コミックス3巻発売記念SS 公爵様の練習相手 ~リディア~
時系列としては、今世でスザンナが公爵邸を訪れる数日前のお話になります。
本日の業務終了後、またもや公爵様からお呼びがかかった。
行きたくないなぁと、げんなりしながら執務室を訪ねると、公爵様は執務机で本を読んでいた。
手にしているのは、私が公爵様のために用意した恋愛小説の一つだ。
「リディア。そこの壁を背にして立ってみろ」
唐突に言われて、私は全く訳が分からないまま、とりあえず近くの壁へと寄った。
「……こうですか?」
指示された通り、壁を背にして立つ。
すると、公爵様は本を置いて立ち上がり、こちらへと歩み寄ってくる。
――え、なに……? 怖……。いや……いやいや近い! こっち来ないで!
思わず後ずさるも、背後の壁に阻まれすぐに追い詰められた。
公爵様は、私の目前で立ち止まるとギロリとこちらを見下ろす。
その狂気じみた形相に、喉の奥から「ひぃっ」と小さな悲鳴が零れた。
――ほんとに何!? 私なにかやらかした⁉ 助けてマリエーヌ様‼
恐怖のあまり目尻に涙が滲む。
身を捩りながら、心の中で必死にマリエーヌ様に助けを求めた。
その時だった。
ダァンッ‼ という轟音が私の真横で聞こえ、風圧に煽られる。
突然の出来事に、一瞬、心臓が止まった気がした。
しん……と静まり返る中、私は恐る恐る隣を見る。
私の顔のすぐ横で、公爵様は壁に手をつけていた。
急に立ち眩みがして手をついた……というわけではないことは目前の顔を見れば分かる。
「リディア」
ドスの効いた声で名を呼ばれ、ビクゥッと体が飛び跳ねる。
さっきから冷や汗が止まらない。
やはり私は、何かとんでもないミスをやらかしたのかもしれない。
ドクドクドクと、心臓の鼓動が激しさを増していく。
すると、公爵様はなにやらものすごく不満そうな顔で溜息を吐き出し、口を開いた。
「どうだ? 動悸はするか?」
この状況で公爵様が何を言っているのかよく分からないが、こんな魔王のような風貌の男に凄まれて、動悸がしないほど毛が生えた心臓なんて私は持ち合わせていない。
ごくりと唾を飲み込み、慎重に頷いた。
公爵様は僅かに眉を顰め、軽く首を傾げる。
「ならばお前は、異性からこんなことをされて嬉しいのか?」
公爵様には、今の私の顔が嬉しそうに見えるのだろうか。
だとすれば、今すぐその両目を取り換えた方がいい。
「いえ……全く嬉しくありません……」
直後、公爵様が小さく舌打ちする。
「だろうな」
公爵様は壁から手を離すと、さっさと踵を返して執務机へと戻っていく。
緊張の糸が切れた私は、へなへなとその場にへたり込んだ。
――殺されるかと思った……。
呆然とする私の先で、公爵様は机に置いていた本を手に取り、深い溜息を吐いた。
「お前の用意した恋愛小説とやらを参考にしてみたが、全く役に立たないじゃないか」
「…………はい?」
こてんと首を傾げると、公爵様は再び私を睨んでくる。
「お前が言ったのだろう。女性が憧れるシチュエーション、口説き文句がこの中に詰まっていると」
「それは……確かに言いましたが……。え……まさか今のが……?」
「そうだ。このシーンを再現した」
公爵様は本を開くと、腰が抜けて動けない私の目の前に掲げた。
゛すぐ目前で、確かな熱を帯びた瞳が私だけを見つめている。
これ以上、アレス様に見つめられるとどうにかなってしまいそうで、私はそっと視線を逸らした。
すると、私のすぐ横でトン……と、アレス様が壁に手をつく。
「メイリーナ」
甘い声で名を呼ばれ、ドクンッと鼓動が高鳴った。
アレス様の顔が先ほどよりも近く、もう視線を逃すことはできない。
アレス様の吐息が唇に触れ、心臓が早鐘を打ち始める。
「君を愛している」
その言葉に、体中が痺れるような感覚と共に心が歓喜に満ちていく。
もう、彼の愛から逃れることなんてできない。
たとえこれが許されない恋であろうとも――。
「私も、アレス様が――」 ゛
「ちょっと待ってください」
思わず頭を抱える。
「まさか……このシーンを再現したのがさっきのあれですか?」
「ああ、そうだ」
しれっとした顔で頷くと、公爵様は本を閉じて持ち直す。
私はワナワナと震えながら公爵様を睨み返した。
「いやいやいや……何もかも違い過ぎるんですけど! 確かにドキドキはしました。しましたけど、あれは異性に対するときめきなんかじゃなく、生命の危機に瀕した時に伴うただの生理現象です! っていうか、私に向ける眼差しも名前を呼ぶ声も壁に手をつく動作も、どれもこれも小説のシチュエーションとぜんっっぜん違うじゃないですか! 公爵様のは意中の女性に向けるような態度じゃありません! あれはどう考えても積年の恨みを持つ相手に対するものです! こっちは本気で殺されると思ったんですから!」
そもそも告白すらされていない。
いや、されても困るんだけど。
「仕方がないだろう。お前はマリエーヌじゃないからな。僕だって好きでやったわけではない」
「じゃあ最初からやらないでくださいよ!」
「そういうわけにもいかない。練習は必要だ」
「え……? 私、公爵様の練習相手にされていたんですか……?」
「他に何がある」
いや……そうかもしれないけど……。
待って。
それってつまり、今後も公爵様の練習相手として、さっきと同じようなことが起こりえるってこと……?
ただ壁トンを再現されただけでこれなのに……?
冗談じゃない。
こんなことでいちいち寿命を縮めさせられるなんて、たまったもんじゃない。
断固として拒否する……!
気力だけでなんとか立ち上がり、私は公爵様に向かってビシッと人差し指を突き立てた。
「公爵様。勉強熱心なのは素晴らしいことだと思うのですが、こういうことを別の女性で試すのはよくありません! 公爵様も、マリエーヌ様が他の異性相手と練習だからと言っていちゃつくのは嫌ですよね⁉」
ハッとしたように公爵様が目を見開く。
直後、その瞳がスゥッと細くなり、影が落ちた。
「殺す」
「ええ、そうなりますよね。もちろん、マリエーヌ様は決してそんなことはしませんけど」
公爵様から滲み出る殺気をなんとかやり過ごし、私はしっかりと念を押す。
「とりあえず、こういうことはもう二度としないでください」
「そうだな……。しかし、いきなり実践するというのもな……」
思案顔となる公爵様に、私は胸を張って助言する。
「練習が悪いとは言っておりません。相手が女性でなければいいのですよ」
「……そうなのか?」
「はい。ジェイク様とか」
「……なるほどな。ならば次からは奴を練習相手にしよう」
キリッと表情を引き締める公爵様を前に、私は心の中でガッツポーズを決めた。
――ごめんなさい、ジェイク様。あとはよろしくお願いします。
その後、念のために壁トンのレクチャーだけはさせてもらったけど、それほど改善しなかった。
だけど、公爵様の場合はマリエーヌ様が相手なら私のような事態にはならないと思う。
それ以来、私は公爵様の練習相手として呼ばれることはなかった。
時折、服装を乱したジェイクさんがよろよろと執務室から出てくるのを見かけるけど、何も訊かずにそっとしておくことにした。




