14.もう一人の自分 sideアレクシア
目を開けると、神妙な面持ちのマリエーヌが僕を見つめていた。
「マリエーヌ……」
呼び掛けると、新緑色の瞳が大きく揺らいだ。
潤んだ瞳を見つめ返しながら、僕は彼女に微笑んだ。
「ありがとう。もう大丈夫だ」
「アレクシア様……良かった……」
マリエーヌの瞳から零れ落ちた大粒の雫が、僕の頬を濡らした。
僕の体を抱きしめる手が僅かに震えている。
僕は起き上がると、彼女の頬を伝う涙を指先で拭った。
「すまない、マリエーヌ。君に怖い思いをさせてしまった。それに、また僕は君を傷つけて……」
「謝らないでください。私はどこも傷つけられていませんから。アレクシア様が戻ってきてくれて嬉しいです」
こんな時にも健気に微笑むマリエーヌの姿に胸が締め付けられる。
傷ついていないはずがない。
今まで僕は、マリエーヌのことを完全に忘れていた。
更には皇帝に命令されるまま、彼女を殺そうとしていたのだ。
完全に自我を失っていたとはいえ、その時の記憶はうっすらと残っている。
自分がマリエーヌに対してどのような態度を取り、どういう言葉を投げかけたのかも。
――最悪だ……もう二度と傷つけないと誓ったのに……。
悔やんでも悔やみきれない。
本当に、ひどいことをしてしまった。
それなのに、マリエーヌは僕を恐れることなく、洗脳による支配に苦しむ僕に寄り添ってくれた。
自分を殺そうとする僕を、優しく抱きしめてくれたのだ。
どんなに苦しくて、辛くても、誰からも救いの手を差し伸べられることのなかった昔の僕は、そんな彼女の行動に衝撃を受けた。
それと同時に、彼女の香りが、眠っていた本来の僕の記憶を呼び起こしたのだろう。
空虚だった僕の心は幸せな記憶に満たされ、人の優しさと温もりを知り、愛に触れることができた。
マリエーヌは、今の僕だけでなく、昔の僕のことまで救ってくれたのだ。
「信じられぬ……。まさか……あの洗脳まで打ち破ったというのか……?」
驚愕の表情を浮かべる皇帝は、半ば放心状態となっている。
大きく見開かれた瞳の矛先が、僕からマリエーヌへと移動する。
途端に憎悪を剥き出しにするように、赤い瞳が吊り上がった。
「そなた……アレクシアに何をした?」
「……え?」
怒気を孕んだ声色に、マリエーヌは僅かに顔を強張らせる。
だが、問われた意味がよく分からなかったのだろう。
目を瞬かせながら返答に困っている。
皇帝は小さく失笑する。
「最初からおかしいと思っておった。アレクシアが誰かを愛するはずがないと。そうならぬよう、父親以上に厳しく躾てきたのだ。与える毒を増やすことによって、より強い洗脳の支配も植え付けた。当然、命の保証はなかったが、死んでも構わなかった。私の命令に従わぬ人間など不要であるからな」
マリエーヌが静かに息を呑む。
僕を抱きしめる彼女の手に力が入るのが分かった。
「だが、アレクシアは死ななかった。致死量を超える毒にも耐えぬき、生きて教育を終えたのだ。初めてアレクシアと対面した時のことはよく覚えておる。感情のない瞳は、生きている人間のものとは思えぬほど冷淡なものであった。血も涙もない冷酷な人間。それが、唯一私の前でのみ跪き、従順になるのだ。まさに私が求めていた殺戮人間が完成した瞬間であった。そんな人間が、誰かを愛せるはずがないのだ」
滔々と語っていた皇帝は一度言葉を切ると、深く息を吐き出した。
「しかし、それもようやく腑に落ちた。そなたも私と同様に、アレクシアを洗脳して操っていたのだな」
「……洗脳?」
マリエーヌが眉を顰める。
「そうだ。そうに違いない。でなければ、十年も費やして植え付けた洗脳がそう易々と解けるはずがなかろう。いったいどのような卑劣な手を使ってアレクシアを洗脳したのだ? その身体でも使ったのか? さも純粋無垢といった振る舞いをしておるが、ずいぶんと下賤な本性を隠しておるのだな!」
「なっ……」
「私はそんなものに興味はないわ!」
僕が反論するよりも先に、凛としたマリエーヌの声が響き渡った。
力強い眼光を放つ新緑色の瞳は、真っすぐ皇帝へと向けられている。
「私たちの関係に、洗脳なんてものは存在しないわ。私たちは、どちらかが優位に立つような関係でもない。互いに相手のことを思いやり、信頼し合っている。ただそれだけのことよ」
「それがおかしいというのだ! 相手を思いやる? 信頼し合うだと? 冷酷無慈悲と恐れられた男が、どうやったら人を信じられるようになるというのだ!」
「私とアレクシア様は、時間をかけながら少しずつお互いのことを知っていったの。視線を交わし、対話を重ねながら、関係を築いた。もちろん、最初から全てがうまくいったわけじゃない。気持ちをうまく伝えられない時もあったし、相手の言葉を信じられないこともあった。けれど、それでも自分を信じてほしくて、相手を信じたくて、私たちは互いに歩み寄ることをやめなかった」
純真な眼差しにしばし見惚れながら、僕はマリエーヌの言葉を聞いていた。
最初に僕に歩み寄ってくれたのは、マリエーヌだった。
前世で、言葉も交わせない僕に、マリエーヌは優しく声を掛け、僕の心の声を聞いてくれていた。
今世では、僕の方からマリエーヌに歩み寄った。
急に態度が一変した僕にマリエーヌは戸惑い、二重人格だと誤解されていた時もあったが、それでも僕は自分の気持ちをマリエーヌに伝え続けた。
その時々の境遇や過程に違いはあれど、前世でも、今世でも、僕たちはそうやって少しずつ信頼関係を築いてきた。
それが実を結び、強制的に植え付けられた洗脳よりも強固な絆として、今も僕たちの心を繋いでいる。
「さっきから綺麗ごとばかりぬかしおって……。それがそなたのやり方なのだな? いかにも聖人のような言葉を囁きながら、相手の心の隙に付け込もうと……」
相変わらず、皇帝は全く筋違いな自論を展開している。
その様子をしばらく見つめていたマリエーヌは、やがて諦めるように肩を落とした。
「洗脳することでしか相手を信じられないあなたには、きっと何を言っても理解できないのでしょうね」
「……なんだと?」
唸るような皇帝の声にも、マリエーヌは少しも動じない。
「あなたは、相手と信頼関係を築くことに自信がないんだわ。だから洗脳した相手でないと信用することができない。あなたはとても臆病な人間だわ」
「なっ……無礼者が……! 今すぐそなたを殺してやりたいが、そなたからはアレクシアを洗脳した方法聞き出さねばならぬ。その女を捕えよ!」
待機状態だった騎士が一斉にこちらへ飛びかかる。
僕はすぐさまマリエーヌを抱きかかえ、壁際へと飛び退いた。
レイモンドを肩に抱えたガイゼンが僕に追随する。
「お、おい! 僕も少しは戦え――」
「その必要はありません」
レイモンドの抗議の声を一蹴すると、ガイゼンはレイモンドを肩から降ろし、背後に迫った攻撃を振り向きざまに弾き返す。
「それと、今日はあなたにお貸しできる剣はありません」
そう告げると、ガイゼンは左手でもう一つの剣を引き抜いた。
「え……?」と、マリエーヌが驚きの声を上げる。
「ガイゼンさん、両手で剣を扱えるのですか?」
「ああ。もともとガイゼンは左利きだからな。剣を握ることさえできればそれほど難しいものではない」
三年前、ガイゼンは帝国軍の騎士として赴いた戦地で負傷し、左手の半分近くを失った。
その傷が原因となり、ガイゼンは帝国騎士団から追放された。
それでもガイゼンは再び騎士として返り咲くため、右手だけでも戦えるよう鍛錬を積み重ねた。
その結果、右手一本でもウィルフォード騎士団の騎士と互角に渡り合えるほどの力を身に付けた。
更にはいつか再び、左手でも剣を握れる日を信じ、辛抱強くリハビリを続けていた。
だが、ガイゼンの左手は心理的要因による突発的な痛み――いわゆる幻痛に襲われることがあり、実戦で使うことは避けていた。
それが最近になって、その幻痛がなくなったというのだ。
加えてあれほど左手の傷に強いコンプレックスを抱いていた男が、『今はこの傷に感謝しているくらいです。おかげで素晴らしい主君たちと出会うことができました』と、誇らしげに語っていたのだ。
――ガイゼンをマリエーヌの護衛騎士にして正解だったな。
今のガイゼンは、帝国軍に所属していた時よりもずっと強い。
肉体的にも、精神的にもだ。
全てを失い、不幸のどん底に叩き落された人間が、そこから這い上がるために己の力を研磨し続けてきたのだ。
血の滲むような、などという生温い努力ではない。
まさに死に物狂いで叩き上げた実力は、絶望の淵を知る人間だけが辿り着ける領域にまで達している。
「アレクシア! 騙されるでない! そなたはその女に洗脳されているだけだ!」
「マリエーヌはそんな女性じゃない」
「だからそなたは騙されていると言っておるのだ!」
いったいどの口が言うのか。
自分のことは棚に上げてうるさく騒ぎ立てる男に、もはや呆れるしかない。
「騙されてなどいない。マリエーヌが、いかに心が清らかで崇高な女性かは僕が一番よく知っている」
それでも皇帝は全く聞く耳を持たず、今も何か喚いている。
こうして改めて皇帝の言動を見ていると、嫌でも思い知らされる。
――この男は、かつての僕だ。
マリエーヌと出会わなかった場合に行き着いていたであろう、僕の末路。
誰のことも信じられず、理解しようともせず、自分の目的のためだけに利用してきた。
不要と判断した人間はさっさと切り捨て、不快なものは徹底的に排除した。
そうして自分だけに都合の良い世界を作り出した。
まるで無機質な盤面に人の形を模した冷たい駒を配置していくように……。
対戦相手のいない盤上で、僕はひたすらに駒を動かし続けていた。
目的も分からないまま、同じことを繰り返すだけの日々。
当然、その世界には喜びも充実感も何もない。
だが、それが普通だと思っていた。
そうした生き方しか僕は知らなかったから。
「……なんだ? その目は……」
皇帝が顔をしかめて僕を見る。
特に意識はしていなかったが、どうやら僕はよほど不敬な眼差しを皇帝に向けているらしい。
「私を馬鹿にしておるのか⁉」
「……いや……似ていると思っただけだ」
皇帝の姿を通して、昔の自分を重ねていた。
どれほど多くの人や物に恵まれていたとしても、心は何も満たされず、常に孤独を抱えていた。
その孤独を紛らわせるため、更に多くの物を得ようとした。
それを手に入れたところで、何も満たされることはないというのに……。
昔の自分の面影を見つめながら、僕は問いかけた。
「お前は今まで、自分のために行動した人間に対して、少しでも感謝の気持ちを向けたことがあるか?」
皇帝は訝しげに首を傾げ、気だるそうに答えた。
「そなたまで、いきなり何を言い出すのだ? この帝国の君主である私のために、皆が尽くすのは当然であろう」
予想通りすぎる回答に、思わず失笑が零れる。
「何を笑っておる? そなたも私と同じであろう?」
「ああ、そうだ。だからよく分かる。昔の自分と同じように、お前がどれほど憐れな人間か」
「……なんだと?」
あからさまに皇帝の声色が変わった。
剣呑な空気が漂うのを無視して、僕は続ける。
「何を与えられようとも、何を手に入れようとも、お前自身は決して満たされない。どれだけ周りの人間がお前に心を砕こうとも、お前はそれに気付けない。お前自身が、誰かのために心を砕こうともしないのだから。相手から搾取するだけで、相手のためを思い行動することを知らないお前を、心から慕う人間もいない。洗脳による支配でしか人と繋がることのできないお前の心は、決して誰とも繋がれない」
皇帝の瞳が、眼球が飛び出すほど見開かれる。
「だからお前は、死ぬまで孤独のままだ」
刹那、皇帝の顔から一切の感情が消え、漆黒の影が落ちた。
「黙れ……」
威嚇するような声と共に、青筋を立てた顔面が憤怒の表情となった。
「私は、何もかもを手にしている! 私が孤独だと? そんなはずがないであろう! ここにいる騎士も、騎士団も、この城も、この帝国も、大陸も……全てが私のモノだ! 私が手に入れたのだ!」
一息で言い切ると、皇帝は肩を上下させながら荒い息を繰り返す。
その表情には、全てを手にしたと豪語する男の余裕は見られない。
据わった目つきは、今も獲物を探し続けているかのように獰猛な眼光を放っている。
僕は寄り添ってくれているマリエーヌを抱き寄せ、飢えた獣に向けて余裕の笑みを見せた。
「お前も、僕と同じ経験をすれば、人の愛を理解できたかもしれないな」
ヒュッと、皇帝の喉が鳴った。
肘掛けに置かれている拳が小刻みに震えている。
噛みしめる歯を剥き出しにしながら、皇帝は唸るような声を出す。
「もうよい……。お前の絶望する顔も、全てどうでもいい。今すぐ私の前から消えろ!」
皇帝の視線が、僕たちを取り囲む騎士へと向けられる。
「お前たち! その男を――アレクセイを今すぐ殺せ!」




