34.この奇跡だけは
ジーニアス君の部屋を出た私は、早足で廊下を歩いた。
途中で鉢合わせた侍女のアイシャが、私が手にしている薬箱を見て声を掛けてくる。
「マリエーヌ様。薬箱は私が戻しておきます」
「ありがとう。でも、まだ使いたいから私が持っておくわ。あと、朝食はもう少し後でもいいかしら?」
「あ、はい。では、そう伝えておきますね」
アイシャは少し不思議そうな顔をしていたけれど、私が急いでいるのを察したようで、何も聞いてはこなかった。
アイシャと別れ、私は再び歩き出す。
向かう先は、アレクシア様のお部屋。
部屋に到着してすぐ、私は扉をノックした。
「アレクシア様。マリエーヌです」
しばらくして扉が開き、アレクシア様が姿を現した。
私を見て、少し戸惑うような笑みを浮かべる。
「……マリエーヌ。どうしたんだ? 食事は――」
言い終えるのを待たずして、私はアレクシア様の両手を掴んだ。
「マ、マリエーヌ?」
突然の私の行動に、アレクシア様はほのかに頬を赤く染めて狼狽える。
私は構わず、掴んでいるアレクシア様の両手を自分の目の前まで持ち上げた。
私の手よりも大きくて骨ばった手は、軽く握るようにして拳を作っている。
「傷、見せてください」
はっきりとした声で告げると、アレクシア様は軽く目を見張り、
「……やはり、気付いていたか」
観念するように肩を落とすと、両手の平を私に見せるようにしてそっと開いた。
手の平には、うっすらと血が滲んでいる箇所がいくつもある。
その指先にも、血が付着していた。
「つい、強く握ってしまってな……。手当てをするほどでもないが、この状態で手を繋げば、君の手も汚してしまうと思って……すまない……」
反省するように俯きながら、アレクシア様は表情を曇らせる。
「小さな傷でも、黴菌が入ったら大変です。ちゃんと手当てをしましょう」
「……ああ。そうだな」
素直に応じると、アレクシア様は私を自室に招き入れた。
それから二人掛けのソファーに座り、私はアレクシア様の手の平の傷を消毒した。
「今日一日だけでも、包帯をしておきましょう」
薬箱の中から包帯を取り出し、右手から巻いていく。
「君の傷の処置は、相変わらず丁寧だな」
包帯を巻き終えた右手を見ながらそう言うと、アレクシア様は私が包帯を巻いている左手に視線を移す。
「こうして君に手当てをしてもらっていると、前世を思い出すな……」
そう言って、懐かしそうに口許を綻ばせた。
前世で私は、アレクシア様の体にできていた床ずれの処置をしていたから、それを思い出しての発言なのだろう。
私は無言のまま、包帯を巻いていく。
何度も、何度も、傷がこれ以上悪化しないように。
「マリエーヌ。もうそれくらいで……」
いつまでも包帯を巻いている私をアレクシア様が止めようとした時、ポタッ……と、アレクシア様の手に水滴が落ちた。
「え……?」
アレクシア様が目を丸くして顔を上げ、私の顔を覗き込む。
「マリエーヌ……? どうしたんだ?」
「ごめんなさい……私……」
手が震え、取り落としてしまった包帯が床に転がった。
すぐに拾おうとしたけれど、私の手をアレクシア様の両手が包み込むようにして握ったため、できなかった。
真意を探るような赤い瞳に、ジッと見つめられる。
何か言わないといけないのに、声が詰まって言葉が出てこない。
なんで泣いているのか、自分でもよく分からなかった。
だけどきっと……今、本当に泣きたいのはアレクシア様だと思う。
アレクシア様の記憶に残る、私の死。
それは、二度目の人生を得たとしても、決して消えない心の傷をアレクシア様に植え付けた。
分厚い手の平の皮膚を爪が貫くほど、強く握りしめた拳の中に、いったいどれだけの悔恨がひしめいていたのだろう。
――こんな風に、アレクシア様の心の傷も手当てをすることができたら良かったのに……。
「ごめんなさい……」
こんな謝罪をされたところで、アレクシア様を困らせるだけなのに、その言葉しか紡げない。
「マリエーヌ。君が何を謝る必要があるんだ?」
小さく笑んだアレクシア様が、私の頭を優しく撫でる。
「君は、僕を守ってくれたじゃないか」
そう……。私は、アレクシア様を守ろうとした。
守ろうとしたけれど……守れなかった。
それどころか、アレクシア様の心に消えない傷を残してしまった。
じゃあ、どうするのが正解だったのか……。
それを考えたところで、正解なんてきっと存在しない。
どう抗ったとしても、私たちはきっと殺されていた。
それが、あの世界での私たちの運命だったのだろう。
「マリエーヌ」
アレクシア様の指先が、私の目尻の涙をそっと拭う。
見上げると赤い瞳が優しく弧を描き、私を真っすぐ見つめていた。
「僕を守ってくれて、ありがとう。君のその勇気があったからこそ、きっとこの奇跡は起きたのだと僕は思う」
晴れやかな笑顔でそう言うと、アレクシア様は私の体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「マリエーヌ。愛している」
愛おしそうに紡ぐ言葉が、沈みかけていた心を包み込む。
アレクシア様はいつもそうやって、私の全てを肯定してくれる。
アレクシア様は私に救われたと言うけれど、私だって、そんなアレクシア様の優しさにいつも救われている。
体が触れる箇所から伝わる、アレクシア様の鼓動。
その音と連動するように、私の鼓動も脈打っている。
生きている――私たちは、今ここに、確かに存在している。
手を伸ばし、私もアレクシア様の体を力いっぱいに抱きしめた。
「私も、愛しています。アレクシア様」
私の体を包み込むアレクシア様の腕に力が入るのが分かる。
互いの存在を確かめ合うように、私たちはしばらくの間、抱きしめ合っていた。
私たちが手にした奇跡は、もしかしたら誰かが必要としていた奇跡だったのかもしれない。
誰かの願いを差し置いて、私たちの願いが叶えられてしまったのかもしれない。
それでも私は……この奇跡だけは譲れない。
それがどれだけ罪深いことであったとしても……。
アレクシア様の人生が、後悔の荒波に飲まれたまま終わらなくて良かったと心から思う。
――貴方が今、生きていてくれて嬉しい。……私も、生きていて良かった。
二度目の命は、皆を守るために使うと決めた。
だけど私は、この命も大切にしたい。
同じ傷を、アレクシア様の心に刻ませないためにも……。
私はこれからも、この世界で生きていきたい。
私を愛してやまない最愛の人と共に――。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます!
最終章の前半が終わり、折り返しとなる後半戦…の前に、大変申し訳ないのですが1、2ヶ月ほど休載期間となります。
なるべく早く皆様にお届けできるよう、ラストスパートに尽力して参ります…!
今後とも、何卒よろしくお願いいたします。




