23.この手にあるもの sideアレディオス皇帝
ガタンッと、何かが車輪にぶつかる音と同時に室内が跳ねた。
危うく座面から投げ出されそうになったところを、窓枠にしがみついてなんとか耐えた。
こんなに揺れのひどい馬車は初めてだ。
それに加え、一人乗るのがやっとという狭い室内は、鼻を突くような酷い悪臭で満たされている。
形だけの窓はあるが、開けられるタイプの窓ではない。
壁には誰かが引っ掻いたような傷があり、木が剥き出しの座面には血痕のような汚れまである。
まるで罪人でも運んでいたかのような、ひどい内装だ。
馬車を操縦しているのは、私を皇宮から連れ出した近衛騎士だ。
あの男に担がれながら、激しい揺れに目を回しているうちに、気付けばこの室内に押し込められていた。
近衛騎士は、私に行き先を告げられることなく勝手に馬車を出発させた。
この上なく無礼な男ではあるが、私を皇宮から連れ出した以上、何か挽回する策があるのだろう。
文句の一つでも言ってやりたいが、今は奴の言う通りに動くのが確実だ。
――どいつもこいつも、舐めた真似をしおって……一人残らず殺してやる!
増幅する怒りが頭の中をひしめき、獣のような唸り声が喉を鳴らした。
脳内で一人一人八つ裂きにする姿を浮かべながら溜飲を下げていると、馬車の動きが止まった。
扉が開き、近衛騎士が姿を覗かせた。
「皇帝陛下。この馬車は追手に見られているので、ここで別の馬車に乗り換えましょう」
「……ああ。分かった」
私が八つ裂きにしたい相手の中にはこの男も含まれているが、今は素直に応じる。
ゆっくりと腰を上げると、軽い眩暈を覚えた。
それに少し気持ち悪い。
片手で口元を押さえながら馬車から降りる。
外は不気味なほど薄暗く、ほとんど何も見えない。
隣で近衛騎士がランプに火を灯し、周囲が淡い光に照らし出される。
見渡す限り、木が生い茂るばかりで、他には何もない。
「この先に馬車を待たせております。行きましょう」
それだけ言うと、近衛騎士は私に背を向け、スタスタと奥の方へ歩いていく。
「おい、勝手に行くな!」
その呼び掛けに応じる様子もなく、男の背中は遠くなっていく。
灯りが遠のき、再び闇が背後に迫る。
「くそ!」
仕方なく大股で歩きながら男の姿を追いかける。
それでも男との距離が少しずつ離されていく。
遠のいていく光を見失わないよう、必死に足を動かした。
息が切れ、体が重たい。
動いて体温が上がったからか、体も熱くて堪らない。
身に付けていた重い外套、役に立たない装飾品を体から引き剥がし、地に叩き付けるようにして捨てていく。
それにしても、替えの馬車まで用意しているとは、ずいぶんと準備がいい……。
――……いや……さすがによすぎるのではないか……?
はたと足を止めた。
そもそも、替えの馬車を用意していること自体がおかしい。
それではまるで、最初から私がここへ来ることを知っていたみたいではないか……。
「いかがなさいましたか?」
先へ進んでいたはずの近衛騎士が、奥から戻ってくる。
先ほどまで必死に追いかけていたはずの姿が、今はひどく不気味に思えた。
少しずつ後ずさりながら、男に問うた。
「そなた……いつ、替えの馬車を用意していたのだ……?」
「……いつ、と言われましても……困りましたね」
近衛騎士は、ガチャリと音を立てながら一度首を傾げると、再びガチャリと音を立てて首を元の位置に戻す。
「替えの馬車なんて存在しませんし」
「……は?」
あまりにも軽い口調で告げられた重大な告白に、間の抜けた声が出た。
――なにを……言っておるのだ?
「そなた……さっき、馬車を待たせておると……」
「ああ。それ嘘です」
まるで悪戯の成功を報告するように、近衛騎士は軽く笑いながらあっさりと告げた。
「嘘……だと……?」
信じられない。
とんでもない侮辱だ。
しかし、この男に対する怒りよりも戸惑いの方が先立った。
「なぜ、そんな嘘を――」
言葉が途切れた。
問うまでもない。
答えなんて、一つしかないのだから。
「まさか……」
ゾッと背筋が凍り、血の気が引いていく。
今すぐにでも、目の前の男から逃げなければならない。
そう本能が訴えかけてくるも、足に力が入らない。
ズズズッと足を引きずりながら、亀のような歩みで後ろへと後ずさる。
この男は、最初から私の味方ではなかったのだ。
私を守ったのも、私を信頼させてここまで連れてくるための、ただの演技だった。
そう考えると、全てが腑に落ちる。
アレクシアが、あっさりと私を逃がしたのも、この男の正体を知っていたからだ。
「お前は誰だ⁉」
「私が名乗ったところで、どうせあなたの知るところではありません。自分の近衛騎士の顔も名前も憶えるつもりがないのですから」
そう言いながらも、被っていた兜を外して放り投げる。
男は肩まで伸びた漆黒の髪を軽く振り、冷めた視線をこちらによこす。
その顔を食い入るように見たものの、特に覚えはない。
「ほら。分からないでしょう?」
わざとらしい嘲笑を見せつけながら、男は私を見下ろしている。
奴が何者なのかは分からないが、こいつもアレクシア側の人間で間違いないのだろう。
「お前は……いつから近衛騎士として紛れ込んでいた⁉」
「紛れ込んだなんて、失礼な言い方ですね。私が騎士団に入団したのは一ヶ月ほど前。それから二週間ほどして、近衛騎士選抜の試合に参加し、近衛騎士の座を勝ち取りました。それにしても、帝国騎士団の質もずいぶんと落ちましたね。こんな十年以上もブランクのある人間にあっさりと首位を奪われてしまうとは……」
近衛騎士の選抜は、月に一度行われる。
私が、騎士団の中で最も強い人間を近衛騎士にすると言ったからだ。
だが、私は近衛騎士の顔を知らない。
見たくもなかった。
私よりも若く、力があり、見目が良い人間を見ると、どうしても老い衰えていく自分と比べてしまうからだ。
だから帝国騎士団の人間には兜の常用を義務付けていた。
それを逆手に取られてしまうとは……。
「しかし、お前だって騎士団の洗脳を受けていたはずだ!」
「あんなもの、からくりが分かっていればいくらでも対策はできますよ。そんな事よりも……」
男は勝手に話を切り替えると、両手を左右に広げて薄ら笑みを浮かべた。
「この場所、見覚えがありませんか?」
――何を言っておるのだ……?
訳が分からないまま、周囲を見回す。
しかし、見渡す限り木々に囲まれており、ここがどこなのか検討もつかない。
馬車で移動している間も、窓の外を見る余裕などなかった。
いや、どちらにしろこんな夜道では向かう先など分からなかっただろう。
「知らぬ……。こんな場所、私は――」
ふいに、いつの日かの記憶が頭を過る。
一度だけ、あった。こんな風に木が生い茂る場所を訪れたことが。
忘れもしない。
あの男を殺した時に……。
「まさか……」
サーッと血の気が引いていく。
「おや。やっとお気づきになられましたか?」
満足げにそう言うと、男は腰に帯びていた剣を引き抜き、私の目の前に突き立てた。
「わ……私を殺すのか⁉」
「殺す……?」
男はとぼけるように首を傾げると、呆れたような顔となり、首を横に振る。
「いいえ。あなたは皇宮から逃走中、不幸にも馬車の滑落事故に見舞われて亡くなるのです」
「なっ……」
思わず絶句する私に向けて、男は不気味に目を細めた。
「そんな偽装、できるはずがない、と。そうお考えですか? おかしいですねぇ。あなたが一番よくご存知ではありませんか。それがまかり通ってしまうのだと」
そうだ。
私は実際に、殺害したアレクセイとその妻の遺体を、あたかも馬車の事故により死亡したように偽装した。
剣による刺し傷も、矢に貫かれていた箇所も、体の損傷を激しくすることによって分からないようにした。
――まさか……あの時と同じように、私をここで殺害し、滑落事故に見立てようというのか⁉
男はいかにも友好的な笑みをこちらに見せる。
「安心してください。顔には傷をつけません。ちゃんと身元が分かる状態に留めておけと念を押されましたので。それに、不審な切り傷が残ってしまうと、あとあと面倒なのですよ」
まるで、顔以外であれば好きに傷つけてもいい、というような発言に、体が恐怖に慄く。
――いや……まだだ。まだ何か……何かあるはずだ。この男をどうにか丸め込むことができれば……。
私は、この大陸全てを手中に収めたのだ。
交渉材料ならいくらでもある。
自分から何かを差し出すなどあり得ないと思っていたが、命には代えられない。
私が身に付ける装飾品は、一つだけでも豪邸が立つほどの価値がある。
――まずは手始めにそれを渡せば……。
体に触れ、装飾品がある場所を探る……が……ない。
身に付けていた装飾品が一つもなくなっている。
……いや……なくなったのではない。
私が、不要だと捨てたのだ。
「あ……」
乾いた声が口から漏れる。
――ない……ない……なにもない‼
全てを手にしていたはずなのに、今の私の手の中には何一つとしてない。
頭上に伸ばした手が空を切る。
ない。
私の権威を象徴するものが、なくなっている……!
――では、今の私は……いったい……なんだ……?
「あ……あ……」
ズルズルと、足を引きずりながら後ろへ後ずさる。
何かが踵にぶつかり、バランスを崩した体が腰から倒れた。
強い衝撃を受けた腰がじんと痺れる。
痛い……痛い……。
見上げれば、薄ら笑いを浮かべる男が私を見下ろしている。
私はいつだって、見下ろす側だった。
見上げたことなどない。
私が頂点なのだから。
こんな屈辱は初めてだ。
それでも、今は怒りの感情すら湧いてこない。
今の私の頭を埋め尽くすのは、生への渇望。
「たすけてくれ……」
かすれきった声が、かろうじて出た。
「え? 何かおっしゃいました?」
男はキョトンとした顔で小首を傾げる。
今度は腹に力を込め、できる限り声を張り上げた。
「たすけてくれ!」
その言葉を、いったいどれだけの人間の口から聞いただろうか。
その訴えを、私は一度も聞き入れたことがない。
完全に無駄なあがき。
そう頭では理解しているのに、それでも死にたくないと訴える本能が必死に声を上げる。
しかし男はまるで言葉が通じていないかのように、不気味な微笑を浮かべるだけだ。
役に立たない自尊心も外聞も、何もかもをかなぐり捨て、私はひたすらに懇願した。
「たのむ……私を助けてくれ……」
熱を帯びる瞳から、生温かい液体がとめどなく流れ落ちる。
崇高な存在として崇められていた自分にも、下々の人間と同様に、そんな機能が備わっていたことを初めて知った。
顔に力が入らない。
顔の筋肉がだらしなく下へ伸びきっているのが分かる。
脳裏に過るのは、絶望のあまり醜くひしゃげた顔面の数々。
貴族としての誇りも見栄も全てを捨て払い、必死に命乞いをしてくる者たちの、なんとも滑稽な有り様。
今の私も、あの時の彼らと同じ顔をしているのだろうか……?
それでも縋りつくように手を伸ばしたが、男の体に届かず、バランスを崩した私は前のめりになりながら倒れた。
固い地面に叩き付けられた顔面が痛い。
唇が切れ、血の味が口内に広がる。
目から、鼻から、口から、だらだらと垂れ流しになる汁で顔がぐしゃぐしゃに濡れている。
嗚咽が何度も喉を震わせた。
なんとも情けない醜悪を晒す私を嘲笑うように、失笑が上空から降ってくる。
振り仰いだ私の視界に映ったのは、月明りに照らされた、歪な笑みを浮かべる死神。
「実に惨めな姿だな。皇帝」
身の凍るような悍ましさと冷笑が混じった声が、かつて自分が殺した男の声と重なった。




