33.兄の意志と共に sideジーニアス
母さんからの手紙を受け取った僕に、マリエーヌさんは説明してくれた。
「アキさんは、私たちの居場所を知らないけれど、宿の修繕をしている職人さんの中に、ウィルフォード騎士団の隊員がいるらしいの。それで定期的に報告書が届くようになっていて、今回の定期報告の中に、アキさんから息子に渡してほしいという手紙が含まれていたみたい」
恐らく職人に混ざっている騎士が、母さんの護衛を担っているのだろう。
母さんの身の安全を知れて、自然と安堵の息が漏れる。
「じゃあ、私はそろそろ行くわね。ジーニアス君も、手紙を読んでからでいいから、朝食はちゃんと食べてね」
朝食のことなんて、すっかり忘れていた。
食欲があるかと言われれば、全くないけど……。
「……はい」
とりあえず素直に応じると、マリエーヌさんはニコッと微笑み、薬箱を持って退室した。
僕がすぐに手紙を読めるよう、気を配ってくれたのだろう。
僕は早速封筒を開け、中の手紙を取り出す。
手紙は、母さんが唯一書くことができる母さんの故郷の文字で書かれていた。
『親愛なる息子たちへ』
一文目から視界が滲み、ゴシゴシと目を拭って続きに目を通す。
『ジーニアス、ルディオス。元気にしているかい? こっちはボロがきてた箇所の修繕をしてもらって、見違えるほどきれいになったんだよ。もう隙間風や雨漏りに悩まされる必要もないし、夜もよく眠れるようになってね。あんたたちはそっちでちゃんと眠れてるのかい? 枕が変わって眠れないのなら、ちゃんと言いなよ。必要ならこっちで使ってたのを送ってやるからね。それと、ご飯は食べてるのかい? ご飯だけはしっかり食べないと駄目だよ。腹が減ってちゃ元気も出ないし、気が滅入るってもんだよ。できることなら私の料理を送ってあげたいところだけどね、さすがにそういうわけにもいかないからさ。何度でも言うけど、ご飯はちゃんと食べるんだよ』
それからも、『風邪を引かないよう温かい恰好するんだよ』とか『旦那さんの言う事はちゃんと聞いて、人様に迷惑かけんじゃないよ』とか『何か困ってることがあれば伝えないといけないよ』と、お小言というほどでもないけど、母さんらしい文言が続いた。
読みながら、脳内で母さんが手紙を読み上げる声まで聞こえてきて、何度も文字が滲んで読み進めるのが少し大変だった。
『いつかあんたたちが私のもとから離れる日がくるってのは、なんとなく分かってたんだ。今更あんたたちが何者かなんて詮索するつもりはないけど、何があっても、二人が私の息子であることには違いないからね。こうして離れていても、私たちはちゃんと繋がっているんだよ』
――繋がっている……僕も、そう思う。
僕たち三人は、見えない何かで確かに繋がっているんだって。
『だけど、もしも辛くなったり、疲れたりしたら、またいつでも帰っておいで。そしたら、あんたたちの大好きなおにぎりをたらふく食べさせてやるよ。お腹がいっぱいになったら、温泉に浸かって芯まで温まって、ふかふかのベッドで眠ればいい。それだけでも、十分幸せじゃないか』
記憶の欠片が弾けるように、母さんと過ごした日々が、色鮮やかに蘇る。
母さんの作るおにぎりにはいろんな種類があった。
塩だけで味付けしたもの以外にも、甘辛く煮詰めた昆布、塩焼きした魚、甘酸っぱい梅干しなどが入っているものもあって、僕は昆布が一番好きで、兄さんは意外にも梅干しが気に入っていたらしい。
だから、買い出しのために遠出する時は、母さんは決まって僕たちの好物が入ったおにぎりを持たせてくれた。
――母さん……。
小さい頃、本を読みながらうたた寝してしまった僕を、「仕方ないねえ」と言いながらベッドに寝かせ、布団を掛けてくれた。
僕が出掛ける時は、姿が見えなくなるまで見送ってくれて、寒い日に薄手の服で出掛けようとすると、これでもかと言うほど厚着にされた。
どんなに帰りが遅くなっても、母さんは必ず起きて待ってくれていて、冷めてしまった食事を温め直してくれた。
頬を伝った涙が、ぽつりぽつりと手紙に滴り落ちる。
手紙を持つ手が震え、胸が押し潰されてしまいそうな恋しさに襲われ、手紙を掻き抱いた。
――母さん……。
もしもこの先、自分の進むべき道が分からなくて、動けなくなってしまったとしても……僕には帰る場所がある。
温かい食事があって、寝床があって、僕を迎え入れてくれる家族がいる。
それがどんなに幸せなことなのかも、僕には痛いほど分かる。
七年前、地の底で横たわる僕に、救いの手を差し伸べてくれたのは母さんだった。
母さんとの出会いは、僕の身に起きた二度目の奇跡だった。
いや、初めて兄さんと出会えた時から、きっと奇跡は起きていたんだ。
僕はもう、十分与えられていた。
幸せになるために必要な奇跡を。
底辺だとか、階級がどうだとか、人と比べる必要なんてない。
誰がなんと言おうと、僕は幸せだったんだ……。
――母さんに会いたい……。
今すぐにでもここを飛び出して、母さんに会いに行きたい。
そしたらきっと、「もう帰ってきたのかい?」なんて笑いながら僕を迎え入れてくれる。
何も成し遂げられなくて、どんなに情けない僕でも、母さんは変わらない愛情で僕を抱きしめてくれるはずだ。
――それなら、僕はもう……。
『本当に、それでいいのか?』
ふと、兄さんの声が聞こえた気がした。
「兄さん……?」
思わず辺りを見回した。
当然、部屋の中は僕一人だけ。
――気のせい……かな。
茫然としたまま何もない空間を見つめていると、自然と笑みが零れた。
軽く頭を振り、ぽつりと呟いた。
「それでいい……はずがないよね。兄さん」
そうだ。僕はまだ、何もしていない。
始めてすらいないのに、何かを成し遂げられるはずがない。
何もしないまま、母さんのところへ帰るなんて、兄さんが知ったらなんて言うだろう。
たとえ兄さんが僕の中から消えてしまったのだとしても……この命は僕だけのものじゃない。
いつまでも過去に囚われ、嘆くばかりでいるのはもうやめだ。
僕が見据えるべきは、この先にある未来。
そのためにも、僕たちには成すべきことがあったはずだ。
――思い出せ……僕たちの目的を……。
瞼を閉じ、余計な思考を全て消し去り、今の自分に必要な情報だけを拾い上げる。
現状、ディーランド大陸の西部では、大陸統一を目指す勢力が侵攻を進めている。
母さんが住んでいるヤシャという国は、ディーランド大陸東部に位置する小さな国。
辺境の地であるため高齢化が進んでおり、軍事力なんて無いも同然。
他国からの侵略を受ければ成す術もなく陥落する。
このまま侵攻が進むようなら、ヤシャも無事では済まされない。
母さんだけを守るならば、母さんを連れてディーランド大陸から退避すればいい。
だけどあの地には、母さんの旦那さんが遺した宿、気心の知れた友人、宿の常連客。
それと、そこにしかない多くの思い出がある。
僕は、母さんが大切にしているものを、何一つとして失わせたくはない。
悲しい思いもさせたくはない。
僕は今まで、母さんから多くのものを与えられ、大切にされてきた。兄さんからだって、たくさんのものをもらってきた。
それなのに、僕はまだ二人に何も返せていない。
与えられて、受け取るばかりが当たり前になっていて、僕自身は何もしようとしてこなかったから。
だけど、これからは違う。
兄さんにはもう、何を返すこともできないけど、母さんを守ろうとしていた兄さんの意志は、僕が受け継ぐ。
そして母さんのことも、母さんが大切にしているもの全てを、僕が必ず守ってみせる。
それが、僕が二人に対してできる唯一の恩返しだ。
そのためにも、今の僕に必要なのは、国をも動かす強大な力。
僕の体に流れるあの男と同じ血を利用すれば、それを手にすることができるはずだ。
――レスティエール帝国皇帝の座を、あの男から奪い取る……!
その決意と共に、僕の体の内側が熱を灯したように熱くなる。
僕の中に眠っていた闘志が、目覚めるような感覚だ。
そんな熱が、自分の中に存在していたという事にも驚いた。
直後、ぐぅーと、気の抜けるようなお腹の音と共に、燃え滾っていた熱が瞬時に鎮火した。
急な空腹感に襲われ、思わずお腹を押さえる。
「ご飯……食べないとな」
ここに来てから、初めて食欲が湧いた気がする。
生きるための本能が、ようやく機能し始めたのかもしれない。
顔を上げれば、目の前を覆い隠していた前髪がなくなり、大きく開けた視界が広がっている。
目を覆いたくなるような眩しさにも、今はこうして向き合える。
もう、自分の存在を隠す必要はない。
姿を偽る必要もない。
――僕は僕のままで、この世界を生きていけばいいんだ。
僕は立ち上がり、まっすぐ前を向いて歩き出す。
今、ここから始めるために。
ふいに暖かな風が頬を撫でた気がして、横に顔を向けた時、
「あ……」
と声が漏れ、足を止めた。
壁際に立て掛けられている姿見へと歩み寄り、そっと手を伸ばす。
「兄さん……そこに居たんだ……」
触れた姿見に映し出されていたのは、夢の中で会った兄さんの姿そのものだった。
次回更新は2/26(木)です。
次回の更新で最終章の前半部分が締めくくりとなり、後半の準備のためしばらく休載となります。




