02.大陸統一の果て sideアレディオス皇帝
「皇帝陛下!」
その声に、ハッと我に返った。
目の前には、焦りと不安が混同したような宰相の顔がある。
「……?」
思わず眉をひそめた。
――なぜ宰相がいる……? いや、それよりも私は今まで何をしていた……?
直前の記憶を辿ろうにも、何も思い出せない。
ただ、体が燃えるように熱く、息が苦しい。
じっとりとした汗が体中にまとわりつき、ひどく不快な気分だ。
周囲に視線を走らせれば、ここが自分の寝室であることはすぐに分かった。
だが、様子がおかしい。
まるで誰かが暴れたかのように、室内は荒らされていた。
ベッドのシーツは剥ぎ取られ、枕やクッションがあちこちに散乱している。
床に横倒しになったサイドテーブルは、倒れた時の衝撃か、引き出しの中身が飛び出している。
床に飛散したガラスの破片は、サイドテーブルに置いていたワイングラスであろうか。
素足の私は、ガラスの破片を踏まないよう身を引こうとした――が、体が動かない。
そこで初めて、自分の体が何者かの手によって羽交い絞めにされていることに気付いた。
その瞬間、血が逆流するような激しい怒りが突き上げた。
「放せ!」
肩に回された腕を振りほどこうとした瞬間、私の体は呆気なく解放された。
途端に体が軽くなり、バランスを失った私の体は前のめりの体勢となった。
すぐ目前に迫った床には、鋭く尖ったガラスの破片が散らばっている。
「皇帝陛下!」
すかさず宰相が駆け寄り、倒れそうになった私の体を受け止めた。
パキパキッと何かが割れる音が宰相の足元で弾ける。
ガラスの破片を踏んだのであろうが、靴を履く宰相は気にも留めていない。
しかし、あのまま私が倒れていれば、無傷では済まなかったはずだ。
それを想像して一瞬だけ血の気が引くも、すぐに血が煮え滾るような怒りを覚える。
宰相の体にもたれたまま、私は背後に立つ近衛騎士を睨みつけた。
「少しは考えろ! この脳無しが!」
「申し訳ありません」
温度のないくぐもった声が、男の顔を覆う鉄の塊から発せられた。
あまりにも淡々とした口調が余計に私の神経を逆撫でた。
「私が怪我をしたらどう責任を取るつもりだ!」
「皇帝陛下の命ぜられるままに、いかなる罰もお受けします」
恭しく頭を下げるも、やはり感情のない声が返ってくる。
己の感情に左右されず、ただ命令通りに動くだけの傀儡に、反省を態度で示せと告げたところで意味はない。
そう頭では分かっているが、このむしゃくしゃとした気持ちを何かにぶつけたくて堪らない。
「皇帝陛下。とりあえず、一旦座りましょう」
私の下から宰相の苦しげな声が聞こえた。
私よりも一回りほど小柄な宰相は、私の体を支えるだけでも辛そうにしている。
私は近衛騎士に向けて手を突き出した。
「何をしておる。さっさと手を貸さんか!」
近衛騎士は速やかに私の手を取り、ベッドへと誘導する。
そこへ腰を下ろすと、吐き捨てるように息を吐いた。
額の汗に張り付いた前髪を搔き上げ、宰相に問う。
「……何があった?」
私の向かい側に立つ宰相は、至極言いづらそうな様子を見せていたが、私の顔色を伺うようにして恐る恐る口を開いた。
「皇帝陛下がお休みになられてから一時間ほどして、寝室から叫び声のようなものが聞こえたのです。内容までは聞き取れなかったのですが、私が駆け付けた時にはすでに扉が開いており、中に近衛騎士がおりました」
宰相は、ガラスが飛散する床へと視線を落とす。
「寝室の中はすでにこのような状態で、近衛騎士が皇帝陛下の体を押さえておりました。グラスが割れて危険でしたので、お守りしようとしての行動だったと思われます。その時の皇帝陛下は相当興奮されているご様子でして、周りが見えていないようでしたので……。それと……」
宰相は、先の言葉を続けるか否かを迷う素振りを見せる。
「言え」
こちらが促すと、宰相は観念するように肩を落とし、静かに告げた。
「ここにいない人物の名を叫んでおりました」
ピクッと、目尻がひくつく。
――ああ、思い出した。また、あの男の声が聞こえたのだ。
夢か現かは分からぬが、耳の奥にこびりつく不快感の正体は間違いなくそれだ。
ギリッと奥歯が軋む音がした。
――死んでもまだ私をこうも不快にさせるとは……アレクセイめ!
瞬発的に腸が煮えくりかえるような怒りがせり上がった。
握りしめる拳が震え出し、呼吸が荒くなる。
「皇帝陛下。あまり興奮されませんように……」
「うるさい! 私に近寄るな!」
駆け寄ろうとした宰相を反射的に突き飛ばした。
宰相は勢いよく後ろへ飛ばされ、床に尻もちをつく。
「……!」
直後、痛みを伴ったように顔を歪ませると、宰相は床につけていた手を持ち上げた。
手の平には細かいガラスの破片が突き刺さったのか、そこかしこから血が滲んでいる。
私は声を荒げた。
「香木だ……香木を焚け! 今すぐに!」
手の平を見つめていた宰相は、弾かれたように顔を上げた。
「で、ですがそれは……」
「早くしろ!」
枕元にある香木を掴み、宰相の顔面に投げつけた。
宰相のすぐ傍には、燻した香木を入れるための壺が転がっているが、見たところ割れた様子はない。
それでも宰相は、床に落ちた香木と壺を見比べながらしばらく躊躇していた。
だが、苛立つ私の様子を一瞥すると、ようやく倒れていた壺を置き直した。
血の滴る手で香木に火を灯し、朱色に燃える炎を吹き消すと、白煙が絶え間なく立ち昇るのを確認して壺の中へ落とした。
壺口から一筋の線をしならせながら立ち昇る白煙は、私からは遠い位置にある。
「もっとこちらへ寄せろ!」
私の命令に、それまで直立不動だった近衛騎士が動き、白煙が昇る壺を持ち上げ私の足元に置いた。
ゆらりと揺らめく白煙が私の前を通り過ぎ、頭上へと昇っていく。
込み上げる渇望が、ゴクリと喉が鳴らした。
白煙に顔を近付け、思いのままに吸い込む。
甘い香りが口腔内を満たし、脳が痺れるような恍惚感に満たされる。
フッと全身から力が抜け、そのまま後ろへ倒れた。
視界がゆらりとゆらぎ、意識が朦朧とする。
それまで頭の中を支配していた激しい怒り、苛立ち、不快感。
全てが意識の裏側へと溶け込んでいく。
まどろむ意識の中、恐縮しきった宰相の声が聞こえた。
「差し出がましいことを申し上げますが……香木の多用はお体に障ります。せめてご使用の頻度をもう少しお控えいただけませんでしょうか……? 先ほども、恐らくは香木の副作用で……」
先の言葉を濁し、宰相は明言を伏せたが、冷静さを取り戻した今なら宰相が言わんとすることは察した。
――やはり、これは私がやったのか。
室内を荒らした人物が他でもない自分自身であることは理解した。
だが、気に食わない。
ゆっくりと体を起こし、宰相を睨みつける。
「黙れ。私に指図するな」
「……申し訳ありません」
宰相の瞳が、微かに虚ろな眼差しとなっている。
どうやら香木の作用が宰相にも影響を与え始めたようだ。
私は宰相を追い払うように手を振る。
「片付けは後でいい。私はもう少し休む。お前も、私が呼ぶまでは外で待機していろ」
「はっ」
近衛騎士にも退室を促し、茫然と佇んでいる宰相を連れて行くよう目配せする。
近衛騎士に肩を揺さぶられた宰相は、慌てた様子で「失礼いたします」と頭を下げ、足早に退室した。
二人が退室したのを見て、私は枕元に積み上げている香木を掴めるだけ掴んだ。
室内の惨状が視界の隅に映ったが、構わず手にした香木を壺の中へと放り込む。
夢幻の香木――肉体的、精神的な苦痛を緩和し、快楽と安寧をもたらすという稀少な香木。
まさに夢幻の名に相応しい効能をもたらす一方で、強い副作用を伴う。
主な症状としては、幻覚、幻聴、記憶障害、意識混濁といったものがあり、時に錯乱状態を引き起こすこともある。
それらの副作用を鎮める目的で更に香木を使用するという悪循環を招き、依存症に陥りやすい。
香木の乱用は、体内にも深刻な悪影響を及ぼすため、そういった性質から医者の許可なく使用することは固く禁じられている。
医者が香木の使用を認めるのも、回復の見込みのない病人、あるいは重篤な傷を負った者に限られた。
間もなく死を迎える者の苦しみを緩和する手段として、夢幻の香木は重宝されていた。
他ならぬ私自身もまた、かつては香木の使用を認められた人間の一人であった。
北部への侵攻開始から、およそ三十四年――ついにレスティエール帝国軍は大陸の最果てへと到達した。
歴史的瞬間に立ち会うべく、私も帝国軍に同行してその地へ赴いた。
最北の地、海沿いの岬に降り立った私は、帝国旗を高々と掲げた。
三十四年という気が遠くなるほど長い歳月を経て、私はついにこの大陸の全てを手に入れた。
レスティエール帝国が大陸統一を果たすという、新たな歴史を私が作ったのだ。
――この瞬間を、どれほど待ち望んだことか……。
高まる期待と興奮は最高潮に達していた。
私は固く握りしめたそれを力強く大地へと突き立てた。
その刹那、地を揺るがすほどの大歓声が背後から湧き起こった。
「皇帝陛下万歳!」
誰もが声を揃えて唱和する。
「皇帝陛下万歳!」
「皇帝陛下万歳!」
勝利を悦ぶ皆の声が、私に更なる高揚感をもたらした。
感情の昂ぶりも相まって、功労者である皆に対して謝意を伝えたくなった。
皆の者、大義であった、と。
振り返った私は、目の前に広がる光景に思わず目を疑った。
――これが、あの誉れ高き帝国軍か……?
開いた口からは何の言葉も発せられず、私はゆっくりと辺りを見回した。
かつては遠方まで列をなすほどの大軍勢であったはずが、ここにいるのはたったの数百程度。
当然、これが全員でないことは知っている。
各地に留まり、支配下となった土地を奪い返されぬよう守る兵士が多くいることも。
――だとしても、さすがにこれは少なすぎではないか……? それに、なんとみすぼらしい……。
彼らが纏う甲冑は光沢を失い、まるで清潔感がない。
中には壊れた甲冑を繕いもせず身に付けている者や、甲冑すら身に付けず、だらしのない無精ひげを生やした平民と思しき人間も混ざっている。
皇宮から出陣を見送った時の、目も眩むほど壮麗な帝国軍の面影は、もはやどこにもない。
兜から覗く生気のない眼差しや、負傷した体を引きずる姿も見るに堪えない。
疲弊しきった帝国軍の姿に、私はしばし言葉を失った。
だが、すぐに気持ちを割り切った。
――関係ない。今の私には、この大陸の全てがある。軍隊など、いくらでも作り直せばいい。
私は目の前の連中から視線を逸らし、旗のポールを掴む自分の手を見た。
かつての瑞々しさを失い、隠しきれない老いを深々と刻んだ己の手を――。
カランッと音を立て、国旗が倒れた。
水を打ったように人の声が消え、凪を思わせる静寂が場を鎮める。
すぐさま騎士の一人が倒れた国旗を立て直すと、たちまち万歳の唱和が再開された。
その声を、私はどこか遠くで聞きながら、茫然と天を仰いだ。
視線の先には、潮風を受けてはためく帝国旗がある。
旗に描かれたレスティーエル帝国の象徴。
白銀を纏う隻眼の獅子。
皇帝の権威を示す黄金の王冠。
その輪郭が徐々にぼやけ、何が描かれているのかも分からなくなる。
――なぜだ……? あんなにも強く望んでいたではないか……。
つい先ほどまで自分の中で激しく渦巻いていた熱が、今ははたと消え失せていた。
そこにあるのは、幾度も味わってきた虚無感。失望。孤立感。
目的を果たしたのにも拘わらず、昇華されない渇望。
結局、この大陸の全てを手にしたところで、私は何も満たされなかったのだ。
いや……それだけではない。
何の価値も感じられないこの地と引き換えに、決して取り戻すことのできない多くのものを失った喪失感と果てのない絶望が、いつまでも自分の中に取り残されていた。




