紙が届いた。
そこに綴られていた最後の文章に、思わず目が釘付けになった。
『ようやく帰る目処が立ちそうだ。マリエーヌ。もうすぐ君に会える』
――もうすぐ、アレクシア様に会える……?
期待に胸が膨らむのを感じながら、私はその文面を何度も読み返した。
アレクシア様と離れてから、すでに五ヶ月が経っていた。




