31.皇帝の資質 sideジーニアス
パタン……と、扉が閉じる音がして、ふと我に返った。
顔を上げると、マリエーヌさんと目が合って、思わず視線を逸らしてしまった。
なんとなく気まずい。
さっきまでマリエーヌさんの隣に座っていた男は、いつの間にか姿を消している。
その事に少しだけ安堵すると同時に、ドッと疲労感が押し寄せた。
あの男が語った、二人の前世についての話。
それを、僕はどう受け止めればいいのか分からなかった。
一度死んだ二人が、時を回帰し、今を生きていること。
とても信じ難い話を平然と語るものだから、もしかしたら、僕を説得するために生み出した作り話かもしれないと、疑いもした。
ただ、今も耳に残る、冷静さを失った男の嘆きとも思えるような悲痛な叫び。
とても演技とは思えなかった。
二人の言う前世とは、本当に存在していた世界なのかもしれない。
その世界で、あの男は不運な事故によって、体の自由を奪われ、人としての尊厳を失った。
そしてマリエーヌさんは、そんな夫をたった一人で献身的に支え続けた。
そうして過ごした日々が、二人の絆を強く結びつけ、関係を深めていった……と……?
「マリエーヌさんは、どうしてあの人の世話なんてしていたの?」
「え?」
マリエーヌさんはキョトンとして目を瞬かせる。
自分でも唐突すぎる質問だったと思う。
だけど、ずっと引っかかっていた。
「マリエーヌさんは、あの人にずっと無視されていたんだよね。使用人から蔑まれるあなたを守ろうともせず、そもそもあなたが使用人から蔑まれている事に気付いてもいなくて……。そんな人間を、わざわざ世話してあげる義理なんてなかったんじゃないの? 誰も見ていないなら、使用人みたいに世話をするふりだけでもよかったのに」
あの人の話を聞いて、初めて知った。
マリエーヌさんは、最初からあの人に好かれて結婚した訳ではなかったのだと。
それどころか、幸せな婚姻とは程遠い、義父により金で売られたような婚姻だったという。
そして、結婚して一年間。
マリエーヌさんは夫と会話すらした事無く、ずっと存在を無視されていたらしい。
夫からだけでなく、使用人たちからも蔑まれながら、一人孤独な日々を送っていたという。
それを聞いて、僕はマリエーヌさんに対して誤解していたのだと気付いた。
僕の目から見たマリエーヌさんは、誰からも愛されて、大切にされて……まるでこの世の神から特別な待遇を受けて生まれてきた人のように思っていた。
きっと、この世の不幸なんて知らないまま、あらゆるものに恵まれながら生きてきたんだろうと。
だからここに来てからも、危機感が無くて能天気なマリエーヌさんを見て苛立ちを募らせていた。
それを甘やかすあの男に対しても。
だけど、違った。
マリエーヌさんもまた、孤独な世界の中で生きていたのだと知った。
――僕と似ている。
初めてマリエーヌさんに対して仲間意識を抱いた瞬間だった。
だけど、理解できなかった事もある。
その一つが、今投げかけた問いだった。
マリエーヌさんは、何かを思い出すように視線を漂わせ、ふいに閃いたように笑みを零した。
「そういえば、レイモンド様にも同じことを言われたわ」
それは、今世でのレイモンドさんなのか。
それとも、前世でのレイモンドさんなのか。
素朴な疑問が過ったけど、今は無視することにした。
どちらにしろ、それまでの二人の関係を知っている者なら、誰でも同じ疑問を抱くだろう。
「正直に言うと、アレクシア様が事故に遭ったと聞いた時、最初は何も思わなかったの。自分の夫の話なのに、まるで知らない人の話を聞いているようで……。それくらい、あの時の私とアレクシア様の関係は希薄なものだったの」
事故に遭ったという話も、直接自分にはされず、使用人の話を盗み聞いたのだと、マリエーヌさんは補足した。
「それなら尚更、あの人に親切にする必要なんてなかったんじゃない」
少し食い気味に問いかけると、マリエーヌさんは控えめに笑う。
「だけど、私は知っていたから……。誰にも相手にされず、一人の人間としても認識されず、まるでこの世界から取り残されてしまったような孤独の辛さを……」
「そんなの、あの人だってあなたを孤独にしていた張本人でしょ。それが自分の身にも降りかかったのであれば、それはあの人の自業自得だ。因果応報ってやつだよ」
母さんも言っていた。
悪い行いをすれば、それは回り回って自分に返ってくるのだと。
あの人の過去を知った今、それは僕の中で強い説得力を持つ言葉となった。
あの人の悪行なんて、ひっくり返せばいくらでも出てくるはずだ。
その犠牲となった人間はきっと、いい気味だと笑っていたに違いない。
マリエーヌさんは少し困ったように笑うと、僅かに目を伏せた。
「私が初めてアレクシア様のお部屋を訪ねた時、アレクシア様はすでに孤独の中にいたの。それが因果応報だというのなら、もう十分と思えるほど、その辛さを味わっていた。そしてその辛さを、私は想像できた。だから、私はアレクシア様の力になりたいと思ったの。私には差し伸べられる手があったから、差し伸べた。ただそれだけよ」
それだけ……と、簡単に言ってみせるのが、この人の凄いところだと思う。
普通なら、一年間も自分を無視し続けた相手に手を差し伸べようなんて思わない。
むしろ、「ざまあみろ」と罵る方が気持ちも晴れるだろう。
――やっぱり、マリエーヌさんはお人好しが過ぎると思う。
その言葉は、心の中だけに留めて置いた。
マリエーヌさんは、どこか遠くを見るような眼差しを窓へと向けた。
窓からは、色鮮やかな花が咲く庭園が見えている。
「毎日を一緒に過ごしているうちに、少しずつアレクシア様の眼差しが柔らかくなっていって……そんな些細な変化が、私はとても嬉しかったの。そのうち一人で過ごす時間よりも、アレクシア様と過ごす時間の方が多くなって……気付けば、一人でいる時よりも、アレクシア様の傍にいる時の方が、居心地が良いと思うようになっていたの。……アレクシア様の隣が私の居場所なんだって、自然と思えるようになった。アレクシア様だって、きっとそう思ってくれているって……勝手に思っていたわ」
「……居場所……」
ふと、兄さんと過ごした日々が頭を過った。
僕も当初は、突然現れた兄と名乗る人物を警戒していた。
そもそも、母親以外の人間と交流した事のない僕は、どんな風に人と接すればいいかも分からなかった。
兄さんを警戒する僕の態度もひどかっただろうし、会話だってかなりぎこちなかったと思う。
それでも、兄さんは僕の部屋に足繁く通ってくれた。
気付けば、兄さんが来てくれるのを楽しみにしていて……自然と笑えるようにもなっていて……。
そう思うと、二人が関係を築いた過程と、僕が兄さんと関係を築いた過程は似ているような気がした。
だから二人は、互いに信頼し合える。
何にも惑わされない強固な絆で繋がっているから。
そう納得できた。
「ジーニアス君は、皇帝になるのは嫌?」
今度は僕の方が唐突に質問を投げかけられた。
――嫌……?
そう問われると、咄嗟に答えられなかった。
ずっと、兄さんが皇帝になるべきだと思っていたし、自分がなれるとは思っていなかったから……。
「……自分でもよく分からない。だけど僕には、皇帝の資質がないと思う……」
結局、そんな答えに辿り着く。
これをあの人が聞けば、また罵声を浴びせられるかもしれない。
「皇帝の資質とか、私にはよく分からないけれど……」と、マリエーヌさんは口元に手を添えながら思案顔となる。
その顔がスッと動いて僕を見据えた。
「私は、ジーニアス君みたいな人が皇帝になって、国を治めてほしいと思うわ」
「え……?」
まさかマリエーヌさんにそんな事を言われるとは思わず、僕は目を丸くして固まった。
マリエーヌさんは、何かに納得するように一つ頷き、口を開いた。
「だって、ジーニアス君なら、身寄りのない子供たちの孤独や、飢えの苦しみ、社会から弾かれ困窮する人々の気持ちが想像できると思うの。そういうのって、大きな権力を持っている人ほど理解されないものだと思うし……。だけど、ジーニアス君ならきっと、そういう人たちの心に寄り添える。皇帝という確固たる地位があれば、そういう人たちに救いの手を差し伸べられる。誰一人として取りこぼすことのない、皆が安心して笑って過ごせる世界を、ジーニアス君なら作り上げることができると思うの」
「……」
啞然としたまま、僕は完全に言葉を失ってしまった。
――それってつまり……僕が皇帝になって、貴族も庶民も、その括りにすら入らない人々も全て、平等に過ごせる世界を作り上げろと……?
あまりにも漠然とした理想論を前にして、軽い眩暈を覚える。
それでも、僕に注がれている期待の眼差しには一切の翳りもない。
今、本気で皇帝になるのが嫌だと思った。
そんな期待をしているのなら、勘弁してほしい。
――そんなの、無理に決まっている。
仮に、もしもこの世の全ての人間がマリエーヌさんみたいな善人であれば、そんな理想も実現できたかもしれない。
だけど、現実は違う。
そもそも善人だけが存在する世界なら、貴族階級なんてもの事態が存在しなかったはずだ。
人間はすぐに優劣を競い、階級を付けたがる生き物だ。
そういった階級を定義しようとする人間も、優劣の上位に降り立つ人間だ。
そうやって、自分よりも下の人間を見下ろしながら優越感に浸りたいのだろう。
それは階級上位に位置する貴族だけでなく、下位の庶民も同じだ。
はっきりと定義された階級はなくとも、目に見えない階級が多く存在する。
大まかに言うと、貧困の差。
自分の家を所持しているか。どんな家か。
住んでいる場所はどこか。
身に付けているもの。
教養の有無。
そういったものに注目しながら、人々の視線は常に自分よりも下の人間を探している。
上を見上げるよりも、下を見る方が楽なのだ。
僕は、常に見下ろされる側だった。
人々は僕を見下ろしながら、「可哀想」と、同情するふりをしながら心の中でほくそ笑み、「自分はまだ恵まれている。さあ、今日も一日頑張ろう」なんて、勝手に生きる活力にする。
僕が見下ろす先には誰も居ない。
常に硬くて冷たい地面があるだけで、ここが底辺なのだと思い知らされる。
そこから生きる活力なんて湧き上がるはずもない。
苦い過去が頭の中を巡り、思わず苦笑する。
――確かに、僕には分かる……。そういう人たちの気持ちが。
もしも僕が、普通に皇子として何不自由なく恵まれた生活をしていたのなら、きっと分からなかった。
そういう存在が居る事にすら、気付かなかったかもしれない。
だけど、僕はもう知っている。
この世には、そういう世界でしか生きることのできない人たちがいるのだと。
――僕は、そういう人たちの心に寄り添い、手を差し伸べることが、できるのかな……。
その時、扉がノックされ、木箱を持った侍女が入室してきた。
「マリエーヌ様。薬箱をお持ちしました。包帯とガーゼも中に入っているのを確認しました」
「ありがとう。あとは私がやるわ」
マリエーヌさんは侍女から受け取った薬箱をローテーブルに置くと、体を僕の方へ向けるようにして隣に腰掛けた。
「ジーニアス君。左手の傷を見せてもらってもいいかしら?」
「え? ……あ」
自分の左手を見た瞬間、勝手に声が出た。
白かったはずの包帯の中央が広範囲に赤く染まっている。
途端、思い出したようにズキズキと傷が痛みだした。
僕は素直にマリエーヌさんの方へ左手を差し出した。




