13.見知らぬ女 sideアレクシア
「アレクシア様!」
今にも泣きそうな顔をした女が、必死な様子で僕に呼び掛けている。
だが、その顔に見覚えはない。
名も知らない女だ。
「誰だ? お前は」
「……!」
衝撃を受けたように、女が目を見開いた。
戸惑うような、傷ついたような、複雑な顔だ。
「なっ……兄さん! 何を言っているんだ⁉ 彼女は兄さんの妻で、兄さんが誰よりも愛するマリエーヌだろ!」
聞き覚えのある声が僕に何か叫んでいる。
見れば、父親によく似た男が深刻そうな顔でこちらを見ていた。
明らかに僕よりもずっと年上の人間が、なぜ僕を兄と認識しているのか。
言っている内容も、まるで意味不明だ。
僕は思いきり顔をしかめた。
「お前も誰だ?」
「……!」
男はムッとしたように僕を睨み、「弟のレイモンドだ!」と、苛立たしげに言い放った。
耳障りな名前に、不快感が一気に増す。
「馬鹿を言うな。レイモンドはまだ十にもなっていないはずだ」
「それは兄さんの認識が間違っているだけだ! 兄さんだって自分の姿を確認してみろ! どう見ても子供の体じゃないだろう!」
いちいちうるさい男にうんざりとしながら、僕は仕方なく立ち上がった。
自分の身体を見下ろすと、確かに違和感がある。
床までの距離が遠く見えるのは、それだけ身長が高くなっているということだろうか。
手の大きさも大人ほどあり、どこをどう見ても体格が明らかに変わっている。
まるで数年分の記憶が抜け落ちたまま、体だけが大人へと成長を遂げたように思える。
「マリエーヌ様、こちらへ」
ウィルフォード騎士団の騎士とおぼしき男が、僕の足元にいた女に声を掛ける。
手を差し出して女を立たせると、すぐに騎士は僕から距離を取った。
まるで僕から女を守ろうとするような、鋭い眼光がこちらへ向けられる。
騎士を見返していると、何故かひどく不快な気分になった。
僕は騎士から視線を逸らし、辺りを見回した。
いかにも豪華な調度品がいたるところに飾られており、壁や柱も華麗な装飾で彩られている。
天井が高く、僕の頭上では一際豪奢なシャンデリアが煌々と光を放っていた。
足元には、直線に伸びる真紅の絨毯。
その両脇に整然と並ぶ甲冑姿の騎士。
更にその奥に設えられた檀上で、凄まじく威厳を放つ人物の姿が目に止まった。
――まさか、皇帝陛下……?
そう認識した瞬間、僕は皇帝陛下に向けて膝を折っていた。
視界のほとんどが真紅の絨毯に覆われる。
まるで頭を押さえつられているかのように、顔を上げることができない。
「アレクシア。面を上げよ」
泰然とした声が聞こえたのと同時に、頭が軽くなった。
見上げた先――荘厳な玉座に鎮座する人物は、僕が知る皇帝陛下の肖像画よりもずいぶんと年を重ねたように見えた。
だが、こうして直に対面するだけでも、自分の身体が緊張で委縮しているのが分かる。
――どうして僕は皇帝陛下の前にいるんだ……?
状況が掴めず困惑する僕に、皇帝陛下は鷹揚な笑みを向けた。
「今のそなたには、自分の状況がよく分からないであろう。だが、案ずるな。そなたが今、やるべきことはただ一つ。余計なことは考えず、私の命令に従うだけだ」
それを聞いて、僕はこれ以上の詮索はやめた。
皇帝陛下の命令は絶対である――これまでの教育の中で幾度も叩き込まれたことだ。
――そうだ。僕は命じられた通りにすればいいだけだ。
ここにいる理由も、自分の体がどうしてこんなに成長しているのかも、今は関係ない。
全ての疑問を捨て払い、僕は跪いたまま皇帝陛下の命令を待った。
皇帝陛下は僕を見て満足げに目を細めると、ふいに笑みを消し、厳かに告げた。
「アレクシア。命令だ。その女を殺せ」
「仰せのままに」
すぐさま立ち上がり、腰の剣を抜いた。
この場に女はただ一人しかいない。
僕はマリエーヌという女へ視線を向ける。
しかし、そこには相変わらず、ウィルフォード騎士団の騎士が女を守るようにして立っていた。
「おい、邪魔だ。そこをどけ」
「申し訳ありませんが、そのご命令には従えません」
いかにも恭しく述べてはいるが、強い拒絶が伝わってくる。
そもそもウィルフォード騎士団は、公爵である僕の父親が率いる騎士団だ。
いずれは僕が父親から公爵位を継ぎ、ウィルフォード騎士団も僕の配下となる。
それなのに、僕の命令よりも見知らぬ女を守る理由が分からない。
――あの女はいったい何者なんだ……?
だが、頭に受かんだその疑問もすぐに薄れていく。
――何者でも関係ない。僕は命令を遂行するだけだ。
僕はすぐさま地を蹴り、先手を打った。
キィンッと甲高い金属音が弾ける。
僕の薙いだ剣は、女を守る騎士の剣に止められた。
腕の角度を変え、相手の刃の上で剣先を滑らす。
金属を引っ掻くような耳障りな音を響かせながら、相手の剣先を弾くと同時に次の攻撃を繰り出した。
――が、再び金属音が耳を打ち、僕の剣は騎士の目前で止められる。
絶え間なく攻撃を繰り出しながら、騎士の隙を狙う。
僅かに剣を交わしただけでも、この騎士が相当な手練れだというのは分かる。
冷静に考えれば、ウィルフォード騎士団の現役騎士と僕とでは歴然とした力の差があるのは当然だ。
だが、それを脅威と思わないのは、僕の身体が思った以上に動くからだ。
まるで体が戦い方を知っているかのように、頭で考えるよりも先に体が勝手に動いている。
もう少しこの体に馴染めば、もっと上手く戦えるはずだ。
「アレクシア様!」
唐突に騎士が叫んだ。
「……?」
剣を交わしながら顔をしかめる僕に、騎士は更に訴えかけてくる。
「マリエーヌ様を攻撃してはなりません! マリエーヌ様は、貴方が御自分の命よりも大切にされている奥様ではありませんか!」
「は?」
キィンッと、甲高い金属音が耳を打つ。
そういえば、弟を名乗る男も似たようなことを言っていた気がする。
「僕に妻などいない」
吐き捨てるように言い、次の攻撃を繰り出す。
繰り返し鳴り響く金属音がいい加減鬱陶しくなってきた。
「今の貴方は忘れてしまっているだけです! よく思い出してください。マリエーヌ様は、貴方が愛する――」
「黙れ」
騎士が発した言葉の響きに、神経が激しく逆撫でされる。
僕は騎士を睨みつけ、怒りのままに告げた。
「愛など知らない。僕が一番嫌いな言葉だ」
黒々とした感情が頭の中に立ち込める。
――僕が自分の命より大切にしている? 愛する、だと? 僕があの女を?
馬鹿馬鹿しい。
なぜ僕にそんな感情が存在すると思えるのか。
父親も、母親も、弟も、使用人も。
誰も僕を助けてくれなかった。
服毒により、呼吸ができなくなるほど苦しんでいたとしても……。
体中を蝕まれるような激しい痛みにもがいても……。
目を疑うほど大量の血を吐き、自らの血で溺れかけていたとしても……。
誰一人として、苦しむ僕に手を差し伸べてくれなかった。
――くだらない。何が愛だ。
誰も、僕を愛してなどいなかった。
そんな僕が、どうして誰かを愛せるというのか。
「アレクシア。そんな男、さっさと片付けて女を殺せ」
焦れたように、再び皇帝陛下から命令が下る。
怒気を孕んだ声に、それまでの思考が全て消し飛んだ。
「うっ……」
口の中に苦みが生じ、なんとも言い難い刺激臭が鼻を突き抜ける。
まだ免疫のできていない、新しい毒を口に含んだ時の感覚だ。
案の定、すぐに激しい痛みが全身を駆け巡る。
――痛い……熱い……痛い……苦しい……!
一度毒に侵されれば、壮絶な苦痛が絶え間なく僕を支配する。
この苦しみから逃れるには、皇帝陛下に服従するしかないと、誰かが言っていた。
――僕が皇帝陛下の命令を遂行できていないから……?
だから毒を口にしていないのに、肉体が焼けただれるような痛みに襲われているのだろうか。
喉を炙る強烈な熱さに、堪らず襟首を引きちぎり、喉を掻きむしる。
「アレクシア様!」
「黙れ! 気安く僕の名を呼ぶな!」
反射的に女を睨みつけると、女はひどくショックを受けたような表情を見せた。
憂いの滲んだ瞳が切なげに僕を見つめている。
ズキンッと、胸の奥に鋭い痛みが走った。
――なんだ……?
胸に手を押し当てる。
ズキズキと胸を突くような痛みは、今もまだ続いている。
毒による痛みとは違う。
自分の奥深くに潜む最も脆い部分を、小さな針で何度も刺されているような感覚だ。
「アレクシア!」
皇帝の怒号に煽られた瞬間、その痛みは消えた。
代わりに更に激しい苦痛に見舞われた。
「……!」
ギリッと奥歯を噛みしめ、体を蝕む激痛に耐える。
――早くあの女を殺さないと……。
もう痛いのは嫌だ。
苦しいのも嫌だ。
嫌だ、嫌だ……早く、早くあの女を……!
剣の柄を握り直し、女に狙いを定める。
僕と目が合うと、女はハッと息を呑み、新緑色の瞳を揺らした。
再び胸に痛みが走る。
――くそ! なんなんだこの女は!
女の顔を見るたび、訳も分からず取り乱しそうになる。
正体の分からない感情が気持ち悪い。
女の前には相変わらず騎士が立ち塞がっている。
「邪魔をするな!」
焦燥に駆られ、大振りになった斬撃は虚しく空を切った。
刹那、僕の襟元を騎士が掴み上げ、強く引っ張られる。
騎士の手に剣は握られておらず、堅く握りしめた拳が見えた。
顔面に迫る拳を腕を交差してガードする。
が、男の拳は寸前で軌道を変え、僕の胸元へと向かう。
分かりやすいフェイントだったが、焦るあまり見抜けなかった。
胸元への衝撃に備えたが、想定していた衝撃はなく、男の拳は僕の上着の内側にすっぽりと収まった。
「⁉」
なぜか僕の上着の内側をまさぐり始めた騎士に、思わず唖然としてしまう。
明らかにおかしい状況なのに、騎士はいたって真剣な顔だ。
「なっ……何をする!」
咄嗟に身を引いて騎士から離れようとした時、何かを握った騎士の手が僕の目の前に突き出された。
僕の上着の内ポケットに入っていた物だろうか。
「……なんだ? それは」
それは一見、ただの白い布にしか見えない。
だが、よく見れば、布の一角に人のような模様が刺繍で描かれている。
「貴方が大切にしているハンカチです」
大切にしている――その言葉が、やけに癪に障った。
「僕はそんな物知らない」
いくら記憶が抜け落ちているとはいえ、たかが布切れを大切にするなんて馬鹿げている。
どうせこの男が所持していたハンカチを、さも僕が持っていたかのように偽装してみせただけだ。
「では、これは私がいただいてもよろしいのでしょうか?」
「……好きにしろ」
そうは言ったものの、なぜかハンカチから目を逸らせない。
騎士はそれを丁寧に畳み直すと、上着の内ポケットへ収めようとする。
「待て」
反射的に声が出た。
騎士はすぐに手を止め、こちらの様子を伺う。
自分でも、なぜ騎士の動きを止めたのか分からない。
ただ、引っかかることがあった。
「そこに描かれている模様はなんだ?」
騎士は模様が見えるように、僕に向けてハンカチを差し出す。
刺繍で描かれている模様は、二頭身ほどにデフォルメされた二人の男女に見える。
一人は僕と同じ白銀色の髪の男で、もう一人は長い亜麻色の髪の女だ。
「ここに刺繍されているのは、アレクシア様と貴方の妻、マリエーヌ様でございます。マリエーヌ様がアレクシア様の身の安全を願い、心を込めて刺繍をしたものです」
気付けば、僕は差し出されたハンカチを手に取っていた。
滑らかで柔らかい布地は、僕の手によく馴染んだ。
刺繍された二人の姿をジッと見つめる。
――この女がこれを刺繍したのか……?
芸術的なセンスの欠片もない。
まるで子供だましのような陳腐な刺繍だ。
くだらない――と、引きちぎりたくなる衝動と、それを抑えつける理性が自分の中で均衡している。
訳が分からない。
自分の中に、自分ではない誰かが潜んでいるようで気持ちが悪い。
「アレクシア! 何をしておる! さっさと女を殺せ!」
「うぐっ!」
忘れかけていた激痛が全身を駆け巡る。
手の平からハンカチが滑り落ちた。
立っていられず膝をつくと、女が声を上げた。
「アレクシア様!」
「マリエーヌ様!」
僕に駆け寄ろうとする女を騎士が間に入って引き止める。
二人は何か言葉を交わしているが、体の痛みに気を取られて内容までは聞き取れない。
――馬鹿な女だ。自ら殺されにくるとは……。
あまりの愚かさに失笑が零れる。
だが、あの煩わしい騎士が女を守っている限り、女が僕の手の届く距離にまで来るはずがない。
女を殺すには、やはりあの騎士を片付けなければ……。
そう思っていた矢先、女の前から騎士が身を引いた。
僕と女の間を隔てるものがなくなり、女は真っすぐ僕の方へと駆け寄ってくる。
――……は? なんでこっちへ来るんだ……?
女を引き止めていたはずの騎士は、今はこちらを見ているだけで、僕に近付こうとする女を止める素振りもない。
啞然とする僕の前で女は膝をつくと、心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
至近距離で見る新緑色の瞳は、純度の高いペリドットのような優美さがあり、それでいてどこか儚げだ。
「アレクシア様、大丈夫ですか?」
声を掛けられ、我に返った。
女の白い手が、僕の顔にゆっくりと近付いてくる。
僕に触れるなと払い退けそうになったが、なんとか耐えた。
これはチャンスだ。
女が自ら殺されに来てくれたのだから。
この機会を逃さないためにも、今は油断させておいた方がいい。
女の後ろに控える騎士は、腰に携えた剣の柄に手を添えたまま静かに僕を見下ろしている。
僕が女に危害を加えようとすれば、間違いなく奴は剣を抜くだろう。
その先は考えるまでもない。
――僕を殺す気なら好きにすればいい。だが、女は確実に仕留める。
騎士の牽制には構わず、僕は床に横たわる剣の柄を握りしめた。
この距離なら確実に女を殺せる。
いや、いっそ首をへし折る方が確実か。
女の殺害方法を巡らせていると、ふいに柔らかな感触が顔に触れた。
――……?
一瞬、自分の身に何が起きたのか理解できなかった。
……いや、今もよく分からない。
殺そうとしていた女が、僕の顔を包み込むように抱きしめているなんて……。
次の瞬間、カッと顔面が火を噴くように熱くなった。
「な……なっ……なにをする!」
しどろもどろになりながら女を突き離そうとした時、ふと、甘い柑橘系のような香りが鼻を掠めた。
刹那、見覚えのない光景が頭の中を駆け巡った。
――なんだ……これは……?
公爵邸の中庭とおぼしき景色。
華やかな街の風景。
広大な海原。
清々しい青空。
黄金に揺らめく絵画のような草原。
青々とした山岳。
色鮮やかな屋根が連ねる港町。
物心がついた時から部屋で勉強漬けだった僕が、そんな景色を知っているはずがない。
それなのに、なぜか実際に目にしたことがあるかのように、鮮明に思い描くことができる。
そして、頭の中で思い描いた景色の中心には、常に一人の女性がいた。
僕に優しく微笑むその女性は、今、僕が殺そうとしている女だ。
「マリエーヌ……?」
僕の口が、勝手に言葉を発した。
途端、目の奥がツンと痛み、熱を持った何かが喉の奥から込み上げてくる。
「はい。私はここにいます」
耳をくすぐるような穏やかな声。
この女は、僕に殺されるのが怖くないのだろうか。
――今なら殺せる……。
頭ではそう思うのに、まるでそれを体が拒絶しているかのように、指先ひとつ動かせない。
さっきまで頭を埋め尽くしていた彼女への殺意も、今は微塵も残っていない。
僕の体を戒めていた毒の苦痛が徐々に引いていく。
代わりに胸の奥を掴まれるような、狂おしいほどの切なさに胸が苦しくなった。
苦しいのに、この苦しさを手放したくないと思ってしまう、矛盾だらけの感情が僕の中にひしめいている。
――僕は、知っている気がする。
この優しい香りと、心地よい温もりを。
「マリエーヌ」
もう一度、今度は僕の意思で彼女の名を呼んだ。
マリエーヌは僕を抱きしめていた腕を緩め、
「はい、アレクシア様」
と、僕に優しく微笑みかける。
頭の中で思い描いた彼女の笑顔がすぐそこにあった。
その刹那、僕を戒めていた全ての苦痛から解放された。
空虚でしかなかった心が、温かな何かで満たされていく。
永遠とも思えるような、果ての無い孤独――一抹の希望もない、漆黒に塗りつぶされた世界に、救いの手を差し伸べられたような気がした。
――何だろう……この気持ちは……。
自分の胸にそっと手を当てた。
トクトクと、心臓の鼓動が小気味好い音を奏でている。
その不確かなるものの正体が何なのか。
ふと、一つの固有名称が頭に浮かんだ。
僕が理解できるはずがない、この世で一番嫌いだった言葉。
――僕は、本当に君のことを……?
ふいに瞼が重たくなり、勝手に閉じようとする。
もう少しだけ、ここに居たい――そう思うのに、強烈な眠気に抗うことができず、僕は目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、親しげに寄り添う男女の姿があった。
まるでハンカチの刺繍に描かれていた二人のように……。
目尻から零れた温かい何かが、頬を伝う感触がした。




