30.消えない過去
アレクシア様は、前世での出来事を過去から辿るように、ジーニアス君に語った。
馬車の事故により、体の自由と声を失ったこと。
それをきっかけに、自分に仕える使用人から屈辱的な扱いを受けていたこと。
公爵としての権威だけでなく、人としての尊厳を失い、自尊心すら保つことができず、ただ絶え間ない苦痛だけを与えられるだけの日々。
そんな毎日を、地獄のように感じていたことも。
アレクシア様の口から語られる、使用人からの虐待とも思える生々しい仕打ち。
その詳細を聞くのは、私も初めてだった。
ふいに、初めてアレクシア様の部屋を訪れた日の事を思い出した。
アレクシア様の痩せ細った体。
こびりついた目ヤニ。
真っ青に染まった両腕に残る、無数の針の跡。
体のあちこちに刻まれた青あざ。
ただれた床ずれの数々。
ひどい状態だったのは、その体だけではない。
埃まみれの家具。
シミだらけの不潔な寝具。
いつの食事かも分からない汚れの付いた車椅子。
調理場に無造作に置かれていた、冷たくて味のしないペースト状の料理。
碌に仕事をしない使用人たちの怠慢を咎める者は一人もいなかった。
もしもアレクシア様が、一言でも声を発することができていたのなら、使用人たちは態度を改めていたはず。
それか、僅かでも体を動かすことができていたのなら……。
だけど、できなかった。
あの時のアレクシア様には、何ひとつとして、できなかった。
使用人の話に区切りをつけ、今度は私がアレクシア様のお世話をするようになった話になると、アレクシア様の表情は一転し、キラキラと瞳を輝かせながら嬉しそうに語り始めた。
それまでの地獄のような日々が、私が現れたことによって全てが変わったのだと……。
温かくて美味しい食事を食べられるようになった。
体が清潔になり、不快感がなくなった。
床ずれが治療され、纏わりつく異臭と痛みから解放された。
部屋が清潔になり、呼吸が楽になった。
部屋から出て、外の空気が吸えるようになった。
中庭に咲く花々を見て癒されるようになった。
夜、ゆっくり休めるようになった。
穏やかな気持ちで、朝を迎えることができた。
それは、なんて些細なことだろうか。
だけど、そんな些細なことを、アレクシア様はとても幸せそうに語っている。
そんな些細なことが、あの時のアレクシア様にとっては当たり前ではなかった。
隣で話を聞きながら、私はアレクシア様に気付かれないよう、少しだけ泣いた。
どうしてか、込み上げる涙を抑えられなかった。
その後も、義妹が訪れ、公爵の証でもある指輪を奪われそうになったこと。
レイモンド様が訪れ、辺境にある施設へ自分だけ入れられそうになったこと。
そして、私の幸せを考え、自ら死のうとしたことも、公爵様は包み隠さず語った。
「だが、こんな僕でも、マリエーヌは必要としてくれた。僕が死んだら悲しいと言ってくれた。だから僕は、マリエーヌと生きたいと思った。マリエーヌと一緒に生きていこうと」
精悍な顔つきでそう語ったアレクシア様の表情が、次の瞬間に陰った。
「しかし……」
しばらくの沈黙を挟み、アレクシア様は静かに告げた。
生きる意志を取り戻したその夜、自分に恨みを持つ人間の差し金により、公爵邸は襲撃され、僕たちは殺された――と。
数秒間の静寂の末、アレクシア様は続けた。
「あの時、僕たちは確かに死んだ。だが、僕は再び目を覚ました。事故によって体が不自由になる前の自分として」
「――⁉」
驚愕の表情となったジーニアス君が、アレクシア様を食い入るように見つめる。
その視線がゆっくりと横へ移動し、私の視線とぶつかった。
真相を求めるような青い瞳に、私は少しだけ苦笑いを作る。
「私は、アレクシア様が目覚めた時、前世での記憶はまだなかったの。だから、急に態度が変わったアレクシア様を見て困惑していたわ。私だけじゃない、あの時は皆が戸惑っていたわね」
それまで一度も呼んだことのない私の名前を叫びながら、私の姿を探し求めるアレクシア様に、公爵邸は騒然となった。
あの時の私は、どうしてアレクシア様が私を探しているのか見当もつかず、何か怒らせるようなことをしたのではないかと、ハラハラとしながら部屋にいた。
謝る準備もしていたし。
それがまさか、突然愛を囁かれることになるなんて……。
「私が前世での記憶を思い出したのは、それから半年ほど経ってからよ。アレクシア様と前世での記憶の擦り合わせもしたけれど、間違いないわ。私たちは、確かに同じ世界を生きていたの」
それを聞いても、ジーニアス君はまだ信じられないという顔で私たちを交互に見つめる。
どうして私たちが時間を回帰したのかは分からない。
それについては、アレクシア様も「奇跡としか言えない」と説明した。
奇跡という言葉に、ジーニアス君は僅かに反応を見せた。
ジーニアス君自身も、死んだはずのルディオス君の魂が身に宿るという奇跡を経験している。
だからこそ、思うところがあったのだろう。
それからは、今世では体が不自由となる原因となった事故を未然に防いだこと。
これまでの私に対する態度を改め、前世で伝えられなかった想いを惜しみなく伝えていることを補足して、アレクシア様は話を終えた。
「あなたたちは、一度死んで……時間を回帰したってこと……?」
やはりすぐには信じられないようで、ジーニアス君はこめかみを押さえながら困惑している。
「信じる信じないはお前の好きにしろ。僕は約束通り、話をしただけだ」
「……」
難しい顔となり、ジーニアス君はテーブルに視線を落とす。
その様子をしばらく見つめた後、私はアレクシア様を見上げた。
アレクシア様は、どこか冷めた眼差しをジーニアス君へ向けている。
その姿からは、何の感情も読み取れない。
けれど、私がどれだけ見つめていても、私とアレクシア様の視線が交わることはなかった。
ふいに、ジーニアス君が沈黙を破った。
「そうだね……。確かにそれが事実なら、あなたがそこまでマリエーヌさんに固執するのも頷ける」
そう言うと、ゆったりとした動作で顔を上げ、アレクシア様と私を交互に見た。
「よかったね……あなたたちは。やり直せたんだから。自由な体を取り戻して、死ぬはずだった運命も覆して、お互いに想い合って、大切な人と幸せな日々を過ごせて……本当に羨ましいよ」
毒気をたっぷりと含めたようなジーニアス君の口調に、私はひどく居たたまれない気持ちになる。
だけど、そう言われるのは覚悟していた。
私だって、もし逆の立場だとしたら、同じように思っただろう。
「僕だって、出来ることならやり直したかった。もう一度だけでいいから……チャンスが欲しかった。そしたら、兄さんだって殺されずに済んだはずなんだ」
「それは無い」
「⁉」
きっぱりと言い切ったアレクシア様に、私とジーニアス君が揃ってアレクシア様を見る。
アレクシア様は、組んでいた足を悠然と組み直す。
「たとえ時間を回帰したところで、ルディオスが死ぬのは確定していた」
「なっ……どうして、そう言い切れるの」
「もしもルディオスが生きていた場合、皇帝の命令により、僕がルディオスを殺していたからだ」
「……!」
言葉を詰まらせるジーニアス君に、アレクシア様は抑揚のない声で続ける。
「皇帝の命令ならば、僕は確実に遂行する。場合によってはお前のことも殺していただろう」
アレクシア様の赤い瞳がスッと細められ、氷のように冷たい眼差しがジーニアス君を貫く。
私はその光景を想像してしまわないよう、何度も目を瞑って思考を振り払った。
「僕たちと同じように、お前が時を回帰して兄の死を覆そうとしたところで、望んだ結果になるとは限らない。少なくとも、今のお前を見る限り、何も変えられなかったはずだ」
「そんなの……やってみないと分からないじゃないか……」
唸るようなジーニアス君の反論に、アレクシア様はクッと笑いを噛み殺す。
「今まで何ひとつとしてやろうとしなかったお前がか? 笑わせるな」
「兄さんがいれば違っていた! ……そうだ。兄さんはあの暗殺者だって倒したんだ! あの時、後ろから不意打ちさえされていなければ……まともに戦えさえすれば、兄さんは殺されなかったはずなんだ!」
青い瞳が、迸る熱を帯びてアレクシア様を睨みつける。
「本当に、そう思うのか?」
対峙する赤色の瞳は、どこまでも冷ややかだ。
「皇帝が直接命令を下すくらいだ。ルディオスを殺害した暗殺者は選りすぐりの精鋭だったはずだ。それほどの人間が、九歳の子供とまともに戦ってやられるとは思わない」
「だけど、兄さんは実際に……」
そう。ルディオス君は、ジーニアス君の体で暗殺者と戦い打ち勝っている。
彼自身がそう証言していた。
暗殺者が死んでいることも、自分の手で確認したと。
アレクシア様は、「これは想像でしかないが……」と前置きし、先を続けた。
「暗殺者はお前の赤い瞳を見てルディオスだと勘違いしたのではないか? 自分が殺したはずの男が何故か目の前にいて、息を吹き返している。当然、暗殺者は困惑し、手元が狂った。そしてルディオスの遺体を確認しようとして、隙ができた。そこを叩けば、九歳の人間でも形勢逆転となる可能性はある。ルディオスは剣術の腕だけは評価されていたからな。だが、お前はこれを『まともに戦った』と言えるのか? どう考えても不意打ちをされたのは暗殺者の方だ。それも、完全に予測のできない不意打ちだ」
ジーニアス君は何も言わず、ただ静かにアレクシア様の話を聞いていた。
何も反論がないのを見て、アレクシア様は短く息を吐く。
「あくまでも、ただの想像だがな。それと、お前が国外へ逃げ出せたのは、ルディオスの死体があったからだ。もしも居なくなったのがルディオスであれば、即座に包囲網を敷かれていた。そんな状況では、たとえ僕の父親が手を貸したところで、お前を国外へ逃がすことはできなかっただろう」
そう付け足すと、アレクシア様は優雅な動作でティーカップを持ち上げお茶を飲んだ。
「じゃあ、僕たちはどうやっても、無駄だったの……? 最初から、兄さんが死ぬことは確定していたってこと……?」
釈然としない様子で、ジーニアス君は誰にでもなく問いかける。
視点の定まらない青い瞳が、行き場を失ってしまったかのようにゆらゆらと宙を彷徨う。
今の話に衝撃を受けたのは私も同じだった。
ジーニアス君にも、私たちと同じ奇跡が起きていたのならと、何度も考えた。
けれど、ルディオス君が生き長らえる未来を実現するには、あまりにも障壁が大きすぎる。
ただ時間を回帰したくらいでは、二人の未来は切り拓けない。
――じゃあ、どんな奇跡が起きていたら、二人は一緒に生きていられたの……?
ふいに、小さく笑む吐息が聞こえた。
「やっぱりずるいよ……。あなたたちは……運命を覆す力があって……実際に運命を覆して……。奇跡にまで恵まれて……」
ズキンッと、胸が痛む。
「辛かったこともすべて、無かったことに出来たんだから」
「は?」
次の瞬間、アレクシア様の顔から表情が消えた。
「無かったこと、だと?」
ドスの効いた声を轟かせながら、アレクシア様はジーニアス君を睨みつける。
その声に、ジーニアス君は僅かに肩を揺らすも、負けじとアレクシア様を睨み返した。
「だって、やり直したんでしょ? 今、あなたの体は動いているし、あなたもマリエーヌさんも生きているじゃないか」
「それでも、僕がマリエーヌを死に追いやったという事実は決して覆らない。僕の脳裏には、あの時の光景が今も鮮明に焼き付いている」
アレクシア様の膝に置かれた手が、再び拳を握り込む。
「僕は何もできなかった……。マリエーヌが、あの女に傷つけられている時も。レイモンドから一方的に責められている時も。マリエーヌが僕の代わりに刃を受けようとしていた時も。僕は、何ひとつとしてできなかった……! 何もできなかった!」
伏し目がちだった赤い瞳が、ギロリとジーニアス君を睨みつける。
「あの時の僕と、今のお前とでは、どちらが無力だ?」
「……」
首を竦めるジーニアス君に、底冷えするような声が追い打ちをかける。
「お前を見ているとイライラする。何もできないと言いながら、何もやろうとしないお前が心底腹立たしい。そのくせ自分の事は棚に上げて、文句だけはよく口が回るものだ。お前はいったい何がしたい? 不幸な奴、可哀想だと、誰かに哀れんでもらいたいのか?」
「……そ、そんなことは……」
アレクシア様の迫力にのまれるように、ジーニアス君の声が縮こまる。
その言葉を最後まで聞かずして、アレクシア様は続けた。
「お前の言う通り、僕にはお前の気持ちなど微塵も分からない。そもそも興味がない。だが、お前にだって、僕の気持ちは分からないだろう。自分にとってかけがえのない大切な人が、目の前で傷付けられているのにもかかわらず、守る事もできず、ただ見ている事しかできなかった僕の悔しさを。目の前で、命の灯が尽きようとしている最愛の人に、寄り添う事もできない絶望を! 身を焼かれながら、神に懇願することしかできなかった僕の惨めさを!」
徐々に激しくなるアレクシア様の怒号に連動するように、ビリビリと空気が振動する。
「お前が無力だと? ……ふざけるな。お前は、あの時の僕が望んだもの全てを持っている。お前が手にしているそれは、あの時の僕が、悔しさにどれほど心を掻きむしられようとも、腸がちぎれるほどの悲しみに打ちひしがれようとも、決して手に出来なかったものだ」
ジーニアス君が、僅かに目を見開く。
「それでもお前は、無力だからできないと、まだぬかすつもりか?」
「……僕は……」
開いた口は、その先に続く言葉を紡ぐことなく、ゆっくりと閉じられた。
力が抜けたように肩を落とし、項垂れる。
そんなジーニアス君の姿を、私は静かに見つめていた。
重い沈黙が部屋を満たす。
誰のものかも分からない呼吸の音が時折聞こえてくる。
「マリエーヌ」
ふいに呼ばれ、私は少し慌てて顔を上げた。
すぐ目の前には、いつも私に向けている穏やかな微笑みがある。
「すまない。朝食をまだ食べていなかっただろう。すっかり遅くなってしまったが、食事の用意はできているはずだ。僕はまだ少しやらなければならないことがあるから、朝食は一緒に食べられそうにない。本当に申し訳ない。昼食は必ず一緒に摂るようにするから……」
申し訳なさそうに眉尻を下げながらそう言うと、ジッと私を見つめる。
私は咄嗟に言葉を返せず、二拍ほど遅れて返事をした。
「……はい。分かりました。ですが、あまりご無理をなさらないでください」
「ああ。ありがとう。マリエーヌ」
安心したように顔を綻ばせると、アレクシア様はすぐに立ち上がり、ジーニアス君には見向きもせず足早に退室した。




