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04.後悔 sideルーベン宰相

 皇帝陛下の寝室を出た途端、強烈な眩暈に襲われた。


 平衡感覚を失い、危うく壁にぶつかりそうになったところを寸前で近衛騎士に支えられた。

 甲冑の冷たさが服越しに伝わり、朦朧としていた意識が覚醒する。


「……ああ、すまない。手間をかけた。もう大丈夫だ」


 軽く手を振って仕事に戻るよう促す。

 近衛騎士は私から離れると、寝室の扉の前で直立した。


 私は壁に手をつき、足を引きずるようにして廊下を歩く。

 瞼が重い。まともに目を開けていられない。

 夢幻の香木に当てられて、私は猛烈な眠気に襲われていた。


 ――まいった……。今日中に終わらせなければならない仕事がまだ残っているというのに……。


 ただでさえ皇帝陛下の寝室は香木の香りが染み付いている。

 外部からの侵入を避けるため、寝室には窓がないせいだ。

 換気が十分にできず、日に日に香りは濃くなっていく。

 残り香だけでも僅かに人体へ影響を及ぼすというのに、じかに煙を吸い込んでしまえば抗いようがない。

 気を付けていたつもりだが、完全には防ぎきれなかった。


 ――いや……誘惑に負けたという方が正しいか……。


 夢幻の香木は、使用者の脳神経を麻痺させることにより、潜在的に潜む不安や恐れから一時的に解放させ、束の間の快楽を与える。

 その感覚を身をもって知る私には、夢幻の香木でしか味わえない快楽に溺れる人間の気持ちが理解できる。


 事実、そんな甘い夢を見せる香木を前にして、あわよくば自分もあやかりたいと期待する気持ちが私にも少なからずあった。


 ――こんな私が、皇帝陛下に香木の使用を控えるようになどとよく口にできたものだ。


 自らに呆れ果て、失笑する。


 皇帝陛下ほどではないにせよ、私もまた深刻な不眠を抱えている。

 私の場合は、日々の激務に追われ、まともに眠る時間が取れていないわけだが。


 皇帝陛下がお身体を崩されて以来、本来なら皇帝陛下が行うべき執務の大半を私が代行するようになった。

 それはお身体が回復された今も変わっていない。


 ここ数年、皇帝陛下は社交界に姿を見せていない。

 その日の御気分によっては謁見に応じることはあるが、それも極めて稀(まれ)である。


 今の皇帝陛下が唯一関心を示されるのは、行方を晦ましたウィルフォード卿の動向だけ。

 政務に関してもまるで興味がないようで、助言を求めても好きにすればよいとあっさり突き返される。

 こちらは貴族間の派閥争いに挟まれ頭を抱える日々だというのに……。

 皇帝の一言で丸く収まるところも、代役を務めているとはいえ私の発言にそれほどの力はない。


 深い溜息を吐き出し、頭を振って眠気に抗う。


 息子のグレイソンが補佐についていた頃はまだよかった。

 頭の回転が速く、情報収集にも長けており、様々な観点から意見を聞くことができた。

 仕事もある程度は分担できたため、私の負担はかなり軽減されていた。

 だが、グレイソンがいない今、私には頼れる人間がいない。

 信頼できる人間もだ。


 グレイソンに代わる人材を探す余裕もなく、日々の仕事に忙殺されている。

 最近では、錯乱状態に陥った皇帝陛下の対応にも追われている状況だ。

 

 あのようなお姿を他の従者に見せるわけにはいかない。

 自尊心の高さゆえに、醜態を見られたことに腹を立て、その場で従者を殺しかねない。

 近衛騎士でさえ、その時の皇帝陛下の機嫌次第で自害を命じられるのだ。


 再三の溜息を吐き出し、こめかみを押さえる。

 眠気に加えて頭痛まで始まった。


 もはや何も考えたくはないが、考えなければならないことは山積みだ。

 いっそのこと私も香木が見せる快楽に溺れることができたならどんなに楽だろうか。


 どうにか気力を振り絞り、足を前に押し出す。

 直後、がくりと膝が折れ、尻餅をついた。


 ピリッと手に鋭い痛みが走る。

 右手を持ち上げると、まるで赤い手袋でも嵌めているかのように、指の先まで真っ赤に染まっていた。

 香木の影響で痛覚が麻痺していたのか、手の平に刺さったグラスの破片のことを失念していた。


 寝室で見た時は鮮やかな赤色だったが、今は赤黒く変色している。


 昔は血を見るだけで貧血を起こすほど苦手だったのだが、今では何も感じなくなった。


 それほど血が流れる光景を見過ぎてしまったのだろう。


『前皇帝を殺害し、新たな皇帝となったあの男を、私は自分の主君として認めません』


 ふいに、息子の声が頭を過り、私の意識は過去の記憶へと引き戻された。




 グレイソンが宰相補佐に任命された日。

 私の私室を訪れた息子は、澄んだ眼差しを真っすぐこちらへ向け、迷いのない声でそう告げた。


 もしも帝国騎士団の騎士がその場に居たのなら、即座に殺されてもおかしくない発言だった。


 私は表向きは平静を装ってはいたが、内心では激しく動揺していた。

 皇帝陛下が前皇帝を殺害したということにではない。

 グレイソンがその事実を知っていたことにだ。


 聞けば、グレイソンは当時の宰相であった私の父と、ウィルフォード前公爵の会話を盗み聞いてそれを知ったのだという。


 私は耳を疑った。


 ――あんなにも皇帝陛下に従順だった父上が、あの前公爵にそんな話を……?


「父上。あの男は皇帝として相応しくありません。この事実を公にし、あの男を玉座から引きずり下ろしましょう」


 そう意気込むグレイソンの姿は、どこまでも純粋で潔く、迷いがなかった。


 グレイソンは正しい人間だ。

 正義感が強く、人望も厚い。

 学業においても常に首席だった。

 一人息子であるグレイソンは、いずれ宰相の地位を継ぐ者としての自覚を持ち、たゆまぬ努力を重ねてきたのだ。


 その芯が歪むことなく真っすぐ育ってくれたことは、父親として誇るべきなのだろう。


 しかし――この皇宮においては、そういう正しさを貫かんとする人間こそが真っ先に淘汰される。


「証拠は?」


 自分のものとは思えないほど冷淡な声が出た。


 私の声音が変わったことに、グレイソンは表情に警戒を滲ませた。

 グレイソンとしては、私が味方につくとでも思っていたのだろう。


「証拠は……これから調べます」

「三十年以上も前のことをか?」


 思わず失笑が漏れる。


 たとえグレイソンの言うことが事実だとしても、皇帝陛下が父親を殺害したという証拠を残すはずがない。

 あの方は、そういうところには余念がない。

 だからこそ今もあの地位を不動のものとしているのだ。


 グレイソンは反抗的な眼差しとなり私を睨む。

 息子が私に対して反抗心を剥き出しにするのは初めてのことだった。


「当時、皇宮に務めていた者の中で、まだ御存命の方もいるはずです。何か重要な証言を得られるかもしれません」

「やめておけ。皇宮内での出来事には緘口令(かんこうれい)が敷かれている。得られる証言など何もない」

「……では、私が亡くなった祖父の代わりに証言します」

「お前のような若造の証言を信じる者がいるとでも?」

「……! では父上は、このままあの男を皇帝の座に据え置くというのですか⁉ あの男は自分の父親だけでなく、後継者である皇子まで――」

「グレイソン!」


 私の怒声に、グレイソンはハッと息を呑む。

 私は声を低くし、浅はかな息子に言い聞かせた。


「根拠のない憶測はそこまでにしろ。それ以上は、皇族侮辱罪と見做して刑罰の対象とする」

「……!」


 言葉を詰まらせると、まるで裏切られたというような顔でグレイソンは唖然とする。

 優秀な人間ではあるが、己の感情に流され軽率な行動を取ってしまうところは昔からの悪癖だ。


 私は大袈裟に溜息を吐き出し、頭を振った。


「お前が耳にしたのは死に際の老人の戯言にすぎない。忘れろ」

「なっ……」


 唖然とするグレイソンをそのままに、私は席を立つことで会話を強制的に終わらせた。


 すれ違う際、グレイソンは何か言いたげな顔でこちらを見ていた。


 ――お前の言いたいことは分かる。だが、これが全てなのだ。


 この閉ざされた皇宮の中で生き延びるためには、どれほど不条理で不道徳なことであろうとも、それが皇帝陛下の思し召しである限り、全てを正当なものとして受け入れなければならない。

 それを受け入れられず、己の正義を貫こうとして命を落とした者たちを私は何人も見てきた。


 ――いずれお前にも分かるはずだ。この残酷な現実を受け入れるしかないのだと……。


 他でもない、私たちの血を継いだ息子なのだから。

 皇帝を殺害した男を新たな皇帝とした父の気持ちも。

 不審な死を遂げた皇子たちの死因を偽装した私の気持ちも。

 お前なら、きっと理解してくれる。


 それ以来、グレイソンは何事もなかったかのように宰相補佐としての務めに徹した。

 感情を押し殺し、淡々と仕事をこなす息子は、やはり優秀な人間であった。


 あの時までは……。




 その日、グレイソンから珍しく長期休暇の申請があった

 理由は、海外に住む友人の結婚式に参列するためだという。

 だが、私は見逃さなかった。

 グレイソンが嘘を吐く時に見せる不自然な目の瞬きを。


 息子のことを熟知した私と妻にしか分からないような違和感。

 それに気付いた私は、グレイソンが嘘を吐いてまで長期休暇を得ようとする理由を探した。


 とはいえ、グレイソンもいい大人だ。

 私には触れられたくない秘密の一つや二つあったとしてもおかしくはない。

 それを無理やり問いただすのもいかがなものかと私は頭を悩ませた。


 しかし、何か不吉な予感がした。


 宰相補佐となった日と同じように、こちらを真っすぐ見据えるグレイソンの眼差し。

 その瞳の奥に、なにか強い覚悟のようなものを垣間見た気がしたのだ。


 私は一日考えさせてくれと、返事を保留にした。


 夜になり、私はいつものように一日の報告を行うため皇帝陛下の寝室を訪れた。


 入室の許可を得て扉を開ける。

 その瞬間、中から勢いよく白煙が飛び出し、私は慌てて口を覆った。

 だが、遅かった。


 一瞬で頭の中が真っ白になり、足が地に着いていないような浮遊感を覚えた。


 全身から力が抜け、視界が後ろへ後転する。


 そのまま私の意識は甘い快楽へと堕ちた。




 その翌日、私は皇宮の私室のベッドで目を覚ました。

 だが、倦怠感と脱力感で起き上がることができない。

 私はグレイソンを呼び出し、口頭で指示を伝えると、いつぶりかも分からない休暇をいただくことにした。


 更に翌日、調子を取り戻した私は、休んだ分の遅れを取り戻すべく執務室へと急いだ。


 しかし、いつもならそこにいるはずのグレイソンの姿はなかった。

 他の者に確認すると、グレイソンはすでに長期休暇に入ったというのだ。

 それも、許可を出したのは皇帝陛下だという。


 グレイソンの長期休暇について、なぜ皇帝陛下が知っていたのか。

 釈然としないまま、私は皇帝陛下の寝室を訪ねた。


 許可を得て慎重に扉を開けたが白煙の気配はなく、ひとまずホッとした。

 それからグレイソンの話に入る前に先日の非礼を謝罪した。

 香木の香りに当てられたとはいえ、一日の報告義務を放棄し、皇帝陛下の寝室で倒れてしまったのだ。

 目覚めた時には自室だったため、誰かが部屋まで運んでくれたのだろう。


 宰相ともあろう人間が、なんとも情けない醜態である。


 しかし、私からの謝罪を受けた皇帝陛下は訝しげに首を傾げた。


「何を言っておる? そなたは報告義務を果たしていたではないか。報告を終えた後も、自分の足で戻っていったのだぞ」

「……え?」


 全く覚えがない。

 そこだけ記憶がごっそりと抜け落ちているようだ。


 それは本当に私だったのだろうかと疑いたくなる。


「ああ、様子がおかしかったのは確かではあった。あの日は少々香木を使いすぎてしまってな。その影響をそなたも受けていたようではあったが、それでもそなたは有益な情報を提供してくれたではないか」

「……はい?」


 更に意味が分からなくなり、間の抜けた声が出た。


 ――有益な情報……? そんなものが報告内容にあったか?


 聞き返すだけの私に、皇帝陛下は呆れたように肩を竦めた。


「なんだ。それも覚えておらぬのか。そなたの息子に怪しい動きが見られると、そなたが申していたではないか」


 香木を焚いているわけでもないのに、思考が途切れた。


 皇帝陛下は顎髭を撫で、不敵な笑みを浮かべる。今日は珍しく上機嫌のようだ。


「休んでいたそなたの代わりに長期休暇の許可を与えた。奴には監視を付けておる。ひょっとすると、アレクシアの件と繋がりがあるやもしれぬな」

「……」

「どうした? そなた、まだ香の夢から覚めておらぬのではないか?」

「……いえ。問題ありません。……皇帝陛下のお力になれて光栄でございます」


 私はほとんど無意識のうちに跪くと、恭しく頭を垂れた。


 寝室から退室し、しばらく廊下を歩いた先でようやく事の重大さを認識した。


 ――私が……グレイソンを……裏切り者として告発したのか……?


 ドッと冷や汗が吹き出し、口元を手で覆った。

 確かに、グレイソンに対して疑いを持っていたのは事実であった。

 だが、それは私の中だけに留めておくべきだった。


 長期休暇についても、許可を出さなければ何も起こらないと思っていたのだ。


 それなのに、潜在的な意識の中で、私は天秤にかけたのだろうか……。


 息子の命と皇帝陛下への忠誠心。


 それと、己の保身を。


 そして、私が選んだのは――。


 


 パタンッと、扉が閉まる音が聞こえ、我に返った。


 私の私室の清掃を終えた従者がこちらへ歩いてくるのが見えた。

 従者は私に気が付くと、素早く廊下の隅に寄り、私を先に行かせようとする。

 私は血に染まった右手を服の袖に隠し、なるべく自然に歩いて従者の前を通り過ぎた。


 私室に入ると、私はすぐに正面からベッドへ倒れ伏した。


 結局、長期休暇の期間を過ぎても、グレイソンは帰ってこなかった。

 皇帝陛下の口からも、グレイソンについて語られることはなく、新しい宰相補佐を探せとだけ告げられた。


 私は静かに察した。

 グレイソンが帰らない理由を。


 恐らくグレイソンは、皇帝陛下の不信を買うような何かを目論んでいたのだろう。

 それが果たしてウィルフォード卿と繋がっていたかまでは分からない。

 だが、どちらにしろ結果は同じ。

 グレイソンは、皇帝陛下がつけていた監視の人間に殺された。

 そう考えるのが自然だった。


 私は息苦しさに、顔の向きを変える。

 薄く目を開けた視線の先で、今しがた想いを巡らせていた息子が佇んでいた。


「グレイソン……」


 息子に対する罪悪感か、あるいは息子との再会を望む身勝手な親心からなのか、近頃は息子の幻影が頻繁に現れる。


 初めて見た時は動揺したが、今は香木の副作用だと理解しているので驚きはない。


「お前は私を恨んでいるのだろうな……」


 そこに息子はいないと分かってはいても、言葉が口をついて出る。

 無表情の息子は何も答えない。

 ただ静かに軽蔑するような眼差しで私を見下ろしている。


「すまなかった……」


 息子の姿がぼやけ、頬に触れるシーツがぬるく湿った。


 守るべきものを、私は間違えた。


 それが自分の意思ではなかったのだとしても、私が息子を死に至らしめたのに変わりはない。


 ――私が、息子を殺したのだ。


 下唇を噛み、漏れ出そうになる嗚咽を噛み殺す。

 涙を流す資格など私にはない。

 これは私の罪なのだから。


 ……そうだ。今回だけではない。私はこれまでにも多くの罪を犯してきた。


 不当に裁かれる者、罪もなく殺される者たちから目を背け続け、時には事実を捻じ曲げ、証拠を捏造した。


 全ては皇帝陛下のため。

 そしてこのレスティエール帝国を維持するためだと信じて。


 だが、それらも全て自分に対する言い訳で、私はただ保身に走っていただけなのかもしれない。


 ――罰を受けるなら、私だけでよかったのだ。


 グレイソンではなく、私こそがこの命をもって償わなければならなかった。


「グレイソン……教えてくれ……。私はどうすればいいのだ……?」


 なんとも情けない声で教えを乞う父親を、物言わぬ息子は冷ややかな眼差しでいつまでも見下ろしていた。


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― 新着の感想 ―
過ちに気づいた時には時すでに遅く…… (;T△T) この気づきと後悔が、アレクシア達の助けになりますように!!
いつも楽しく読んでます! 職場の上司(皇帝陛下)がまともまでないと、下のもの達も正常ではやっていけなくなるのよね~! さらに下の方は意外と自由に動けてるかも?しれないけれど、側近クラスはもしかした…
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