29.無力な人間
左手の処置を終えて、私は話を聞くためにジーニアス君をソファーへと誘った。
私の声掛けに、最初は何も反応を見せなかったけれど、何度か声を掛けたり肩を叩いたりするうちに、ジーニアス君はようやく私を見てくれた。
まるで迷子になった子供のように、ジーニアス君は無言のまま私の後ろを付いて歩き、ソファーへと腰掛けた。
私とアレクシア様が向かい側のソファーに並んで座ると、見計らったようにローテーブルに三人分のお茶が用意された。
お茶を淹れてくれた侍女にお礼を告げると、彼女は丁寧に一礼し、速やかに部屋から退室した。
「……」
虚ろげな青い瞳は、膝に置かれている左手の甲をジッと見つめ、唇は固く閉ざされている。
――やっぱり、ジーニアス君で間違いないのよね……。
ルディオス君の言っていた通り、ジーニアス君は戻ってきた。
およそ二ヶ月ぶりとなる再会を喜ぶべきなのだろうけれど、それを手放しで喜ぶことが出来ないのは、ルディオス君のことがあるからだ。
――ルディオス君……本当にいなくなってしまったのかしら……。
私は、包帯が巻かれているジーニアス君の左手へ視線を向ける。
私を呼びに来てくれた侍女の話によると、彼女がジーニアス君の部屋の前を通りかかった時、兄を呼ぶ彼の叫び声が聞こえてきたという。
しばらくして声は静まったけれど、何か不吉な予感がした彼女は、部屋の扉をノックした。
けれど、いくら待っても返事はなく、恐る恐る扉を開けて中を確認したところ、ペーパーナイフを手にしたジーニアス君が自らの手を突き刺していたのだという。
どうして彼はそんな行動に走ったのか。
何か目的があったのか。
昨夜のルディオス君の話と、今の彼の様子を照らし合わせると、答えは容易に想像できた。
きっと、ジーニアス君はもう勘付いているのだろう。
自分の中から、兄の存在が消えてしまったことを。
だから、彼は――。
「ジーニアス君。もしかして、ルディオス君と入れ替わろうとして、自分を傷つけたの?」
私の問いかけに、膝の上に置かれたジーニアス君の左手がピクリと反応する。
返事はない。
けれど、左手の指先が膝を引っ搔くようにして握りしめられ、白い包帯の表面がじわりと赤く染まった。
「あ……力を入れたら傷が開いてしまうわ!」
「どうでもいいよ」
身を乗り出した私を、冷たく放たれた声が制止した。
ジーニアス君は顔を上げ、私を見る。
疲弊しているように見えるのに、私を真っすぐ見つめる青い眼差しは、確かな熱を帯びていた。
まるで標的を定めたかのような攻撃的な視線に、私は少しだけ身を引く。
「僕のことなんてどうでもいいよ……。それよりも、どうして兄さんはいなくなったの? あなたたちが、兄さんに余計な事を吹き込んだんじゃないの?」
どうやらジーニアス君は、兄が消えた理由に私たちが関係していると思っているらしい。
――やっぱり、ルディオス君が居なくなったことは知っているのね……。
だけど、その様子から察するに、私がルディオス君と交わした会話の内容までは把握していないのだろう。
恐らくは、彼が姿を消していた、およそ二ヶ月間の出来事も彼は知らない。
自分を傷つけてまでルディオス君を呼び戻そうとしたのだから、こちらの伝え方によっては、またジーニアス君がどのような行動に走るか分からない。
――ここは慎重に、言葉を選んで伝えるべきよね……。
そう思っていた矢先、アレクシア様がさらりと告げた。
「僕たちは何も言っていない。ルディオスが自分で選んだだけだ。お前を生かすために、自分が消えることを」
あまりにもストレートな言葉に、私は内心焦った。
けれど、ジーニアス君の反応は思いのほか薄かった。
少しだけ目を伏せると、ぽつりと呟いた。
「だからって……兄さんが消える必要はないじゃないか……」
「そうでもしなければ、お前は内側に閉じこもったまま出てこなかっただろう」
「そうだよ。だって、僕よりも兄さんが生きていた方がいいに決まってるじゃないか」
そう言うと、ジーニアス君はソファーにもたれかかり、うっすらと笑みを浮かべた。
自嘲的な笑みなのに、どこか挑発的にも思える彼の態度に、なんとも言えない緊張感が私たちを包み込む。
「だいたい、僕が生きていて何の意味があるの? 兄さんと違って、僕は剣を握って戦うこともできない。体力も根性も人望だって無い。皇族だと証明する証だって持っていないんだ。唯一僕に価値があるのだとしたら、僕の体の中に兄さんが居たってことだけ。だけど、その兄さんまで僕の中からいなくなってしまった。もう、僕には何もない。あなたにとっても、僕は何の価値もない人間になったんじゃない? マリエーヌさんがいる手前、表立って態度に見せていないだけで、本心では僕のことなんて相手にするだけ無駄だって、そう思ってるんじゃないの」
淡々と言葉を連ねるルディオス君の表情は、自嘲的な笑みを保ち続けている。
けれど、膝の上で固く握りしめられている拳の包帯は、じわりじわりと赤い面積を増していく。
もしかしたら、傷が開いてしまったのかもしれない。
「皇族の証がなくとも、お前が正式な皇族であることは証明できる」
「証明したところで意味はないよ。皇帝としての資質も僕にはない。それに、僕があなたの計画に加わったところで、自分の身も守れずに死ぬだけだ」
そう言うと、ジーニアス君は両手で顔を覆い隠し、深く項垂れた。
「だからもう、放っといてよ……」
バタンと、彼の心の扉が硬く閉ざされた気がした。
きっと、どんな慰めも、励ましの言葉も今の彼には届かない。
けれど、それでも……。
ルディオス君からは、彼のことを託されている。
だからこのまま、彼を見放す訳にはいかない。
ジーニアス君のためだけではなく、ルディオス君のためにも……。
「ルディオス君は、ジーニアス君ならできるって信じていたわ」
「……」
反応はない。
けれど、もう一度私は扉を叩く。
「それに、あなたは一人じゃないわ。ここにいる皆は、あなたの味方よ」
「僕はそう思わない。勝手に期待されても、失望させるだけだ」
心の扉は開かないまま、言葉だけが返ってくる。
こんなにも自分を卑下する彼の姿は、かつての自分を彷彿とさせる。
きっと彼も、そうやって自分を否定しながら生きてきたのだろう。
その気持ちは私にも分かる。
縮こまる彼の背中が、やけに小さく見えた。
昨日見たルディオス君の背中は、もっと大きかったはずなのに……今はこんなにも心許ない。
そんな彼の背中に、果たして皇帝という計り知れない重荷を背負わせるべきなのか……。
皇族としてではなく、一人の人間として、未来を選ぶ権利は彼にだってあるはず。
それなのに、私たちはまだ、彼がどうしたいのかを聞いていない気がする。
「確かに、おまえのような甘ったれた人間が、皇帝になれるとは思わないな」
真顔で言い放ったアレクシア様の言葉に、思わず目を剥いた。
――アレクシア様……ルディオス君とのお約束をお忘れですか……?
もしもルディオス君がこの場に居たならば、間違いなく「話がちげーだろ!」と食ってかかっていたと思う。
それなのに、アレクシア様は全く悪びれる様子もなく白けた眼差しをジーニアス君に向けている。
ジーニアス君は、顔を覆い隠していた手を退けると、小さく笑んだ。
「あなたには分からないよ……。僕みたいに何の力も持っていない、無力な人間の気持ちなんて……絶対に、分かるはずがない」
完全に諦めの表情となり、ジーニアス君は落胆するように肩を落とす。
対して、アレクシア様は親指で軽く顎を撫で、
「無力、か……」
そう呟くと、フンッと鼻先で笑い飛ばした。
「お前のどこが無力だと?」
「……?」
その言葉に、ジーニアス君は僅かに眉を顰めてアレクシア様を見る。
「お前は持っているだろう。何不自由なく動く体を。それがあれば、何かを実現させることができる」
「……言っている意味が分からない。僕に求められているのはそういう次元の話じゃない」
「お前が無力を言い訳にするのなら、根本は同じだ。お前は『できない』のではない。『やらない』だけだ。お前は、何でもできるくせに何もやろうとしていない」
淡々と言葉を返すアレクシア様を、ジーニアス君はキッと睨みつける。
「あなたなら、体ひとつあれば何でもできるだろうね。だけど、何の力も持たない僕には何もできない。だからやらない。どちらも一緒だ。こんな事を言ったところで、あなたには分からないだろうけど」
「分かっていないのはお前の方だ」
間髪入れず、アレクシア様が言い放った。
その語気の強さに、ジーニアス君が思わずというように目を見張る。
――アレクシア様……?
剣呑とした表情でジーニアス君を睨む姿は、かろうじて冷静さを保っているように見えるけれど、どこか危うさを覗かせている。
「無力な人間には、『やらない』という選択肢さえ与えられない。『できない』の一択だけだ。本当の無力も知らない人間が、無力を口実に逃げようとするな。不快極まりない」
怒気を帯びた低い声が、誰も手をつけようとしないお茶の水面を微かに揺らす。
気付けば、アレクシア様の両手もきつく拳を握り込んでいた。
その甲には、くっきりとした血管が浮き上がり、小刻みに震えている。
赤い瞳には憎悪の色が混ざり合い、その矛先はジーニアス君へと向けられていた。
アレクシア様が放つ只ならぬ空気を、ジーニアス君も読み取ったのだろう。
少しだけ体を萎縮させながら、神妙な面持ちでアレクシア様の様子を窺っている。
一触即発の雰囲気が漂う中、私はアレクシア様の右手にソッと手を重ねた。
「アレクシア様」
呼び掛けると、ピクっと僅かな反応があり、右手の震えは止まった。
同時に、張り詰めていた空気が和らいだ。
アレクシア様は、深く息を吐き出しながら、力が抜けるように肩を落とす。
私に視線を向け、「すまない。マリエーヌ」と、囁くような謝罪を口にし、ジーニアス君へと視線を戻した。
「そういえば、今日は話をする約束だったな」
落ち着き払った声で告げられて、
「……約束?」
と、ジーニアス君は全く覚えがないように首を捻る。
その反応は当然だ。
アレクシア様が約束した相手は、ルディオス君なのだから。
「知りたかったのだろう? 僕がマリエーヌを好きになった理由を」
「……!」
ジーニアス君が、短く息を呑む。
約束をしたのはルディオス君だけれど、ジーニアス君だって、それを知りたがっていた。
「望み通り話してやろう。僕たちの身に起きた、奇跡の話を」
アレクシア様の視線が、再び私へと移る。
まるで許可を得るように、ジッとこちらを見つめる赤い瞳に、私は微笑みながら頷いた。
それを合図に、アレクシア様はジーニアス君へと視線を戻し、静かに告げた。
「僕たちは、一度死んでいる」
ジーニアス君の青い瞳が、大きく見開かれた。




