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12.香り sideアレクシア

 低い声で放たれた命令に、ドクンッと心臓の鼓動が大きく高鳴った。


『妻を殺せ』


 皇帝の声が耳の奥で反響する。


 頭を何度も打ち付けるような頭痛が始まり、自分の意思とは無関係に手が動こうとする。

 固く拳を握り込み、心身を支配しようとする洗脳の力に抗った。


 刹那、全身に激痛が走る。


「……!」


 零れかけた呻き声を奥歯で噛み殺し、ゆっくりと息を吐き出すようにして痛みを逃す。


「もう一度命令する。アレクシア、そなたの妻を殺せ」


 そこへ追い打ちのように、再び命令が下された。

 直後、心臓が掴まれるような感覚に襲われ、うまく息が吸えなくなる。

 浅い呼吸を繰り返すうちに、軽い酸欠によって意識が朦朧とし始めた。

 ここで意識を失ってしまえば、完全に洗脳の支配に取り込まれる。

 ギリッと唇の端を噛み切り、揺らぐ意識を立て直す。

 顔を上げ、僅かでも気道を確保した。


「アレクシア様」


 マリエーヌの不安げな声が耳に触れた。


 霞んだ視界の中で、マリエーヌの姿を捉えた。

 途端、スッと引き寄せられるように僕の右手が伸びた。


 マリエーヌへと向かう自分の手に、全身から血の気が引くような感覚に襲われた。

 もしかしたら、この手がマリエーヌを傷つけてしまうかもしれない。

 そんな恐れを抱いてしまった。

 

 洗脳による支配は、そういった心の隙を狙ってくる。


 案の定、押し止めていた殺意が急激に膨れ上がった。

 僕の右手が獰猛な蛇の如くマリエーヌの首へと向かう。


 ――駄目だ……!


 咄嗟に左手で右手を掴み、動きを止めた。


 額から噴き出した冷や汗が頬を伝い、絶え間なく滴り落ちる。

 霞む視界の中では、マリエーヌの表情までは確認できない。

 ……いや、見えなくてよかった。

 僕に脅えるマリエーヌの顔を見てしまえば、また心に隙が生まれていただろう。


 ――とりあえず、今はマリエーヌから離れた方がいい……。


 そう判断し、後ずさろうとした時、僕の右手を温かい何かが包み込んだ。

 思わず目を瞬かせると、霞んでいた視界が輪郭を取り戻した。

 マリエーヌが両手で僕の手を握っていた。


 自分を殺めようとしていた手を握りながら、マリエーヌは心配そうに僕を見つめている。

 その瞳に、僕に対する脅えは一切ない。

 苦痛に耐える僕を、純粋に心配してくれているのだ。


 強張っていた体から力が抜ける。

 僕を恐れていないマリエーヌの姿に心の底から安堵した。


 ――大丈夫だ、マリエーヌ。


 今度は僕がマリエーヌを安心させるように微笑みかけた。

 右手を握るマリエーヌの力が強くなる。

 負けないでください――そんな言葉が聞こえた気がした。


「何をしておる! その女を殺せ!」


 苛立つ皇帝の声に、再び心臓に激痛が走った。

 加えて喉の奥が焼けるような熱を孕む。

 毒に侵され、ただれた喉の痛みを思い出す。

 呼吸するたびに激痛に襲われ、死を覚悟したことも。

 苦痛が様々な記憶を掘り起こし、心を蝕んでいく。

 だがそれ以上に、腹の底から沸々と煮え滾るような怒りを覚えた。


「うるさい……」


 唸るような声が出た。


 全身の血が沸騰するように体が熱い。

 噛みしめる奥歯がギリッと鳴った。


 ――こんな洗脳如きで、僕がマリエーヌを傷つけるはずがない。


「アレクシア、そなたの妻を……マリエーヌを殺せ!」


 焦れた声で、皇帝が吠える。

 刹那、ブツッと頭の中で何かが焼き切れる感覚と共に、僕を戒めていた苦痛が消えた。


「気安くマリエーヌの名を呼ぶな!」


 皇帝への殺意を剥き出し、怒号を放つ。

 直後、周囲の騎士たちが一斉に剣を構え、臨戦態勢となった。

 ガイゼンはすでに剣を構え、迎え撃つ準備はできている。


「兄さん、落ち着け。まだ駄目だ」


 小声でレイモンドが僕を制する。


「アレクシア様……」


 それに続くように、静かなマリエーヌの声が耳を打った。

 おかげで少しだけ冷静さを取り戻す。


 気を取り直すように息を吐き、自分の状態を確認した。

 先ほどまで体を蝕んでいた痛みと熱が、嘘のように引いている。

 皇帝が命令を取り下げない限り、苦痛からは逃れられないはずだが……。


 ――完全に洗脳が解けたということか……?


 安堵の息が自然と漏れる。

 これで僕がマリエーヌを傷つけることはない。


「ふっ……はははは!」


 唐突に皇帝が笑い出し、思わず顔をしかめる。

 気でも触れたかと思ったが、それにしては様子がおかしい。

 まるで、この展開を予期していたかのような余裕が見え隠れしている。


 不気味な哄笑(こうしょう)が静まると、皇帝は楽しげな笑みをこちらによこす。


「やはりそなたはあの男の息子だ。強靭な精神力を持っておるのは認めよう」


 にこやかにそう言うと、意味深に目を細めた。


「だが、残念であったな。そなたはあの男とは違う」

「……?」


 ――どういう意味だ?


 皇帝は、剣を構えた状態の騎士たちを一瞥する。


「お前たち、剣を収めてよい」


 皇帝の命令に、騎士たちは一同に剣を収めた。


「なんだ……?」


 レイモンドが訝しげに周囲を見回す。

 僕もこの展開は想定していなかった。

 ガイゼンは今もまだ剣を構えたまま警戒を続けている。


 玉座に鎮座する男は、ゆったりとした動作で足を組み、頬杖をつく。


「そなたの父親が二番目の子を後継者候補から外したいと言った時、奴は私の命令に応じなかった。あの時はこちらも強要はしなかったが、洗脳は絶対ではないのだと、私は理解したのだ。強靭な精神力と強固な意志があれば、洗脳の支配に抗える。その事実に直面した私が、そなたの教育に何も手を加えなかったとでも思うか?」


 いつの間にか、皇帝の手に小さなガラス瓶のようなものが握られていた。

 手の平に収まるほどの透明な小瓶で、密封された小瓶の中には無色の液体が入っている。


「あの男とそなたが見せた洗脳に抗う力の源は、命を賭してでも愛する者を守りたいという強い想いなのであろう。私には到底理解できぬが、その想いを断つのが容易でないのは知っている。ゆえに、万が一にでもそなたが私の命令に従わなくなった時、どのように対処すべきなのか。多岐に渡って情報を集めさせ、あらゆる対策を探った。そして見つけたのだ。その根源を元から断ち切る方法を」


 おもむろに皇帝は手にしていた小瓶を段下の床に叩き付けた。

 パリンッと甲高い音を立てて小瓶は割れ、中に入っていた液体が飛沫となって周囲に散る。


「……?」


 だが、特に何かが起きる気配はない。

 僕自身にも、今のところ何も変化は起きていない。


 ふいに、何かの香りが鼻を掠めた。

 よほど敏感な嗅覚の持主でなければ気付かないほど、微かな香りが……。


 刹那、意識が強引に引っ張られるような感覚に陥った。


「⁉」


 視界が大きく歪み、足元の感覚が消える。

 平衡感覚を失い、崩れ落ちるように膝をついた。


「アレクシア様⁉」


 耳に響いたその声が、まどろむ意識を引き上げる。

 顔を向けると、心配そうに僕を見つめる女の顔があった。


「……?」


 思わず眉を寄せた。


 目の前の女が誰なのか分からない。


「アレクシア様……?」


 女が首を傾げ、困惑するように僕を見る。

 すると、女の傍にいたウィルフォード騎士団の制服を纏った騎士が、僕を警戒するようにして女に声を掛けた。


「マリエーヌ様。お気を付けください」

「……マリエーヌ?」


 その名前に引っかかりを感じた。

 刹那、カチンッと頭の中で何かが繋がる感覚がした。


 ――……そうだ。マリエーヌだ……。


「マリエーヌ!」


 唖然としたまま、こちらを見つめていたマリエーヌに呼び掛けると、彼女は少し驚いたように目を見張り、安堵したように顔を綻ばせた。

 だが、その瞳には戸惑いが残っている。

 僕の身に何が起きたのか、不安なのだろう。


「すまない。どうかしていた。僕が君を――」


 忘れるなんて……。そう言いかけて、ゾッとした。


 あり得ない。


 僕がマリエーヌのことを忘れるなんて、絶対にあるはずがない。

 それなのに今、確かに僕の記憶からマリエーヌのことが抜け落ちていた。


 おかしいのはそれだけじゃない。

 ガイゼンのことも、ウィルフォード騎士団の騎士としか認識していなかった。


 自分の中で、何か異常な事態が起きている。

 だが、何も分からない。

 この奇妙な違和感が何なのか、まるで正体が掴めない。


 ――皇帝は僕に何をした……? あの小瓶には、何が入っていた……?


 僕に異常をきたしたのは、あの香りを嗅いだ瞬間からだ。

 恐らく、その発生源となったのは小瓶に入っていた液体だろう。


 ――あの香りに、何か仕掛けがあったのか……?


 だが、視線をめぐらせてみても、僕以外の人間には何も異常は起きていない。

 錯乱作用のある毒であれば、他の者にも影響があるはずだ。


「知っておるか? アレクシア」


 まるで世間話でも始めるかのように、何気ない口調で皇帝が話しかけてくる。


「嗅覚とは、視覚や聴覚よりもずっと、強く記憶と結びつくものらしい。そなたも経験があるであろう? 特定の香りを嗅いだ瞬間に、その香りに関連付く記憶が呼び起こされることが。この洗脳は、その特性を利用したものだ」


 つまりあの液体の香りが、僕の中に残っていた洗脳の効力を発動させるきっかけとなったわけか。


 心底うんざりとした。

 そうまでして僕を縛り付けようとする、皇帝の執念に。

 だが、今はそれよりも、僕にかけられた洗脳がどういうものなのかが気掛かりだ。


 零れた液体の一部はすでに気化し、謁見の間を満たしつつある。

 もはや香りを完全に消すことは不可能だ。


 再び意識が遠のきそうになり、咄嗟に頭を振って覚醒を促す。

 少しでも気を抜けば、自分ではない何かに意識を乗っ取られそうだ。


 必死に抗う僕を見て、皇帝が満足げに目を細める。


「先ほどの瓶に入っていたのは、ある香油だ。そなたを縛るためだけに調合させたもので、この世にただ一つしかない香りだ。この香りをひとたび嗅げば、そなたの精神は洗脳をかけられた時にまで引き戻される。確か、そなたが十二になる前の時か……。無論、そなたの妻と出会ってすらいない。見ず知らずの人間を殺せと命じられたところで、そなたは何も思わぬだろうな」


 ――精神が巻き戻る……? 


 つまり、マリエーヌとガイゼンが誰か分からなかったのは、精神状態が昔の僕に戻っていたからというわけか……?


 だとすれば、この状況は最悪だ。


 咄嗟にガイゼンへと視線を向ける。

 僕と目が合うと、ガイゼンは静かに息を呑んだ。

 そしてこれから起きるであろうこと全てを呑み込むように、力強く頷いた。


 再び意識が揺らぐ。


「残念なことに、これは一度限りの効力しかもたないのだ。ゆえに、これを使うのは、そなたが私の命令に従わなかった時と決めていた。不要となったそなたを速やかに処分するためにだ」


 眩む視界のなかで、壇上の男を睨みつける。

 直後、胸の奥に激痛が走った。


「うっ……」


 不意打ちの痛みに、思わず呻いた。


「アレクシア様⁉」


 再びマリエーヌが心配そうに僕を見つめるが、今は笑みを返す余裕すらない。


 ――なぜだ……? 洗脳は解けたはずじゃ……。


 胸の痛みが激しさを増し、打ち付けるような頭痛が追い打ちをかける。

 思考が中断され、何も考えられない。


「言ったであろう? 今のそなたの精神状態は昔のそなたに戻りつつあるのだ。当然、洗脳の支配からも抜け出せてはおらぬ。私に敵意を向けるだけでも苦しいであろう」


 皇帝の声が遠くに聞こえ、意識が朦朧とする。

 マリエーヌが僕に向けて何かを呼びかけているが、声が全く聞こえない。

 マリエーヌの輪郭がぼやけ、姿もおぼろげとなる。


 ――僕が、マリエーヌを忘れる……?  


 必死に頭を巡らせ、マリエーヌと過ごした日々を思い起こす。

 マリエーヌの優しい笑顔、透明感のある心地よい声、温かな手の温もり、僕を守ろうとして相手に立ち向かう凛とした姿。


 しかし、それも途中から霞がかかり、彼女の姿が見えなくなっていく。


「ああ。洗脳の効力がなくなるまでは、そなたを殺さずにいてやろう。そ(・)な(・)た(・)が目覚めた時、愛する妻がどのような姿になっているか、楽しみにしながら眠るがいい」


 いかにも恩着せがましい口調で皇帝が言う。


 ――嫌だ……マリエーヌを忘れたくない……。


 マリエーヌ……マリエーヌ……。


 その名を忘れぬよう、何度も、何度も名前を呼びかける。

 声になっているかも分からない。

 ただひたすらに、愛する人の名前を呼びかけた。


 マリエーヌ……。


 しかし、それを最後に、僕の意識は闇に堕ちた。






 まどろむ意識の中、僕はゆっくりと目を開けた。


 すぐ目の前で、見知らぬ女が僕を見つめていた。


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皇帝の洗脳に打ち勝った!!と思ったら?! 頑張れアレクシアとマリエーヌ!! (ง≧Д≦)ง 皇帝は効果をべらべら教えてくれて親切だな、と思ったりもしたのですが、どういう効果があるのか認識させることで洗…
いつも楽しく読んでます! 記憶の方か~ 無理矢理言うこと聞かせる方法かと思ったら、記憶(精神年齢)を操作してくるとは、この世界の医学(科学)は意外と凄いのかな? 前世では大けがの公爵様がギリギリ一…
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