32.悲しみに囚われて sideジーニアス
マリエーヌさんが左手の包帯を解くと、出血はすでに止まっていた。
あまり認めたくはないが、あの人の処置の腕は確かだったようだ。
マリエーヌさんは、傷口の血を拭い、新しいガーゼを当て、真っ白な包帯を丁寧に巻いていく。
それを茫然と眺めていると、ふいにこれまでの自分の発言を思い出し、気まずさと後ろめたさに襲われた。
ひどい事を言ってしまったという自覚はある。
マリエーヌさんは何も悪くないのに、自分が思うようにいかないからって、成功している人を一方的に妬んで、八つ当たりまでして……本当に、ガキだと思う。
それに、マリエーヌさんに当たるのはこれで二度目。
一度目は、山火事が起きた日。
宿に残る母さんを説得して連れ出すと言ったマリエーヌさんに、僕はひどく苛立った。
自分ができないと諦めた事を、それも赤の他人が成そうとしている事に、冷静でいられなくなった。
僕が無理だと言っても、マリエーヌさんは決して諦めなかった。
普段はあんなにおっとりとしているのに、あの時のマリエーヌさんは違った。
強い意志を秘めた真っすぐな眼差しも、何を言われようとも屈しない凛然とした振る舞いも、初めて見る姿だった。
その強かさを前にして、僕は正直、敵わないと思った。
そんな風に、僕だって強くなりたかった。
だけど、現実の自分はどこまでも卑屈で、それでいて、どうしようもなくひねくれていた。
僕は、母さんの説得を、マリエーヌさんに託したくなかった。
赤の他人じゃなくて、兄さんに母さんを説得してほしかった。
兄さんならきっと、母さんを助けられる。
絶対に、母さんを助けてくれる。
だから、兄さんが出てくるまでは、マリエーヌさんを行かせたくなかった。
どうにか引き止めようと、『綺麗事が好きだよね』なんて、思いつく限りの嫌味をぶつけて心を折ろうとした。
傷つくと分かっていて、言葉で攻撃した。
マリエーヌさんは、ただ母さんを助けようと必死になっていただけなのに……。
僕は、自分の気持ちを優先するために、マリエーヌさんを必要以上に傷つけていたんだ。
『悪い事をしたって分かってんなら、ちゃんと謝るのが筋ってもんだよ』
ふと、母さんの言葉が過り、その言葉に後押しされるように、僕は口火を切った。
「ごめんなさい」
「え?」
包帯を巻いていた手を止めて、マリエーヌさんはキョトンとした顔で僕を見る。
「さっき、色々と一方的に責めるようなことを言ってしまったから……。自分がうまくいかないからって、人に当たっていい訳じゃないのに……。だから、ごめんなさい」
マリエーヌさんは、何度か目を瞬かせた後、クスッと笑った。
「大丈夫よ、私は気にしていないから、ジーニアス君も気にしないで」
おっとりとした口調でそう言うと、マリエーヌさんは再び包帯を巻き始める。
だけど、「気にしていない」というマリエーヌさんの言葉が、僕に気を遣わさないための嘘であることは見抜いている。
だって、マリエーヌさんは確かに傷ついていた。
辛そうにもしていた。
そんな姿を見て、僕が少しだけ溜飲を下げていたのも事実だ。
自分の性格の悪さにつくづくうんざりしながら、僕はもう一つの謝罪へと移る。
「それと、もう一つ謝らないといけない事があって……。山火事が起きた時も、母さんを説得に行こうとするマリエーヌさんを引き止めて、わざと傷つけるような事を言ってしまって……本当にごめんなさい。マリエーヌさんは、母さんを助けようとしてくれていたのに……実際に、母さんを救ってくれたのに……」
マリエーヌさんは、母さんの命の恩人だ。
悔しいけど、マリエーヌさんは本当に母さんを救ってみせた。
僕が、できなかった事を……。
そこでふと、何かが引っかかった。
――できなかった……? ……違う……僕は……何もやらなかったんだ。
思いのままに動く手足はあった。
だから、すぐにでも宿へ駆け戻り、閉ざされた扉を自らの手で開くことができたはずだ。
自分の気持ちを口にする声も、僕には備わっていた。
だから、伝えればよかったんだ。
僕の正直な気持ちを。
母さんにこれからも生きていてほしいって。
ただそれだけでよかった。
たとえ拒絶されたとしても…何度でも伝えれば、何かが変わっていたかもしれない。
あの人の言う通りだ。
僕は何もかもを兄さんに押し付けて、自分が傷つくのが嫌で、現実から目を逸らして、逃げていただけだ。
じわりと視界が滲む。
――僕は、できなかったんじゃない。何もやらない事を自ら選んだんだ。
「ジーニアス君」
優しく呼び掛けられると同時に、ぽんっと肩に手を置かれた。
僕は素早く瞬きを繰り返し、顔を上げる。思ったよりもマリエーヌさんの顔が近くて、少しだけ身を引いた。
だけど、マリエーヌさんにとってはなんて事もなかったのだろう。
僕の左手に視線を向け、平然と告げた。
「これでしばらくは大丈夫だと思うわ。もしもまた血が滲んできた時はちゃんと教えてね」
いつの間にか、左手の処置は終わっていた。
「あ……ありがとう……ございます……」
綺麗に巻かれた包帯を見つめたまま、ぎこちなくお礼を告げる。
すると、マリエーヌさんはフフッと朗らかに笑った。
「あと、さっきの謝罪についても、本当に気にしなくて大丈夫だから」
またもや僕の謝罪は「大丈夫」の一言であっさりと受け流されてしまった。
とはいえ、このまま何のお咎めも無いというのも、どうなのだろう……。
母さんのように、拳骨を落とすような人ではないと思うけど、マリエーヌさんは本当にそれでいいのだろうか……。
そう思った矢先、
「そういえば、私もジーニアス君に言わなければならない事があったわ」
と、マリエーヌさんが唐突に言い出したので、僕は緊張に身を固くした。
これまで散々、好き勝手言われてきたのだ。
マリエーヌさんにだって、僕に言いたい事はあるだろう。
もしかしたら、『大丈夫、気にしないで』と相手を安心させて、そこから重い一撃を与えるタイプなのかもしれない。
――……どんな言葉でも、ちゃんと受け止めよう。
半ば覚悟を決めて、僕はマリエーヌさんの言葉を待った。
「ジーニアス君。アキさんを救ったのは、私ではないわ」
「……え?」
全く予想外の発言に、反応が一瞬遅れた。
マリエーヌさんは苦い笑みを浮かべ、少し遠くを見やる。
「私だけではアキさんを説得できなかったの。アキさんが立ち直れたのは、あなたとルディオス君。それと、アキさんの旦那様の存在があったからよ」
そう言うと、マリエーヌさんは、当時の母さんとのやり取りについて教えてくれた。
母さんは、やはり宿に残り死のうとしていた。
それを止めるために、マリエーヌさんは説得を試みたものの、全く意味をなさなかったという。
「私は、アキさんが旦那様との約束を守り、最後まで宿を守るために残ろうとしているのだと思っていたの。だけど実際は、アキさんは死にたがっていた。旦那様を失った悲しみに囚われて、その苦しみから解放されたがっていた」
――知っている。だから、説得は無理だと思ったんだ……。
毎晩、母さんは苦しんでいたから……。
死にたくても死ねなくて……ずっと……。
「アキさんの心は、旦那様を失った時の自分に戻っていた。旦那様だけが心の支えになっていた時の頃に……。だから私は、ジーニアス君の話を持ち出して、アキさんに思い出させてあげたの。過去に縛られていたアキさんを現実に連れ戻したのは、ジーニアス君との絆だった。もちろん、ルディオス君もね。私はその架け橋役になっただけよ。あとは、旦那様からの手紙も遺っていたの」
手紙の詳細はマリエーヌさんも分からないという。
ただ、母さんが端的に話をしてくれたものによると、『宿を守る必要はない』『これからを生きるかは自分で決めてほしい』という内容が書かれていたらしい。
それは、自分の死後も、宿を守り続けてほしいという呪いの言葉で、母さんの命をこの世に引き止めようとした男による、呪いの解呪だったのかもしれない。
それでも、母さんは自分の意志で生きる事を選んだ。
過去に縛られ続けていた母さんが、未来へと視野を広げたのは、僕たちの存在があったからだという。
「アキさんは、ジーニアス君と過ごす日々を楽しかったと言っていたわ。自慢の息子だって」
マリエーヌさんは、僕の話を持ち出したと言うけど、母さんの中では、僕だけでなく兄さんの事も思い出していたに違いない。
母さんは、僕と兄さん、どちらかを贔屓することもなく同じように愛してくれていたから。
僕も、母さんと過ごす日々が楽しかった。
怒られる事もあったけど、それでも、僕のために怒ってくれる母さんの愛情が、嬉しかった。
僕にとっても、母さんは自慢の母親だ。
「アキさんにとって、ジーニアス君とルディオス君との出会いは、『生きていて良かった』って思える出来事だったのよ」
――僕もだよ……母さん……。母さんと出会えて、『生きていて良かった』って思えたよ……。
込み上げるものを必死に呑み込んで、ギリギリのところで耐える。
僕に皇帝の資質があると言ってくれたマリエーヌさんの前で、涙を流したくはなかった。
僕も、あの時の母さんと同じだった。
母さんが、過去の悲しみに囚われて、僕の存在を認識できなかったように……僕も、兄さんを失った悲しみに囚われて、周りが見えなくなって……一人だけになってしまったという喪失感と孤独に嘆いて……母さんの存在に気付けなかった。
母さんだって、僕にとっては掛け替えのない大切な存在だ。
たとえ血の繋がりはなくても、僕たちはきっと、見えない何かで繋がっている家族だから。
パタンと、マリエーヌさんが薬箱の蓋を閉じた。
僕は、瞳を覆う涙の膜を必死に瞬かせながら散らしていく。
「ジーニアス君。これ」
ふいに、一通の封筒を差し出された。
そういえば、薬箱とは別に、侍女が何かをマリエーヌさんに手渡しているのが見えたけど、それがこれだったのだろうか。
「アキさんからの手紙よ」
「……母さんが?」
驚きに目を見張りつつ、受け取った封筒をひっくり返す。
宛名には、確かに母さんの名前が綴られていた。




